異世界まったり釣行記

皐月 彦之介

第1話 こんにちは異世界

「本当に迎えは明後日でいいんですか? 一泊でもなかなかのつわものですよ?」


「はい。道具も揃えていますし、キャンプ経験も長いので。あっ! トイレで汚さないかってことなら携帯トイレも日数分用意してありますので!」


「いえ。そういう事ではなく……。はあ、分かりました。ではここに名前と住所。それと緊急時の連絡先を書いてください」


 大海は渡船とせん船頭せんどうに言われるまま申込用紙に書き込んでいく。船頭は大海が書き込んでいく内容をじっと見つめている。


磯村いそむら大海たいかいさんね。沖磯はスマホなんかも繋がらないんで、朝夕の送り迎えのついでに近くに行くから、そのタイミングで合図してもらえれば迎えにいきます」


 一般的な渡船とくらべてもかなり丁寧で良さそうな船頭だ。これなら楽しく釣りキャンプをたのしめそうだ。ハズレを引くと喧嘩腰だったり、釣りをさせてやっているといった態度だったりで、気持ちよく遊べないからな。


「小一時間で出発するから適当に荷物を用意して待っててください」


 大海は車から釣りの道具を下ろしていく。ロッドケースに大きめのバッカンが二つ。それと餌と氷が入っているクーラーボックスが一つ。本当ならバッカンも一つにしたかったけど、二泊だと頑張ってコンパクトにまとめてもこれが限界だった。


 トントンタントンと小気味よいエンジン音を立てて舟は港から出ていく。定員一〇名にも満たない小型の舟だから、ほんの少しの波でも飛沫しぶきが上がる。大海の身体は飛沫と海風の洗礼を受けて、日常生活から離れていく。港からおよそ二〇分程で目的の沖磯へとたどり着いた。


 船頭の手慣れた操船で舟は磯へと近づいていく。大海はロッドケースにバッカンと磯に放り投げていく。そして最後にクーラーボックスだけを手に持って磯へと乗った。潮をかぶった岩場に一瞬足を取られそうになるけど、最新型の磯靴のおかげで転ぶなんてことはない。


 大海が手を振ってみせると船頭は頷いてみせる。磯から離れた舟は霧笛むてきを一瞬だけ鳴らすと港へと向かっていった。


 大海は荷物を波にさらわれない安全な場所に置くと、磯を一周歩いてみることにした。ゴツゴツしていて歩きにくいが、一周一〇〇メートルほどの小さな磯だった。事前に船頭から聞いていた通り良さそうなポイントは二箇所あった。どちらにするか悩んだ結果、沖向きの釣座つりざを選ぶことにした。


「よし。始めるか」


 大海は撒き餌用のぶつ切りにした冷凍サバを適当に撒いて、釣り針には一匹かけにして投入していく。今日の大海の狙いはクエだ。そんなに簡単に釣れる魚では無いから、最終日までに一匹釣れれば良い方だろう。


 定期的に撒き餌をしながらポイントを育てていく。大海の耳に届くのは風音と波の音、それに時々聞こえる海鳥の声。時計も付けていないから時間もわからない。俗世間から完全に切り離された感じがたまらない。


 普段の生活はコスパだの、タイパだの、なにかにつけて効率が重視される。そのせいか何をしていても、たとえ休みであっても、メールで電話でアプリの通知で管理されている気分になる。


 時計一つとってみてもそうだ。腹が減ってきたからではなく、そろそろお昼だから食事をしようとか、そろそろ寝る時間だとか、人間らしさというものが無いように思う。


 腹が減ってきた大海は、クーラーボックスから出したおにぎりを頬張る。空きっ腹に白米と詰め込まれたオカカの旨味が染み渡る。今のところアタリの一つもないが、まったく気にもならない。好きな釣りをやって、それ以外から切り離されている事だけで充分楽しんでいる。


 その後もアタリが無いまま日が傾いてきた。大海は小型のソロ用テントを設置して夜に備える。その間も定期的な撒き餌は怠らない。


 カップラーメンを食べた後は夜釣りに突入する。しかし、まだ一度のアタリもない。それどころか餌取りすらほとんど居ない感じだ。ツイてないけど、これはこれで楽しい時間だ。針の付け方を変え、餌のサイズを変え。手を変え品を変え試行錯誤を繰り返していく。そしてそれがハマった時の痺れるような快感が釣りの醍醐味なのだ。


 少し餌と針を小さくしてみるのも良いかもしれない。冷凍サバの中から小さめのものを選んで、さっきまでの半分ほどの大きさの針を掛ける。親針おやばりを頭に、孫針まごばりを尾びれ付近に針が隠れるように慎重につけて夜の海に投げ込む。


〝痛っ‼〟


 その声が頭の中に響いた瞬間ものすごい力で大海は海に引き込まれる。まずい落水だ。いくらライフジャケットを着ていても、沖磯での落水は命の危機だ。竿を手放して浮き上がらないと。そう考えたところで眼の前の景色が一変する。


 大海は不思議な空間に移動していた。ぼんやりと明るい場所だけど、狭いのか広いのかもよくわからない不思議な場所。そして何より不思議なのが……。


〝もう。なにこれ? 美味しいサバ食べてただけなのに……。釣り針? というかあなた誰?〟


 人間の上半身に下半身は魚。そして、ウェーブしたピンク色の髪に絡まった釣針付きのサバ。


「人魚⁈」


〝は? 人魚みたいな下等な妖精と一緒にしないでもらえる? 私は女神クィージー〟


 大海はスレがかりとはいえ餌に釣られた女神が、人魚を下等とか言えないだろうというツッコミをぐっと堪える。


「女神クィージー様ですね。とりあえず。俺を元いた場所に戻してくれませんかね?」


〝まずはこの釣り針を外してもらえる? チクチクするし髪に絡まるし、ホント最悪なんだけど〟


 大海はクィージーに近づいて、髪に絡まったサバを外しにかかる。クィージーが暴れたせいでサバからはずれた孫針が髪に絡まってしまっている。ほどこうと絡まった髪と糸を観察したけど、無理そうだと判断してライフジャケットにぶら下げているハサミで糸を切って外した。


「はずれましたよ」


〝ハサミ持ってるならすぐに切ってくれればいいのに。はっ! もしかしてあなた私の美しさに惹かれたせいで、少しでも長く近くに居るためにわざと時間かけてたんじゃ?〟


 クィージーの言葉を聞いて、大海は改めて観察する。確かに顔は美人だし、小ぶりだが形の良い胸もなかなかの魅力を放っている。だけど、下半身の鱗は、古代魚や鯉に似た一枚一枚が大きく頑丈なタイプでヌメが強くて魚屋の臭いがする。それにさっき触った髪も塩水にさらされまくっているせいか、カサカサのガビガビの上べっとりしていて正直手触りは気持ち悪かった。


〝ちょっと‼ あんた失礼なこと考えてるでしょ?〟


「…………。それよりも、針も外れたしそろそろ帰らせてほしいんだが」


 俺の言葉を聞いたクィージーは露骨に視線を泳がせ始める。


〝それなんだけど……。びっくりして帰ってきちゃったからさ。次あんたの世界に行けるのは一〇〇年後になるんだぁ。だから、それまで待ってもらっていい?〟


「は? 一〇〇年後とか俺の年齢一三八歳になってるんだが? というかもう生きてないろ……」


〝あんたが勝手についてきたんじゃない! あーあー。もう知らない。それなら、ここで飢え死にでもすれば?〟


 逆ギレしたクィージーが背を向けて立ち去ろうとしたところで、落ち着いた男の声が響いた。


〝私の世界の者を拉致しておいて、このような世界の狭間で飢え死にさせる。と? そなたの世界の最高神に連絡する必要があるようだな……〟


 その声を聞いた瞬間、クィージーはビクリと肩を震わせる。そしてギギギッと錆びついた機械のようにぎこちなく大海の方へと向けると、同じくぎこちない笑顔を浮かべる。


〝まさか、本当に飢え死になんてさせるわけないですよ。えっとあなた、お名前は?〟


「磯村大海だけど」


〝そう。私のせいで巻き込まれてしまってごめんなさい。でも、さっき言った通りすぐに送り返すことはできないの。だから私たちの世界で生きるためのサポートをさせてくださいな〟


 いかにも作り笑いだとわかる笑顔でクィージーが言う。それどころか大海のせいで面倒なことになったという目で見ている。主な原因は大海ではなく食い意地が張ってるせいだと思うけどな。


「あなたの力でも戻れない?」


〝うむ。今はそこの女神の力の残滓ざんしに覆われているゆえ、私が手を出すと元の世界に戻るどころかどこへ飛んでいくか分からないからな……。すまぬ〟

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