かさぶた

鳥尾巻

紙魚男

 いつでも乱雑に物が置かれた父の書斎は、七歳の私にとってかっこうの遊び場だった。その日は何かのお祝いで集まった大人達が、リビングでお酒を呑んだり子供には分からない難しい話をしていたから、退屈した私は一人でそこに逃げ込んだ。

 懐古趣味の父が集めたレコードを、勝手に円盤の上に置いて針を落とした。書架の重みを纏った空気を押しのけ、過去の亡霊のような声がぶちぶちと途切れながら流れた。

 あの時は正確に言えば一人ではなかった。お客が連れて来た少年が私の後をついてきて、床に敷かれたラグの上に零した珈琲の紙魚のように座っていた。紙魚は十一歳でえいという名だと言った。

 私は彼を無視して、古ぼけて軋む革のソファに頬を押し付け、座面のぶかぶかした感触を味わった。詠は真っ直ぐな黒髪の綺麗な顔をした年上の少年だったので、なんだか気恥ずかしくもあったのだ。

 そしてなぜかその間も彼は、投げ出してスカートの裾からはみ出た私の足を、異様に光る黒い瞳で瞬きもせずに見つめていた。

杏美あずみさん。誰かのかさぶたになりたいと思ったことある?」

 胡乱な少年は、自転車の練習をした時に転んでできた私のかさぶたに目を細めて見入った。

「ない」

 かさぶたになりたがる人なんて、初めて聞いた。年の割に老成していた私でさえ、その突拍子もない問いに狼狽したものだ。動揺を見せるのは嫌だったので、ことさら興味のないふりをして、ソファの背もたれによじ登った。

「あぶないよ」

「へいき」

 言葉とは裏腹にどこか面白がって両手を広げる少年を挑発するように爪先を伸ばした。子供の手が届かないように書棚の上の段に置かれた大人向けの書物をこっそり読むのが、当時の私の密かな楽しみでもあった。少し艶っぽい描写や子供の理解の及ばぬ表現が載っているそれを、難しい漢字などは飛ばしながら読んで脳内で補填するのだ。

 私は本を手に取り、彼を振り返った。自分より年上ならば、きっと読めるだろうとページを開いて見せた。

「えいさんは、むずかしい漢字読める?」

「僕にも読めない字があるかもしれないから、辞書があればいいな」

 二人で辞書を探し、ソファに腰かけた。彼は私を膝に乗せ、後ろから一緒に本を覗き込んだ。子供二人分の高い体温でじっとり湿った革張りの座面がぎゅむぎゅむと悲鳴を上げた。時折首筋に触れる息とさらさらの黒髪の感触がくすぐったくて笑った。いつの間にか音を奏でる円盤は止まり、私の笑い声と声変わり前の掠れた音色が本の隙間に入り込んだ。


「あの時読んだ本なんだったかな」

 私はリビングのソファのひじ掛けに乗せた足をぶらぶらさせながら詠に尋ねた。彼は今も私の後をついてきて、相変わらず零れた珈琲の紙魚のように床に座っている。詠は真剣な面持ちで私の片足を持ち、慎重に爪を切っていた。

「杏美さん、動かないで。怪我するよ」

「爪なんか自分で切るってば」

「だめ。そんなこと言ってこの前も深爪して血が出てたよね」

「血が出たら好都合じゃない。かさぶたになりたいんじゃなかった?」

「いつまで言うの? 僕はね、杏美さんとずっと一緒にいたいって言いたかったんだよ。あの時は言葉が足りなくて変なこと言ったけど」

 詠は白い頬を染めて唇を尖らせた。あれから十年経った今、かさぶたどころか掠り傷一つ許さない。

 あの日は引っ越し祝いのパーティーで、隣人であった詠の家族も招かれていたのだ。私に一目惚れしたらしい詠は、用意周到に両親や私の親を抱き込んで、私はいつの間にか彼の婚約者ということになっていた。

 忙しい私の親に代わり甲斐甲斐しく世話を焼き、最近は私の食事や学校のお弁当まで素材に拘りすべて手作りしている。その徹底ぶりと執念に、私はうすら寒さ感じながらも、すっかり餌付けされ怠惰に慣れさせられていた。

「それもじゅうぶんキモいよね」

「キモいなんて言葉は美しくないよ」

「異様な。不可解な。不気味な。変態。脚フェチ」

「ひどい。僕はただ、杏美さんに健やかであって欲しいだけだよ。きみの血肉を作り、細胞の隅から隅まで僕が食べさせたもので満たしたい。かさぶただって僕が育てた白血球で作るんだ」

「世間ではそういうのを『キモい』って言うんですよ、詠さん」

 私は空いた方の足裏で、詠の鎖骨の辺りを軽く押した。ぐ、と大袈裟に息を詰まらせながら、頬に浮かんだ笑みを隠しきれていない。爪切りを再開した彼の瞳はあの時よりも昏い。足裏を柔らかく掴む掌の熱が私の心臓まで掴んでいる気がする。

「世間なんてどうだっていいよ」

 そういえば、あの時読んでいた本は、簾の陰から見えた白い女の足に運命を感じた男の話だった。彼女を美しい女にする為に、自ら肥しとなった男の執念の物語だ。

 私もいつか詠の毒に爪先から頭の先まで浸かり、彼が作り上げた美しく健やかな身体は燦爛とするのだろう。

 それも悪くはないか。私は彼の指先に籠る力を半ば疎ましく感じながら、諦念にも似た気持ちでそっと目を閉じた。

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かさぶた 鳥尾巻 @toriokan

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