BOY•MEETS•WORLD

南城里奈

出会い

車から降りて、思わず「さむっ」と呟いてしまう。

「こんなに寒い場所は初めてだな」

 ぎこちない空気をどうにかするかのように、父さんは言う。

「……うん」

 とは言え、僕もうまく話し出すことができない。

 手持ち無沙汰に手を擦り合わせたが、カサカサと音を立てただけだった。


 僕たちは、いわゆる転勤族というやつだ。何度転校をしたのか、数えたくもない。

 どうせ、心を許す友達もできないまま、僕はまたこの中学校を去っていくんだろう。


 上を見上げると、僕のような灰色がかった雲が、すっぽり空を覆い隠していた。父さんがいる方を見てみると、僕の事をじっと待っていた。

「もう行っていいよ」

「ん、そうか」

 別に待たずにさっさと先に行ったっていいのに、と思うが口にはしない。

 お互い不自然な距離を保ちながら、学校に入った。


 「いや~寒かったでしょう?」

 ちょっと丸いフォルムの校長に出迎えられた。

 校長室に入ると、生暖かい空気が体を包んだ。

「いや~、こちらは冷えますね」

 茶色い革張りのソファに腰掛けながら、父さんが話し出す。

 こうなると、もう大人の世界だ。こういう時ばかり、父さんは場を持たせるのが上手い。僕との時は、こうはスムーズに会話ができないのだ。

 二人の声をBGMに、僕は世界に一人取り残された。窓の外は、真っ白な銀世界だ。

「あと少しで案内の生徒が来るから待っててね」

 僕に話しかけていたらしい校長が、後ろの壁時計を見てから言った。

「えっ」

 突然話しかけられ、思わずビクついてしまったが、気にすることなく校長は話し続ける。

「あと十分くらいで、お昼休みになるんだよ。そうしたら、君のクラスメイトになる子がここまで来てくれることになってるんだ」 

 ニコニコと話す校長に返事をしない僕を見て、慌てたように父が背を縮めて答える。

「申し訳ないです、思いの外早く着いてしまって。何処かで時間を潰そうとも思ったんですが……」

「いやいや、とんでもない。ここらには何もないですからな」 

 大きく手を振って、ハハハと豪快に笑う校長に父が愛想笑いを返した。

 途端、僕は気分が悪くなってきた。体の奥から、吐き気が催してくる。

 まただ……、また始まってしまった。僕は転校を繰り返すうちに、何故だか直ぐに具合が悪くなるようになってしまった。

 その感覚は唐突で、僕自身も予測することができないのだ。当然、父さんはこのことを知らない。

 もうどうすることもできず、僕は椅子から飛び上がるように立ち上がった。

「どうしたの?」

 校長が、僕の突飛な行動に少し目を丸くした。

「あのっ」

 どうしよう、本格的に気持ちが悪くなってきた。何も食べてきていなくて良かった。

 言い表せない不快感が、体の底に渦巻いている。

「僕っ、外にいます」

 隣で、父さんが体を強張らせる雰囲気がした。何をまた余計な事を、というやつだろうか。

「いやー、でもすごく寒いよ?」という校長に、「大丈夫です」と、早口に返して直ぐに目線を逸らした。

 僕は、滅多に人と目を合わせない。

 絡み合った目線が、いつだって僕を責めているように感じるのだ。

 もしかしたら、考え過ぎかもしれない。いや、実際多分そうなのだけれども、その考えが捨てられなかった。

 

「もう少し、ここにいたらどうなんだ?」

 心配そうに覗き込んでくる父さんに、言ってやりたくなる。父さんが不安なのは、体裁だろって。

「いい」

 邪険に僕は言った。こういう時だけナチュラルに距離を詰められると、どうして良いのかわからなくなってしまう。

 父さんが忙しいのも、母さんの代わりになろうと男手一つで頑張ってくれているのも、わかっているつもりだ。

でも、小さい頃からろくに話した記憶のない父親と、今更どうやってコミュニケーションをすれば良いのか、わからない。

 それに、僕は知ってるのだ。

 ときどき父さんは俺を見つめながらも、透かして母さんの面影を見つめている。そこに、僕はいないのだ。

「本当に? もう少しで、迎えのクラスの子が来るけど」

「大丈夫、大丈夫ですっ」

 もう耐えられない。父さんの静止の声を聞きながら、僕は校長室を飛び出した。

強めに閉めたドアの音が、廊下に大きく響く。

「はぁーー」

 息が白くなって、瞬く間に空気に紛れて消えていった。ドアの奥から、もわもわと濁った二人の話し声が聞こえてくる。どうせ、僕のダメっぷりを話し合っているに違いない。いっそ問題児なんですと、はっきり言ってくれたらいい。


 辺りは静まり返って、僕の息をする音くらいしかわからない。

 案内役だという生徒が来る様子は、まだなかった。留まっていても凍えるだけなので、とりあえずそこらを歩いてみることにした。

 かと言って、校舎を見る気もしなくて新品の上履きを眺めながら歩く。

 キュッキュッと、ゴムが擦れる音が廊下に響く。つま先のゴム部分は、映えるような緑だ。前の学校同様に、カラーで学年の識別をしているらしい。

 足音、呼吸。聞こえるのは、僕の出す雑音だけ。


 高校の転校は、これで二回目だ。母さんが生きていたなら、卒業までいただろうけど、その母さんはもういない。なぜもう母さんがいないのかは、もう考えないことにした。

 あいにく卒業まで預かってくれるような親族もなかったから、残るという選択肢はなかった。

 でもそれで良かったんだと思う。あそこには、母さんとの思い出が沢山あったと思うから。きっと、壁のシミ一つでも、思い出が蘇ってしまう。だから、始めから無でいるのが楽なのだ。今回の転校だって、すぐにおさらばだからなんだっていい。


 最初の転校は、小学校三年生の時だった。別れ際、仲の良いクラスメイトたちは連絡すると言ってくれた。

 実際、始めの頃は何回か連絡をとりあった。新しい学校のこと、クラスメイトのこと、今日あった面白かったこと。その内に、歯車が狂い出した。学校の流行りが通じなくなり、共通で盛り上がれることが無くなった。夢のような時間が、嘘のように気まずくなって、相手の考えていることが、霞みがかったように見えなくなった。

 そしてパッタリと連絡が途絶えた。

 僕がいなくても、みんなの時間は通常通りに進んでいくとわかると虚しかった。

 その後、関東から関西まで色々な学校に転校して、何度も同じ経験をした。

 そして、ようやく僕は悟ったのだ。仲が良いと思っていたのは自分だけで、あの子たちにとって、僕は別にいてもいなくても変わらない。僕は動物園にやってきた少し珍しい動物だったに過ぎず、時期が過ぎれば別に何にでもない存在なんだと。

 僕は変わった。転校先で、変に愛想を振り撒くことは無くなった。人と馴れ合うこともやめて、誘いも全て断った。そうしたら、近づく人がいなくなった。独りになった。身の回りがメントールのようにすーすーして、何も気にすることがなくなったと思うと、身が軽くなった。けれど、どこか……。

指先がじんじんしてきて、僕は両手を擦り合わせた。


寒い。寒い。寒いのは嫌いだ。


「こんにちは」

 突然聞こえた声に、僕は顔を上げた。廊下の窓ガラスの近くに、女の人が立っている。窓ガラスと体を向かい合わせにして立ち、顔だけを僕の方に向けている。あんなに窓の傍にいて、寒くないのだろうか?

 彼女は胸元に真っ赤なリボンをつけていて、リボンは陶器のように真っ白い肌を引き立てるためにあるかのようだった。俺のネクタイは緑色だ。大抵の学校は、学年ごとに色が違ったりするから、彼女は二年か三年生なのだろう。

 他に人がいるのかと後ろを確認したが、誰もいないようだった。とりあえず会釈をすると、彼女はもう一度同じ挨拶を繰り返した。

二度も言われるとさすがに自分も言わなければならないと思い、

「こん、にちは」 

 と僕が言うと、彼女は朗らかに笑った。自然な笑顔に、僕は通り過ぎようと踏み出した足をその場にとどめた。

「君、新しい子?」

 シンとした廊下に、彼女の声は溶け込むように響いた。

「あ、はい」

「やっぱり! 初めて見る顔だもの」

 彼女の顔が、華やぐようにパッと輝く。

「えっと……」

 言い淀んで、彼女が自分の名前を呼んでくれようとしてることを察した。

「あっ、下見です」

「下見くん」

「はい。あの、先輩のお名前は」

「え、先輩?」

 彼女は目を丸くしてから、「センパイ……せん、ぱい」と舌で転がすように言って、おかしそうに笑った。何か変なことでも言っただろうか。

「なんだか新鮮な響き、それ」

「えっ?」

「センパイ、だって」

 僕じゃない誰かに向かって話すような言い方をすると、先輩はコロコロと笑った。ちょっと変わった人だ。

 彼女はとてつもなく美味しいデザートに出会ってしまったかのように幸せそうな顔をして、「センパイ」と繰り返す。

 もう一年間が終わってしまうけど、この人には今まで後輩と呼べるような人がいなかったのかもしれない。ずっと一人。そう思うと、勝手に親近感がわいた。

「先輩のお名前は?」

「名前?」

 まるで、聞かれることなど微塵に思っていなかったように、先輩は言った。

「はい」

「名前、ねぇ……」

 と、先輩は垂れ目を少し細めて、懐かしむように窓の外を見た。

「つばき」

「えっ?」

「つばきよ。みんなそう呼ぶもの」

 苗字、ではないよな? それにしても下の名前だけ?

 先輩はフワフワしているようでいて、今まで出会ってきた人とは全くタイプが違う。掴みどころがないというんだろうか。

 先輩の目が、じっと僕を見つめてくる。けれど、どこまでも、吸い込まれていきそうな透明感のある黒い瞳。

 僕は不思議とその目を見つめ返すことができた。

 良いも悪いも、何も感情が伝わってこないのが、逆にいいのかもしれないと思った。

 やっぱり先輩は変わった人だ。

「あの、ツバキ先輩はどうしてこんなところに?」

  僕は、もう少しこの人と話してみたくなって、話題を振ってみた。ツバキ先輩は、少しの間の後に、首を傾げながら言った。

「うーん、待ってるのかな?」

 と、自分でもよく分からなそうにツバキ先輩は言う。

「待ってる?」

「そう、待ってるの」

 窓の外を見るツバキ先輩は、どこを見ているのだろう?

「でもね、待ちきれなくて早くきちゃった」

「いったい……誰の事を?」

 呟くように言った僕の声は、静まりかえる空間に溶けてしまうくらいの声量だった。

 先輩は、とうとう答えることはなかったけれど、寂しいけど、愛おしくて仕方ない、そんな顔をしていた。

「でもね、あなたのことも待ってたの」

 さっきまでの表情は何だったのか、先輩は一変してお茶目に笑った。

「えっ、僕?」

「そう、あなたも」 

 どうして僕の事を、そう問おうとしたとき、先輩がふっと視線を右に移した。僕もそちらに目を向けると……。


「おーい」

 僕のいる場所と別棟を結ぶ渡り廊下から、僕と同じ色のリボンを付けた学生が、手を振ってきた。

 声を掛けてきたのがポニーテールをした眼鏡をかけた女子で、その横にも女子が一人。後ろから男子二人が小走りで追いかけてくる。

「君が、転校生の下見君?」 

 二人の女子のうち、ポニーテールの女子が話しかけてくる。

「そう、ですけど」

「私はクラス委員の野中。これからよろしく。こっちは三森」

「よろしくねー」

 と、その横にいた二つ結びの女子が手を振ってきた。

「よろしくお願いします」

「うぉっしゃー男子だ! ほら見ろ、男だっただろー」

 後ろから来ていた男子の一人が、もう一人の男子に大声で叫ぶ。

「オレ、男子が来るに賭けてたんだよ。オレは北里」

と、僕の肩に手を回してきた。随分と馴れ馴れしい。

 また僕は珍獣扱いなのか、と冷めた気持ちになる。

「やめなさいよ、あんたのせいで下見君が怖がってんじゃない」

 仁王立ちのようにして、野中さんが北見に向かって言った。

「あっ、えっ? わりっ、ついオレの悪い癖でさ」

ホントごめん、と手を回したまま土下座されるんじゃないかってくらいの勢いで、頭を下げられた。

「いや、大丈夫……っ」

 彼の両手が僕の肩にかかってるから、そのまま僕もつられて、二人でお辞儀状態になる。お、重い。

「あの、大丈夫だから……」

「北里迷惑!」

「あいてっ、何すんだよ三森」

 どうやら、手の形から考えるに、北里の頭に三森さんの手刀が降り下ろされたようだった。

「こいつに頭下げる必要なんてないんだからねっ」

「なっ、なんだと!?」

 頭を擦り合わせるんじゃないかというくらいに、二人は睨み合って言い合いだした。そうして二人が言い争っている隙を狙って、僕は頭を元に戻した。

 二人はすっかり僕の事を忘れているみたいだ。

「下見君は東京から来たんでしょ? 冬って雪このくらい降るの?」

 と、野中さんから声がかかった。結構な強さと争っているように見えるが、二人の事は、もはや気にしていないらしい。

「いや、さすがにここまで降らないですけど、二センチとかそれくらいで、すぐ雨に変わります」

「え~それいいな」

 野中さんが、目を丸くしながら僕に答える。

「逆に次の日に地面が凍っちゃったりして、結構危なかったりするんですけどね」

「へぇえー」

と、今度は三森さんがこっちにやってきて相槌を打つ。

「なあ、女子とばっか話してずりぃ」

と、間に北里が入ってくる。いや、別に女子を独り占めしてたつもりはないんだけどな……。

「アンタだって、これからいくらでも話せるでしょうがっ」

 三森さんは北里に言い放つと、もう一人の男子と話し出した。まだ話したことはないが、北里とは反対のタイプそうだ。

北里は、完全に三森さんが離れたのを確認すると、そっと僕の耳元に口を寄せた。と言っても、声は大きいのだが。

「女子ってさ、チョーこえーじゃん?」

「はあ……」

 と、僕は曖昧に答える。

「例えばさ、あれよ」

 うやむやな僕の返事に、北里は俺の顔をしっかりと三森さんの方に向けさせる。三森さんは、まだ男子と会話をしていたが、こちらに気づいたようで目が合った。絶対聞こえてるってこれ。おかげですごく気まずい。

「ねえ、ちゃんと見てみ? 鬼のような面してんだろ? オレらのクラス、女子の方が多くてさ~、もう参ってるわけよ。だから仲間が欲しくってさ」

「そう、なんですね」

 北里は、とてもとても正直な性格をしているようだ。とは言え、確かにこの様子だと、男子は肩身が狭そうだ。

「あぁあああ、てか、敬語止めね? 俺らタメだろ」

 真っすぐな視線が、僕を見つめてきて、僕は思わず目を逸らしそうになった。けれど、そこに映っていたのは、なんの邪気も含まない、純粋な好意の瞳だけだった。僕はその眩しさに、返事もせずに北里を見てしまった。

「全部こっちに聞こえてんぞ、北里っ」

「ひぃいいっ」

 途端にぬくもりが離れて冷たくなったことで、僕は我に返った。ずんずんと、こちらに三森さんが近づいてくる。

「あ、ちょっと三森タンマ!」

「待つわけないだろっ」

「わぁぁあああっ」

北里が叫び声を上げながら、三森さんから逃げ惑う。

「鬼だーっ、ここに鬼がいますっ」

「うっさい北里っ」

「いやぁああああっ」

 僕は、目の前で繰り広げられるドタバタ劇をあっけに取られて見送った。パ、パワーが凄すぎる……。

「あいつら騒がしくてごめんな」

三森さんと話していた男子が、俺に話しかけてきた。北里と僕より身長が高い。

「あ、いや別に」

「あいつら、いつもあんな感じなんだ。だから気にすんな」

 溜息を零しながら、彼は言う。けれど、その口元は弧を描いていて、決して嫌な感じはしなかった。

「あ、はい」

「俺は河合純、よろしくな下見」

 手を差し出されて、僕はそれを握り返す。温かくて、僕より一回りも大きい手だった。

「よろしくお願いします」

「敬語はいいって、あいつに言われてただろ」

 ちらっと、河合が北里の方に目線を向ける。

「ああ、そうですね……あっ」

「直ってないぞ」

「……」

 僕の顔を見て、河合は小さく笑いを零す。

「はは、変わったやつだな、下見は」

「いや、そんなことはないけど……あれ?」

 ふと、僕はツバキ先輩の事を思い出して後ろを振り返った。

「ん? どうかしたのか?」

「さっきまで……」

 ツバキ先輩がいたのに、という言葉は続かなかった。どこかにまだツバキ先輩がいるはずだ。河合が、不思議そうに僕を見つめているのがわかった。

 いくら辺りを見回しても、そこには誰もいなかった。今の今までここにいたはずなのに。

「いや、何でもない……」

 先輩のことを聞けばいいのに、なぜだか僕は口に出さなかった。なんだか、話せば特別な時間が消えてしまうような気がしたからだ。

 彼らがやってきた方向に向かうように、僕たちは歩き出した。休み時間なのか、外に出てきた生徒たちが。僕たち一行を物珍しそうに見たりしている。

 だんだんと、ツバキ先輩といた時間が、夢のように曖昧になっていく。あれは、本当にあったのだろうか、それとも僕の頭の中だけの出来事だったのだろうか。

 前からは、相変わらず北里たちの騒がしい声が聞こえてくる。河合とは何か言葉を交わすようなことはしなかったけど、それが心地よく感じた。

渡り廊下に差し掛かると、一気に気温が冷え込んだ。

「大丈夫か?」

「平気、ありがとう」

「ああ」

「下見助けてェエエッ」

と、三森さんから逃げてきた北里が、僕の背に隠れる。

「北里、ひきょーなやつめ」

 背中越しに、北里がべーっと舌を出しているのがわかった。

 思わず僕は、吹き出してしまう。

「あ、下見君が笑った」と、三森さんが言う。

「え、うそうそうそ! もう一回、下見もう一回笑って」

と、後ろから北里が僕の顔を覗き込む。

「む、無理だよそんなの」

言われてはい! と笑顔が見せられるほど、僕の表情筋は柔らかくないのだ。

「ざんね~ん、アンタの日頃の行いね」

「はぁ? そんなわけねぇだろ。なぁ? 純ちゃん」

「いや、思う」

「こんのっ、裏切り者ぉおおお」

「あはははは」

 ふと、目の前に植えてある一本の木が目に入った。随分と長い間生えているのだろうか、大きくて、幹が立派だ。その表面には、つやつやした深緑の葉っぱが繁っている。

「下見君、この木が気になるの?」

「なんだか目立つなと思って」

 立ち止まった僕に、野中さんが言う。

「お目が高いわね。この木はね、学校の守り神なの」 

「なんじゃい、それ」と言う北里に、河合が「お前知らないのか……」と溜息をつく。

「何だよ、そんじゃ純ちゃん知ってんのかよ」

「知ってるよ、椿姫伝説だろ? お前はどうせ授業寝てたんだろ」

「う……っ、否定はしないっ」

二人のやり取りを意に介さず、野中さんは僕に話を続ける。

「この木には椿姫の霊が宿ってるんだって」

「れ、霊っ!?」

 北里の声が、ひっくり返った。僕は、野中さんに目線で続きを促した。

「でね。戦国時代のころの話になるんだけど、昔この地域を治めていた領主の娘に椿姫っていう人がいたんだって。椿姫は、同じ一族の有力家臣であった入野って人と恋仲で、父親も認めてたみたいなの。でもね、彼女の父親は、同時に自分が仕えている主人の側室としても、椿姫を差し出す約束をしてたんですって」

「ひでー」

「それを知った入野は大激怒したんだけど、椿姫に裏切られたと勘違いして、兵を率いて攻めてたのよ」

 僕の頭の中で、大勢の軍隊が椿姫に向かっていく映像が見えてきた。

戦いのきっかけが自分のせいだと知った椿姫は、一体どんなことを思っていたのだろう。

「最終的に姫はね、生き埋めにするように家臣たちに告げて自らの命を絶ってしまった。それが椿姫伝説」

「え、暗っ」

「まあね。姫が亡くなったことで、戦いは終わったわ。で、この椿の木がその椿姫の生まれ変わりってわけ。どう? ロマンあるでしょ?」

 チャンチャンと、野中さんは空気を変えるように明るく言う。

「う~ん、ロマン、ロマン」

 頭を抱え込むようにして呪文のようにロマンを繰り返す北里。

 北里たちの会話を聞きながら、僕は椿の木に近づいて行った。

「あ、そうだ!」

 と、野中さんが言う。

「実はこれにはプラスアルファの話があってね、居場所を求めている人の前には、椿姫が現れるんですって!」

思わず、僕は野中さんの方を振り返った。

「なになに? 下見君もそういう系、興味ある感じ?」

 と三森さんに問われ、「あ、いや」と口ごもる。もしかして、と仮定の話はできない。

「俺はその話は知らないな。何で居場所なんだ?」と、河合。

「椿姫は自分の居場所が無くなっちゃったから、その分誰かを導いてあげたいって、ことなんじゃない?」

「なるほどな」

「でもさ、それって亡霊ってことじゃん?」

 と、北里。

「オレ、信じねぇ。そういう霊とか何とか、ノーセンキュー」

 ぶるぶると震える北里を見て、三森が悪い笑みを浮かべる。

「ふ~ん、そうなんだ。良いこと聞いちゃった」

「えっ、何!? 三森マジでやめて」

 周りに流れる温かい空気を感じながら、僕はもう一度椿姫の木を見上げた。あれはきっと、いや絶対椿姫だったんだ。だって、僕は自分から他人を避けておきながら、結局心の奥底では、ずっと人との繋がりを求めていたから。全て、椿姫にはお見通しだったのだと思った。

「あっ! 下見が笑ってる」

 北里が、ニカッと笑いかけてきた。

「え……笑ってた?」

「めっちゃニヤついてたぞ。もしかして、ここに転校して良かったかもって思っちゃったり?」

「うん……良かったかもしれない」

「かもじゃなくて良かったんだぞ、下見。この北里と一緒にいれば、バラ色の学園生活が送れるぜ」

「こないだまた振られてたけどな」

「もう純ちゃ~ん、なんでそゆこと言うのかな?」

「ほんとのことだろ」

 河合からの、鋭いツッコミが入る。本当に二人はいいコンビだ。

「とにかく! この北里様がいる限り、だいじょーぶだからな」

「頼りないわっ」

「は、三森てめー」

「あん?」

「すいませんでしたっ」

 僕の後ろで、三森さんの脅威に怯える北里を、河合と目を合わせて苦笑いする。がっつり視線が合ったのに、不思議と嫌な感じはしなかった。

「ねぇ下見君、これからみんなでお昼食べに行かない?」

「そうそう、うちの学食は結構おいしいって人気なんだよ」

「うん……行ってみたい」

心から、そう思った。

「よっしゃー! じゃあオレ先に席取ってくる。行こーぜ」

 北里は、そう言うと歩き出す。

「いいとこ頼むねー」

「おー任せとけ」

 野中の声に、今度は河合が答えた。

「ほら、下見も行こう」

 思わずえ? と、声を漏らす。だって、北里は河合に言ったんじゃないのか? 

「でも……」

「早く来いよ、下見」

 そう言って、北里がこちらに振り向いた。隣で、ふっと河合が息を漏らす。

「これから毎日のように通うんだから、ちゃんと知っとかないと。だろ?」

「うん……」

「おっしゃ。じゃあ誰が一番早いか競争な」

と、北里が言う。

「スタートッ」

 いきなり河合は言うと、あっという間に北里を追い抜いていく。

「ちょっ、純ちゃんずりーよー」

 それをぽかんとみていた北里だったが、慌てて後を追いかけ始めた。

 二人の背中が離れていく。フィルターから眺めたような、僕の知らない世界。

「ほら下見~、置いてくぞ」

「一番遅かった奴がジュース驕りなっ!」

 ハッとして見ると、二人が振り返って僕を見ている。

地面に積もった雪が、太陽に反射してキラキラと輝い始めた。

「ま、待って」

 椿の木に目配せをしてから、僕は二人に向かって走り出した。


 今度こそ、ここが大切な場所になるかもしれない。そんな予感を抱きながら。

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