便利で、でも居心地のいい君へ

恋人って、なんだっけ

木々の緑が濃さを増す初夏の昼、大学の構内にはツバメのさえずりが響いていた。

気温はじんわりと夏に向かって上がってきていて、風は湿気を少しだけ帯びていた。


理学部棟のベンチに座った反橋そりはし志義もとちかは、ペットボトルの麦茶を手に、向かいに座る友人の言葉に小さくため息をついた。


「……ホンマに付き合ってるん?めいちゃんと」


口調は柔らかいが、疑いの色は隠していない。

問いかけの主は、志義と同じ学科の田所たどころ信也しんや。何かと世話焼きで、ちょっとお節介な関西人だ。


「何回言えばわかるんだよ、信也。ちゃんと付き合ってるって。去年の七月、俺が告白して、鳴がOKしてくれたんだ」

「ふーん……。それ、ほんまに“恋人”としてのOKやったんかな?」


志義は一瞬、言葉を失った。

信也は少し得意げに眉を上げ、スマホを弄りながら追撃を加えてくる。


「付き合って、もうすぐ一年やろ?手、繋いだことある?」

「……ない」

「デートらしいデートは?」

「うーん……基本、全部鳥絡み」

「記念日とか祝った?」

「してないけど……鳴が、“観察記念日”って言ってた。干潟に珍しい鳥が来た日」

「それお前やなくて鳥との記念日やないかい!!」


信也が机に身を乗り出してくると、ベンチがわずかに軋んだ。

志義は苦笑して、スマホのロック画面をちらりと見せる。そこには、鳴が去年の秋に撮ったシギの写真。


「これ、鳴ちゃんの写真ちゃうやろ……鳥やんけ」

「いや……これは“彼女の推し”ってことで……」

「もうお前、鳴ちゃんと鳥の間に立つ三角関係の末席やで……」


信也の言葉に笑いながらも、志義の心には、かすかな波紋が広がっていた。

彼の言う「ズレ」には、確かに思い当たる節がある。

薄々、ずっと感じてはいた。


──あれから、もうすぐ一年。

彼女の隣にいる。でも、それは“恋人”としてなのか?


**


昼休み、学食の窓際。


志義の隣に座る鳴は、変わらず静かに定食をつついていた。

ベージュの七分袖シャツにカーキのスカート、膝には麦わら帽子。

所作は丁寧で無駄がなく、表情は控えめ。

まるで絵の中から抜け出してきたような存在感だった。


「午後、図書館寄る?」

「うん。でもその前に、干潟の潮位チェックしたい。今週の予定、ちょっと変えたから……カレンダー、見てくれる?」


彼女が差し出したスマホには、二人で共有しているGoogleカレンダー。

志義が提案して導入したものだった。

もともと鳴は、潮位も鳥の渡りも天候も、すべて頭の中で管理していた。

けれど、志義と行動を共にするようになってからは、「見える化」が必要だと、管理スタイルを切り替えた。

いまや予定表には、渡り時期、風向き、満潮時刻などのメモが整然と並ぶ。

必要な情報はすべて詰まっていて、そこに“志義がいる”ことも、当たり前のように含まれていた。


「明日、満潮十一時二分。七時には現地着きたい。車、予約できてる?」

「うん。ステップワゴン、朝六時から借りといた。潮風にも強いやつ」

「反橋くん、ほんと優秀。ありがたい」


鳴は大学に入った当初、遠征のために免許を取るつもりだった。

でも、教習所に通っているうちに観察のベストシーズンを逃すことを嫌がり、いつのまにか免許取得は見送られていた。

一方で志義は、大学入学前の春休みに合宿免許で資格を取っていた。

「必要になる前に準備する」が彼の信条だったから。

いまや移動はすべて志義の担当。

彼の運転する車で、鳴は助手席から鳥を見つけて、「今のビンズイ」「あ、セッカが鳴いてる」とぽつりぽつりと報告する。

その様子を見るだけで、志義は、何度でも車を出したくなった。


でも、ふと思う。

これって、“恋人”の役割なんだろうか?


「……なあ、鳴ってさ。俺のこと、どう思ってる?」


鳴は箸を止めて、志義を見つめた。


「ん?」

「その……“恋人”とか、“彼氏”って、意識してる?」


数秒の沈黙のあと、彼女は何のためらいもなく答えた。


「反橋くんがいないと、いろいろ面倒。いてくれると助かるし、安心する」


それは嘘のない言葉だった。

でも、“好き”とはやっぱり少し違う気がした。


「……うん、ありがとう」


志義は静かに微笑んだ。

その横顔には、少しだけ割り切れなさが滲んでいた。

窓の外を、ツバメがくるりと旋回していく。

ちょうど一年前、志義が告白した日も、こんな青い空だった。


──あれから一年。

まだ、この関係に、名前はない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る