ひだる神の挽歌~ハンガーノックにご用心~
久佐馬野景
ひだる神の挽歌~ハンガーノックにご用心~
準備は万端整った。
円了は峠の下で自転車にまたがり、峠の上に立つ八雲にハンドサインを送る。
八雲がサインを送り返すと、円了は自転車を漕ぎ出し、峠の坂道を上り始める。
昨日の夜。円了と八雲は居酒屋で酒を飲んでいた。ふたりで酒を酌み交わしながら刺身をつついていると、店の中で一際大きな声が上がった。笑い声であった。
「馬鹿を言うねい! かまいたちっていうのは、真空状態が起きて皮膚が裂けることを言うんだ! 科学万能の世に妖怪なんているはずがねえ!」
調子よくテーブル席で酒を飲んでいる赤ら顔の男が、連れらしき青ざめた男を大声で馬鹿にしている。
円了は少し眉に険を作ると、男の席に歩いていく。
「つまり、あなたはひだる神の正体はハンガーノックだと言うのですか?」
いきなり円了に問われても男は平気の平左。むしろ調子が出てきたのかおうおうおうと勢いづく。
「それだよ。ひだる神はハンガーノックの低血糖だっていうのは当たり前の常識だろうよ。それでよお前、水を飲んだら神の子を孕む泉っていうのは、そこにいる寄生虫で腹水が溜まるからなんだよな」
円了はますます険しい表情になるが、男のほうは上機嫌だった。同じ話題を共有できて楽しいのだろう。
「円了、もういいだろう。失礼しました。この男は妖怪に目がなくて」
円了の眉間の皺がいよいよ深くなってきたのを見て、八雲は慌てて止めに入る。
「まず、かまいたち真空説は明治時代にはすでに広まり、同時に否定され続けています。それを否定するために70年代に登場した生理現象説、すなわち筋肉などの内的要因によって皮膚が裂けてしまうという理論が昨今では持て囃されていますが、これも正確な理論は解明されていないので、信憑性としては真空説と似たり寄ったりでしょう」
酔ってはいないはずだ。それにしては喧嘩腰が強い。八雲は無理矢理カウンター席まで連れ戻そうかと迷うが、一応様子を窺うことにする。
「ひだる神の正体がハンガーノック、つまり過度な運動と空腹による低血糖で身動きが取れなくなることだというのは有名な説ですが、これは似ている対象同士を無理矢理つなぎ合わせただけのお話に過ぎません。あとは二酸化炭素中毒という説もありますが、こちらはハンガーノック説に比べるとあまり人気はないようです」
神の子を孕む泉という伝承はそもそも採集されておらず、インターネット上で日本住血吸虫の特徴を知った者が流したお話だろうと言い終えて、円了は静かに男を睨んだ。
「なんだァ? あんた、そんなに言うなら証明してみせてくれよ。ちょうどこの上の峠はひだる神伝承が残ってる。そこであんたが本当にひだる神に出くわしたら俺たちも考えを改めるってもんだ」
「いいでしょう。明日の朝、その峠に来てください。本物のひだる神を見せてあげますよ」
店を出た円了はさてと闇の中に伸びている峠への道を一瞥する。ふたりで逗留している民宿に戻ると、民宿の主人に明日自転車を借りられるように頼み、風呂に入るとそのまま眠ってしまった。
「自転車はハンガーノックを一番起こしやすいものだと聞いたことがあるが」
朝。民宿で出してもらえる朝食を辞し(昨夜のうちに主人に伝えてあったらしい)身支度をして借り受けた自転車にまたがった円了に、八雲は問いかける。
空腹。無理な運動。円了の今の状態はまさにハンガーノックへ向かう道程に見えた。
「無論だとも。そうでなければあのうまそうな朝食を遠慮した意味がない」
「君、まさかハンガーノックを自発的に起こすつもりなのか? あれだけ否定しておいて?」
「いいかい、ひだる神とハンガーノックは本質的には無関係だ。だがその状況自体が互いに似通っていることは、紛れもない事実なんだよ」
「つまり、傍目からは君がひだる神に憑かれているのも、ハンガーノックに打ちのめされているのも、判別がつかないと?」
「正しくその通りさ。僕たちの目的は、あの迷信男に一泡吹かせてやることなのだから、利用できるものは利用させてもらおう」
そこで峠の下に昨夜の男ふたりが立っているのが目に入る。八雲はうまいこと都合よくねじ曲げた説明をして、円了をのぞいた三人で峠の上で先に待っていることにする。峠の上から下は視界が開けており、互いに合図を送り合うことができる。
円了が自転車を漕ぎ出してから十分ほど経った。ひたすらに上り坂が続く峠を自転車で登攀するという無茶な行軍であったから、時間がかかるのは仕方がない。円了が目算したところ、三十分で峠を越えられたら御の字といったところだという。
しかし身体を追い込んであまつさえ実験台にしている円了のことを心配してしまうのは致し方ない。八雲は男ふたりに自分が様子を見てくると断った。すると男たちのほうも、気になるので一緒に行くと言う。
たしかに本物のひだる神を見せてやると豪語した以上は、道中でひだる神に遭遇していなければおかしい。平気な顔でここまで上ってきたら、それすなわち円了の負けである。
峠を徒歩で下っていく。半分ほど下りたところで、男のひとりがあっと声を上げた。
目の前に自転車が倒れている。民宿で借り受けたものに間違いなく、その隣には円了がぐったりと倒れている。
「円了!」
八雲は慌てて円了のもとへ駆け寄る。
ふらつきながら身を起こした円了は、掌に「米」と指で書いてそれを飲み込むジェスチャーをする。
「いやいや、危ないところだった。ひだる神はその名前ばかりが有名になってしまっているが、要は餓鬼憑き――憑き物の一種ということになる。憑き物の対処なら心得はあるのでね。君たちがやってくるのを待っていたのだ」
「それで、ひだる神は?」
赤ら顔の男がたずねる。
「ひだる神というのは先ほど言った通り憑き物。モノではなくコト。そういう怪異が起こるという話に過ぎないのですよ。無論それを引き起こすひだる神という妖怪と、現象そのものが分かたれているわけではないんです。ひだる神という妖怪が現象を引き起こす。そのひとセットは本来解体されるべきではない。解体した気になってハンガーノックが正体などと言い出すのは、ひだる神が伝承されていく中に介在した人々を蔑む行為にほかならないのですよ」
「つまりあんたぁ、ひだる神を捕まえたわけじゃあないんだな?」
男の纏う雰囲気が変わる。八雲は思わず円了の前に躍り出て構えを取る。
「もう用はねぇわ。やれ」
青ざめた男が自分の腹部から抜き身の刀を引き抜く。どう見ても隠し持てるような長さではなく、取り出すのもなにもない服の上から自然とせり上がってきた。
「妖刀・鎌鼬――」
「っ! レイライン拳法――」
青ざめた男が刀を振るう。距離は離れているはずが、斬撃が飛ぶように伸び、八雲の肩を切り裂く。
「〝
レイライン拳法の守勢の構え。地面を走るレイラインの力によって己の身を盾として用い、自身とその背後の者を確実に守る。それでも八雲の肩に飛んできた斬撃は、深い傷を創った。
「知らないでしょう。知らないでしょうね。かまいたちの正体がこの妖刀・鎌鼬による飛ぶ斬撃だということをねェエエエ!」
「レイライン拳法っ!」
「遅いなァッ!」
男はさらに刀を振るう。無茶苦茶な太刀筋だが、振るわれた先から次々に斬撃が飛んでくる。おまけに基礎がなっていないせいで太刀筋がまるで読めない。
防戦一方の八雲は、致命傷は避けているものの、確実に追い詰められつつあった。
「八雲、八雲っ」
背後で円了が何事か囁いている。集中を乱されるが、円了がこの状況で考えなしに声をかけてくるとも思えない。
「ひだる神は憑き物だ。憑霊なのだ」
八雲は円了の意図に気づく。右手を背後にかざし、そこに円了が「米」と書いた掌を合わせる。
「レイライン拳法、奥義――」
「無駄ァ!」
刀を振るう男。だが、飛ぶのは斬撃ばかりではない。
「〝
レイライン拳法の本質は大地を流れるレイラインに拳を乗せ、それを相手にぶつけることにある。八雲はいま、その拳に円了に取り憑いたひだる神を乗せた。憑霊であるひだる神はレイライン上を走り、そのまま八雲の拳とともに相手に突き刺さる。
「おおっ――」
男ががくりと膝を突く。ひだる神に取り憑かれた男は急激な空腹によって意識が朦朧とし始める。
「ふんっ」
赤ら顔の男は倒れた男の手から妖刀を奪い取ると、男の首を刎ね飛ばす。
「なんだ、やっぱりひだる神を手に入れていたのか。ならさっさと寄越せば痛い目に遭わずにすんだものをよう」
「僕たちは妖怪に大して執着がないのですよ。そもそもが異界を彷徨う流れ者なのでね」
「そうかい。俺もな、最初は異界を彷徨っていた物好きだったさ。だがもう帰れないとわかって、腹ぁ括ったんだ。科学万能の世に妖怪も怪異も異界も不要だとな。だからかまいたちを捕まえて、こうして妖刀にしてやったのさ」
男は手に持った妖刀を放り投げる。妖刀は空気に溶けるようにして消えた。
「酷いことをする。かまいたちから何重にも要素を取り上げて、ただの妖刀にまで貶めるとは」
「これからもっと恐ろしいことが起きるぜ。楽しみに待っていろ。俺は――」
「ああ、そこまで」
八雲は男の眼前に迫る。レイラインの上に乗ることによる高速移動。そして叩き込むのは一撃必殺の――。
「レイライン拳法、奥義」
レイライン拳法とは――大地を走るとされる「レイライン」。その上に自身の肉体を乗せ、神秘の力を拳に乗せて打ち込むいにしえの暗殺拳。一見レイラインが走っていない場所では力を発揮できないと考えられがちだが、なぜか拳士の立つ大地に必ずレイラインが走っていることが発見される無敵の拳である。
「〝
八雲の拳に集ったレイラインのエネルギーが、男に打ち込まれるとあらゆる方向に拡散して炸裂する。
男は絶叫しながら光に包まれて爆発四散した。
「ひとつ言っておくが、僕たちに縦軸は要らない。君は不幸にも怪異に巻き込まれたただの被害者Aということでいいじゃないか」
円了が消え去った男に向かってつぶやく。
「ひとまず、お腹が空いたな。民宿に戻ってなにか出してもらおう」
円了と八雲は自転車を押して峠を下っていく。彼らの行き先は誰も知らないし、決められるものではない。
ひだる神の挽歌~ハンガーノックにご用心~ 久佐馬野景 @nokagekusaba
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