春の始まりがいつなのか、あなたは知っているだろうか

未来屋 環

ただ、春を待っていた。

 ――春になれば、あなたに逢えるの。



 『春の始まりがいつなのか、あなたは知っているだろうか』/未来屋みくりや たまき



 春の始まりがいつなのか、あなたは知っているだろうか。

 こよみの上では立春、気象学的には3月1日、天文学の見地けんちからすると春分の日――しかし、僕にとっての春はいつだって唐突に訪れる。


ようくん、ただいま」


 チャイムに呼ばれてドアを開けると、薄手のコートに身を包んだ待ち人が立っていた。

 壁のカレンダーを見ると、3月27日。

 去年より2日遅いけれど――あぁ、ようやく今年も春が来た。

 

 びた季節を一人噛み締めながら、僕は心からの笑みを浮かべる。


「――おかえり、美散みちるちゃん」


 

 美散ちゃんは5歳上の幼馴染おさななじみだ。

 幼い頃から大人びた雰囲気を身にまとい、すらりとした体躯たいくに切れ長の目、そして何者にもびないりんとしたスタイル――その一つ一つが丁寧ていねいに組み合わさって、美散ちゃんはできている。


 あれは僕が小学1年生の時のこと、6年生の美散ちゃんは運動会のリレーで男子たちをごぼう抜きしてみせた。

 レース後の表彰式で、抜かれた奴らが「女のくせに生意気なまいきだ」とひそひそ台詞ぜりふを吐く。

 そんな負け惜しみをものともせず美散ちゃんは堂々と賞状を受け取っていて――その気高けだかさに満ちた横顔が僕には輝いて見えた。


 そして中学生になった美散ちゃんが見せたセーラー服姿に、幼い僕の心は激しく揺さぶられた。

 入学式を終え、散りゆく桜をバックに歩いてくる彼女はまるで知らないひとのようだ。

 路上に立ち尽くす僕の存在に気付くと、美散ちゃんはほのかな照れ笑いを浮かべてみせる。


「葉くん、ただいま」


 その声は確かに美散ちゃんのもので、でもその姿には花開き始めた色香いろかがあって。

 瞬間、淡いあこがれはくすぶる炎へと進化を遂げたのだった。



 あれから時が経つこと、早15年。

 美散ちゃんは大学進学と共にこの田舎町いなかまちを出て、現在に至るまで東京に住んでいる。

 そして、この時期になると僕の元に春を運んでくるのだ。


「やっぱりお花見をするならここだよね」


 コンビニで買ってきたレモン味の缶チューハイを一口飲み、美散ちゃんが言った。

 二人きりで夜の公園に繰り出した僕たちは、ベンチに座って桜を眺めている。

 この恒例のもよおしも今年で6回目だ。


「大学卒業おめでとう。4月からどうするの?」

「んー……地銀ちぎんに内定もらった」

「さすが葉くん、すごいね」


 確かに就職活動はそれなりに大変だった。

 しかし僕からすれば、東京で何年も働いている美散ちゃんの方がよっぽどすごいと思う。



 思い返せば、美散ちゃんはいつだって自分の力でその世界をひらいてきた。

 中でも一際ひときわ印象的だったのは、5年前――つまり初めて二人でお花見をした時のことだ。


「――美散ちゃん?」


 野球部の練習試合を終えた帰り道、満開の桜にかれふと立ち寄った公園のベンチには、東京の大学に通っているはずの美散ちゃんが座っていた。

 顔を上げた彼女の瞳には涙の気配けはいがあって、僕は思わず言葉をうしなう。


「……葉くん、ただいま」


 美散ちゃんはいつもの整った笑みを顔に載せようとして――しかしそれは失敗に終わった。

 はらはらと散り始めたそのしずくを前に慌てて鞄の中をあさるが、生憎あいにく部活帰りの男子高校生に好きなひとのほほぬぐうタオルの持ち合わせはない。

 その代わり、休憩時間に食べようと思って忘れていたポッキーが目に入る。


「……美散ちゃん、食べる?」


 唐突に差し出された赤い箱を見て、美散ちゃんはぴたりと止まったあと――ふふっと吹き出す。

 「食べる」と答えたその声には一抹いちまつの明るさが戻っていて、あぁ美散ちゃんが帰ってきたんだと僕は今更ながらに思った。


「今日親戚の集まりがあったんだけど、女が大学院に行くのは無駄だって改めて言われちゃった」


 ポッキーが吸い込まれた口から、ぽつりと言葉がこぼれる。

 それにられるように、僕の中で数ヶ月前の記憶がよみがえった。

 僕の母親と美散ちゃんの母親は仲が良く、度々たびたび僕の家のリビングで世間話せけんばなしをしている。

 その内容に興味はないが、たまたまそれが耳に入ったのは美散ちゃんの話だったからだ。


「あの子、お盆もお正月も全然帰ってこないのよ。一体東京で何してるんだか」


 僕は知っている。

 美散ちゃんが帰ってこないのは、勉強に加えて学費と生活費を稼ぐのに忙しいからだ。

 奨学金があるとはいえ、仕送りがない中東京で生活しつつ帰省きせい費用を確保するのは簡単なことじゃないだろう。


「大丈夫よ、美散ちゃんしっかりしてるし。強いというか……男勝おとこまさりな所もあるけど」

「本当可愛かわいげがないのよ。あんなんで結婚できるのかしら」

「美散ちゃんは顔が整ってるから平気よ。きっといいお母さんになるでしょ」

「だといいんだけど。勉強なんか頑張っても意味ないのに、我が娘ながらよくやるわ」


 そして呑気のんきな笑い声が響く。

 彼女たちは多分、本当に理解ができないのだ

 美散ちゃんが何を大切にして生きていこうとしているのか。


 ――ぽきり


 何かが折れる音で、現実に引き戻される。

 隣を見ると、美散ちゃんがポッキーを几帳面きちょうめんに食べ進めていた。


「別にいいんだけどね。学費は免除してもらえるから親が認めなくても通えるし、元々頼るつもりもなかったから」


 ぽきり、ぽきり


「それでも久々の帰省で、あいかわらず私ばっかり台所に呼ばれて、男たちは飲んで騒ぐだけでさ。お兄ちゃんに料理運ぶのお願いしたら『それは女の仕事だ』とか言われて。あぁ、やっぱりここは昔のままなんだと思って、それこそ――」

 

 ぽきり


「――ここにいると心が死んでいくみたい」


 ぽつりとつぶやいたその言葉を最後に、美散ちゃんが口を閉ざす。

 うつむいたその視線の先には、踏みしだかれた桜たちの残骸が散らばっていた。

 美散ちゃんの瞳に色はなく、ただその光景を無感情に映し出しているだけだ。


 そんな彼女の様子に、思わず僕の口からも言葉が零れ落ちた。


「……口惜くやしいなぁ」


 そして、ふと我に返る。


 ――口惜しい?

 

 気付けば、美散ちゃんも驚いたように僕の顔を見ていた。

 胸の中に広がるもやを形にできず――僕もそのまま口を閉ざす。

 それでもその感情は絶対的な真実として僕の中にった。


「……うん、口惜しかったのかも」


 ぽつりと言ってから、美散ちゃんがポッキーを口に入れる。

 ぽきぽきぽきと小気味こきみ良い音を響かせ、食べ終えたあと――美散ちゃんは顔を上げた。


「だから――私、絶対あきらめない」



 結局美散ちゃんは大学院を修了して、今は大企業のエンジニアとして忙しい日々を過ごしている。

 実家とは変わらず疎遠なはずなのに、毎年必ずここに来ることの意味を僕は期待してもいいのだろうか。


「美散ちゃん、食べる?」


 毎年恒例の赤い箱を差し出した瞬間、整った顔がふわりとほころぶ。


「食べる食べる、お花見と言ったらこれだよね」

「僕、毎年この時期しか食べないかも」

「そう? 私仕事中も食べるよ。パッケージを見ると葉くんのことを思い出すから」


 その言葉に深い意味がないことを知りながらも、思わず僕の口角が上がった。

 しかし、その高揚感はあっというくじかれる。


「葉くんみたいな弟がいたら、もうちょっと帰省したくなるんだけどな」

「……」


 僕は自分を『弟』だなんて思ったことないよ――そんな言葉とぬるい缶ビールを一息にみ干して、僕は口を開いた。


「明日もう帰るんだっけ。何時の電車?」

「9:30。それにしても葉くんももう社会人だし、来年からはふらっと帰ってきても逢えないかなぁ」

「……そんなことないよ」


 視線の先の桜は綺麗に咲き誇っている。


「……そうだったらいいなぁ」


 そう呟く美散ちゃんの瞳には、微かな憂いの色が浮かんでいた。


 ***


 そして迎えた翌朝、僕の隣の席で美散ちゃんは目を丸くしている。


「美散ちゃん、食べる?」


 昨夜食べきれなかったポッキーを差し出すと、美散ちゃんは「食べる……けど」と答えた。


 ぷしゅーという音と共に、僕たちは世界から切り離される。

 やがて外の景色が少しずつ窓の後ろへと流れ始めたところで、美散ちゃんが我に返り口を開いた。


「あの、葉くん……新幹線出発しちゃったんだけど」

「うん、僕も来月から東京で働くから」

「えっ!? 地銀から内定出たんじゃ……」

「内定は出たけど、丁重ていちょうにお断り済みだよ。丸の内にある会社で営業やる予定」


 そこまで言って、僕は続ける。


「――だから、もう美散ちゃんがあそこに帰る必要はないんだよ」


 僕の言葉に、美散ちゃんの動きが止まった。


 ――そうだ、僕は口惜しかったんだ。

 どんな逆境でも輝くそのきらめきを、眺めることしかできなかった自分が。

 零れる涙も拭えず、この町でただ待つことしかできなかった――そんなどうしようもない無力さが。


 そう、一人で春を待つ日々は、今日ここで終わる。


「自分を大切にしない場所に行く必要なんてない。だって、美散ちゃんには自分の力で勝ち取った大切な世界があるんだから」


 視界の中で美散ちゃんの瞳が揺れた。

 気高いその目から光があふれるのを見るのは、僕だけに許された特権だ。

 差し出した新品のハンカチは、ようやく5年越しの役割を果たすことができた。


「言っておくけど、僕、もう卒業するからね」

「……? 知ってるよ。大学の卒業式、先々週終わったんだっけ」

「うん、そっちじゃなくて」


 春を喪った町に別れを告げ、僕たちは旅立つ。

 窓の外では満開の桜が僕たちの門出かどでを祝っていた。

 東京はここよりも暖かいらしいから、もう少しだけ花の盛りを楽しむことができるだろう。


「――桜、綺麗」


 ぽつりと美散ちゃんが呟く。

 その声には穏やかなよろこびが満ちていて、僕はそっと美散ちゃんの手を取った。

 振り向いた美散ちゃんの頬が桜色に染まる。


 僕たちの春は、今始まった。



(了)

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春の始まりがいつなのか、あなたは知っているだろうか 未来屋 環 @tmk-mikuriya

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