4話

「あなたがユイちゃんね、幼稚園の先生から話は聞いたわ。あなたの席は先生の隣ね」


 初めて小学校に行ったとき、担任の先生がそう言った。私は、当時とても神経質で、少しのことで泣いてしまうような子どもだった。両親が「この子は学校に通えるのだろうか」と心配していたことを、子どもながらに理解していた。


 今思えば、先生や周囲はそんな私にできる限りの配慮をしてくれていたのだと思う。けれど当時の私は、自分が「特別な扱いを受けている」ことそのものに怖さを感じていた。守らなければいけない存在として扱われることは、私を息苦しくさせた。クラスメイトたちも、先生に倣うように私を「変わった子」として接するようになった。


 レクの時間に、ある男の子に軽口を叩いたときのことを覚えている。周囲の女の子たちが、私が傷ついていないかと次々に心配の言葉をかけてきた。その目線が忘れられない。それは私を「壊れやすいもの」として見る目だった。


 本当は楽しかったのに。その言葉も、特に気になどしていなかったのに。楽しかったはずの時間が、一瞬で緊張に包まれた。「私のせいで空気が変わってしまった」と思った途端、何もかもが自分の責任に思えて、泣きたくなったのは傷ついたからではなく、皆の雰囲気を壊してしまったからだった。


 中学に上がる頃には、「普通の子」として振る舞う術を覚え始めていた。会話の流れに合わせて笑い、表情や仕草を真似て、皆の輪に溶け込むこと。それは息苦しさを伴いながらも、私を守る手段だった。誰にも迷惑をかけず、好かれなくても、せめて邪魔にはならないように。私は「少し不器用で、愛想の良い元気な子」として周囲に認識されるようになっていった。


 道徳の授業は、ずっと苦手だった。先生の言葉や教科書の内容が正しいのはわかる。けれどその「正しさ」に引っかかりを覚えたとき、自分が間違った考え方をしているようで、居心地が悪かった。


 ある日、先生が言った。「見た目や、生まれつきの特性で誰かを“可哀想”と思ってはいけません。それは相手を勝手に型にはめてしまっているということです」


 言葉の意味は理解できた。けれど、私はそのとき、どうしても「可哀想だ」と感じてしまっていた。なぜ生まれながらに不自由を抱えたり、他人の無理解にさらされたりしなければならないのか。それはあまりにも理不尽だと思えた。


 だけど、ふと気づいてしまった。その気持ちは、かつて私が向けられていたまなざしと、どこか似ているのではないかと。特別に扱われ、遠巻きに心配されるあの距離感。


 私はあのまなざしが怖かったし、嫌いだった。けれど今、自分が誰かに対して同じようなまなざしを向けているのではないかと思ったとき、自分が何者なのか、わからなくなった。


 カスミちゃんに会えなくなって、一週間が経った。


 何がいけなかったのだろう。何か余計なことを言ってしまったのだろうか。無理をさせてしまっていたのだろうか。


 カスミちゃんはたくさんの映画を観て、深く考え、語ることができる人だった。私はというと、特別に好きなものも、得意なこともない。ただ、誰かを不快にさせないように、笑って、合わせて、日々をやり過ごしてきただけだった。


 映画の話も、上手に返すことができなかった。感想を伝えようとしても、何をどう言えばいいのかすぐに詰まってしまった。それでも一緒にいられることが嬉しくて、楽しくて、でもその気持ちをどう表現していいかもわからなかった。


 ……きっと、彼女にとって私は物足りなかったのだろう。ちゃんと向き合えない私が、彼女を疲れさせてしまったのかもしれない。


 思い返すたびに、小さな失敗が頭に浮かぶ。運動会で転んだこと。合唱コンクールで泣いてしまったこと。遊びの最中に体調を崩して、皆を困らせたこと。私はいつも、何かを壊してしまう。


 今回も、そうだったのかもしれない。


 それでも。もし、彼女が戻ってきてくれたら──そのとき、自分にできることがひとつでもあれば。


 私は、カバンの中から筆箱とルーズリーフを取り出した。



*



 あれから、私が部室に行くことはなくなった。当然だ。あんなことを言っておいて、彼女に合わせる顔がない。入部する前と同じ、学校と家を往復するだけの生活。けれど、正確には少し違っていた。


 最近は、帰り道に少しだけ遠回りをするようになっていた。公園でブランコを漕いだり、野良猫の様子を観察したり、川沿いの柵にもたれて水面をぼんやり眺めたり、古本屋で漫画の背表紙を眺めたり。そんな些細な寄り道が、気持ちの落ち込みを少しだけ和らげてくれるような気がした。


 ユイと過ごしていた時間は、私にとって静かで、安らげるものだった。何か気の利いたことを言おうと焦らなくてもよくて、ただ話しているだけでよかった。そんな時間を自ら壊してしまったという事実が、私の心に居座り続けていた。


 今日も、机に突っ伏して考えていた。どうすれば、この感情をやり過ごせるだろう。そんなことをぼんやり考えていたとき、机の上をコンコンと軽くノックする音がした。


「ちょっと話、いいか? 部活の件でな」


 顔を上げると、ヒラジマ先生が立っていた。彼の存在から察するに、話の内容は想像がつく。


「……私、映研やめます」


 先回りしてそう告げた。先生は少しだけ眉を動かしたが、表情を変えずに言った。


「何かあったのか」


 ぶっきらぼうな口調だったが、声の奥に気遣いの色が混じっていた。


「別に。ただ、私には向いていなかっただけです」


 私の返答に、先生は「そうか」とだけ言い、少し間を置いてから言った。


「……悪いけど、今ちょっと手伝ってくれるか」


 提出されたノートを化学準備室に運ぶよう頼まれた。先生は自分で大半を抱え、私は数冊だけを手に持ってその後ろを歩いた。


「上手くいってないのか」


「……」


 言葉が出なかった。すべては私の至らなさのせいだ。自分で自分を持て余してしまった結果だ。


「何か、ひどいことでも言われたのか」


「ちがっ、います……」


 咄嗟に否定したが、声は小さくかすれていた。


「……私、昔から人と話すのが苦手で。みんなが何を考えているのか分からなくなって、普通に接することができなくなってしまったんです」


「映画のことになるとつい熱が入って……気がついたら、自分の好きなものを押し付けていたのかもしれません」


「それで、嫌われたのか」


 私は首を横に振った。もしそうなら、どれほど楽だったろう。


「逆です。あの子は、私の話をちゃんと聞いて、理解しようとしてくれたんです。それが、つらかったんです……」


 足を止めた。先生も黙って立ち止まった。


「なるほどな……」


 先生は私の持っていたノートを無言で引き取り、器用に自分の荷物の上に乗せた。


「本当に辞めたいなら止めはしない。ただ、一度話してみるといい。友だちなら、なおさらな」


 それだけ言って、先生はふらふらとした足取りで準備室へと歩いていった。背中は相変わらず不器用で、けれどどこか安心感があった。


「……まあ、頑張りなさい」


 その言葉が、なんとなく心に引っかかった。

 私は、映画研究会の部室に向かって歩き出した。階段を上る足取りは重たかった。彼女がそこにいる保証などどこにもない。それでも、謝りたかった。許されなくても、それだけは伝えたかった。

 部室の前に立って、扉に手をかけた。小さく、深く息を吸った。


「カスミちゃん!?……良かった、来てくれて」


 確証はなかったにも関わらず、そこにはユイの姿があった。彼女は、この隔絶された部室で一人、私を待っていた。

 机の上にはDVDのケースと、数枚のルーズリーフが置かれていた。ユイは目元を少し赤くしながら、柔らかく笑っている。


「ごめんね、今まで来なくて」


 それだけが、やっとの言葉だった。


「……ううん。私、カスミちゃんは来てくれるって信じてたから」


 ユイは、机にある紙を手に取り、私に差し出した。


「これね、カスミちゃんが前に話してた映画、観てみたの。うまく言葉にできないんだけど、感じたことを、ちゃんと書いておきたくて……」


 私は言葉を飲み込んだまま、その紙束を受け取ることができなかった。


「そんなこと……もうしないで」


 自分でも驚くほど低く、掠れた声だった。


「え……?」


「私のために、そんなふうに頑張らないで。受け止めきれないの」


 ユイの表情が変わる。笑顔が、困惑に滲んでいく。


「特別扱いしないでほしい。普通にしてくれたら、それでいいのに……」


 私の手が震えていた。声も、どんどん小さくなる。


「……違うよ。特別扱いなんてしてない。私は、カスミちゃんのことが、知りたいだけで……」


「哀れまないで!」


 声がはっきりと響いた。

 空気が凍るように、静かになった。

 ユイは口を開きかけて、すぐに閉じた。

 私は視線を伏せ、足元を見つめたまま、小さく呼吸を整えた。


「なんで、私……こんな……」


 言葉が続かなかった。

 耐えきれず、その場にしゃがみ込む。膝が震えていた。

 そのとき、背中からふわりとあたたかい腕がまわされた。

ゆっくりと、ためらうように、でも確かに包み込まれる。


「……大丈夫だよ」


 ユイが、私の背中に顔を寄せながら、そっとささやいた。


「全部じゃなくていい。ゆっくりでいいから」


 私は、ただ静かに泣いた。

 泣いて、息を吸って、少しだけ落ち着いた頃、ユイが腕を緩めてくれた。


「私……人と関わるのが本当に苦手で……。ユイといられるのが嬉しくて、でもそれが信じられなくて、勝手に距離を置いて……」


「ちゃんと話したかったのに、怖くなってしまって……」


 ユイは黙って聞いていた。私の言葉が止まるまで、何も言わず、ただそこにいてくれた。


「……私も、不安だったよ」


 ユイはゆっくりと言った。


「うまく話せてるかな、って。嫌われてないかな、って。でも一緒に映画観るの、すごく楽しかった。私、もっとカスミちゃんと話したい」


「私も……そう思ってた」


 口に出してみると、その言葉は思っていたよりも軽くて、でも確かに本当だった。


 窓の外から、雨の音がかすかに聞こえる。どこか穏やかなリズムに変わっていた。


「ねえ、今度さ、ユイの好きな映画、観ようよ」


「え、私? そんな詳しくないよ……」


「詳しくなくてもいい。好きって思うものを、一緒に見たい」


「……うん」


 ユイはふわりと笑った。私も、少しだけ笑い返した。


 優しい彼女のそばにいるために、私は優しい人になれるだろうか。

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カスミとユイ 葦邑井戸 @ashimuraid

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