詩篇断章序曲《フロルクルシア》Ⅱ


 崩れた瓦礫の中から、オーギュストは姿を現す。

 影が崩れ、まるで黒い霧の様になった左肩を右手で抑えながら。


 顔が苦痛に歪むと、ぽたり、ぽたりと鮮血の雫が左手先から滴った。


 左肩の黒い靄がなくなり、影が元の肉体に戻る。

 左右不均等となり肩の骨が砕けている様に見え、その肩には、黒い礼装にもはっきりとわかるほど、赤がにじんでいた。


「君が一体何者なのか……わからない。想像さえ出来ない……。だがひとつ――。一つだけ、理解出来た。そう! 君の事がようやく、一つだけ理解する事が出来たとも」

 オーギュストは、端的にヨノカの本性を口にした。


「君は、吸血鬼を憎んでいる。感情を殺そうと、抑制しようと、それでも尚消せぬ程深い場所で憎悪の炎を燃やしている。そうであろう?」

 ヨノカは答えない。


 だが、そんな事もはやどうでも良かった。

 そうであると、オーギュストは既に確信していた。


「――故に、遊びはここまでだ」

 オーギュストの声色が、ワントーン落ちていた。




 何か変わったというわけではない。

 だが、オーギュストの存在感は確かに増していた。

 本気を出した、真の力を解放した、封印を解き放った。

 ――いや、これはそういった類の空気ではない。


 どちらかと言えば……決め技を放つ前の雰囲気に近い。

 この世界に『魔法』という物があるという事は、既にヨノカは聞いている。


 だからきっと、これは魔法を放とうとしていて――。


「ヨノカ殿!」

 背後から、老人が叫ぶ。


 後ろを振り向くと、男二人は既に倒れていた。

 おそらくもっと前に、吸血鬼への恐怖と威圧により気を失ったのだろう。


 老人もまた気丈に振舞っているが、真っ青な顔でマスケット銃を杖代わりにしてかろうじてという有様だった。


「吸血鬼は、その貴族には……特別な力が――」

 老人は知っていた。

 貴族と称する吸血鬼は、それぞれ異なる特殊能力を持っている。

 そしてその力こそが、貴族であるという証、刻印であると――。


「もう遅い! 我が人生の彩となり果て給え。血の刻印ブラッドアーク――《血薔薇詩篇(フロルクルシア・ロゼ・サンギヌス / Florcruzia Rose Sanguinus)》!」


 叫び、怪我した左腕をオーギュストは切り上げる様に振るう。

 腕の動きに合わさり、血しぶきが縦に飛び散って――いや、それは既に血と呼ぶ様な液状ではなくなっている。

 無数の雫は一つとなり……薄く、鋭く形状を変えていた。


 それは――『斬撃』だった。


 刃の様に歪曲し、三日月の様に細く鋭い深紅の斬撃。

 その斬撃を、ヨノカは避ける事が出来なかった。


 慌ててナイフを盾代わりにするも、ナイフはまるでバターを切るかの様に容易く切断され、血の刃はヨノカの目前に。


「ぐっ! つ……うああああああ!」

 ヨノカは強引に、左腕を血の刃に叩きつけ、振り払った。

 あらぬ方向に飛ぶ血の刃は壁を切断し、破壊する。


 だが、その代償は決して軽い物ではなかった。

 ヨノカの腕には、骨が見える程の深い傷が出来ていた。


「お前……どういうつもりだ……」

 そう言葉にするヨノカは、怒りを隠そうともしていなかった。

「どういうつもり……というのははてさてどういう事かな? 一体何が気に食わなかったと? もしや卑怯……などとは言うつもりもあるまい?」

 飄々といたオーギュストとは裏腹に、ヨノカはこれまでの冷静さを全て捨てるかの様に激昂していた。

「いいや、言わせて貰う! 何故、何故彼らを狙った!?」

 ヨノカは吼える様に叫ぶ。


 自分が避ければ、後ろにいる村人達を確実に巻き込んだ。

 その事実が、ヨノカには何よりも耐えがたい事であった。


「それは失礼した、だから避けられなかったのか……。とは言え、釈明させていただこう。別に狙った訳でもない。ただ……わざわざ虫に気を配らねばならぬ理由が、どこにあるというのかね?」

 そう、オーギュストは不思議そうに尋ねる。


 彼らは、面白くない。

 見どころが何もない、普通の人。

 本として読むならきっと退屈な駄作であるだろう。

 故にオーギュストは、いる事さえ忘れる程度に彼らに関心を持っていなかった。


 ぎりっと、ヨノカは歯が軋む程に噛みしめた。

 腕の傷よりも、突然の能力発動よりも……どの様な事より、彼らが死ぬところだったという事実の方が、ヨノカは大切な事だった。




 止血しても血は止まらず、ヨノカの左腕からはおびただしい量の出血が流れ続けていた。

 両者共に同じく片腕を負傷しているが、その差は歴然。

 既にほとんど治癒されているオーギュストと、止血しても止まらず神経さえ切断されたヨノカが同じ訳がなかった。


 痛みからか、出血で意識が途切れているのか、ヨノカは俯いたまま、全く動かなくなっていた。


「……良くここまで戦った。見事だ。ああ、見事だともヨノカ。君の事は忘れない。我が記憶にて生涯、生き続けると良い」

 オーギュストはそう言って、左腕を振るい、血の斬撃を飛ばす。


 勝ちを確信はしている。

 それでも、オーギュストは油断するつもりは欠片もなかった。

 情報を得る為に連れ帰るより、殺害を優先する程に。

 それほどまでに、ヨノカという男は危険であった。


 そしてヨノカに斬撃が襲い掛かり――。


 鈍い、斬撃の音が響いた。


 オーギュストの表情が固まった。

 彼の優れた目が、ヨノカが何をしたのか正しく捉えていた。

 最後の一瞬まで脳裏に焼き付ける為ヨノカを見続けた彼が、その一撃を見落とす訳がなかった。


 それでも、オーギュストは硬直する。

 それはオーギュストにとって、自分の想像を遥かに超える、あり得ない出来事だった。


 長い時間咀嚼しなければ事実だと認識する事さえも難しい程の事。

 そして沈黙の末認識した事実は――致命的な悪夢となり果てた。


「何故……何故だ。何故だヨノカ!? 何故貴様がそれを使える!? 何故、私の血の刻印ブラッドアークを貴様が使っている!?」

 叫び、右腕を振るい刃を飛ばす。


 別に負傷している必要はない。

 オーギュストの血の刻印ブラッドアークはただ腕を振るうだけで発動する。


血薔薇詩篇フロルクルシア・ロゼ・サンギヌス

 それはオーギュストの爵位である夜爵ナイトストーカーの証そのもの。


 爵位を認められ、紋章を預けられたが故に発現した、この世界でただ一人、オーギュストだけの能力である。


 鋭い斬撃がヨノカに襲い掛かる。

 ヨノカは俯いたまま、左腕を雑に振るった。


 振るった腕から、血が零れ――そして、血が刃の形に変わる。

 ヨノカの血は刃となり、剣戟の音と共に、オーギュストの放った斬撃と相殺された。


「何故、何故……何故だぁ!?」

 オーギュストは発狂した様に叫びながら、両手を交互に振るい無数の斬撃をヨノカに差し向ける。


 ヨノカはゆらりと脱力した姿勢で回避と迎撃を繰り返す。

 動きは最小限にとどめ、背後に斬撃が向かわぬよう、必要なぶんだけ血の斬撃にて相殺する。

 それが、今ヨノカに出来る限界であった。


 正直に言えば、今起きているこの不可解な事象は、単なる偶然に過ぎなかった。


 ヨノカの元の世界の吸血鬼、ヴァングロームは皆『血を凝固させる力』を持っていた。

 血を剣や斧にするというのはもはや基礎技能に等しい。

 その位、血を武器にするというのは当たり前の事であった。


 ただし、ヴァングロームとしては不完全の成りそこないでしかなヨノカには、彼らと同じ事は出来ない。

 彼にできるのは、ほんの刹那、血の形を変える事だけ


 逆に言えば、ヨノカはほんの一瞬だけなら『血を刃の様にする』事が可能であった。


 つまり、全く同じ能力という訳ではない。

 オーギュストの能力の様に遠隔に飛ばす事も出来ないし、無限に放つ事も出来ない。

 ただでさえ負傷で血がどんどん出ているのに能力を使う度に消耗している。

 それでも外見だけは、オーギュストが動揺する程度にはコピーした様には見えていた。


 激しい出血と背後の庇うべき人間。

 状況は芳しいとは言えない。


 そんな苦しい状況であるにもかかわらず、ヨノカは勝ちを確信していた。

 相手が発狂してくれているからだ。


 己のプライドが崩れた時、最も脆くなる。

 それが、世界共通吸血鬼の欠点であった。


(ここだ)

 ヨノカはオーギュストの腕の振り上げに合わせ、銀のナイフを投擲する。


 それは既に一度見せてしまっている。 

 雑魚吸血鬼との戦いを見ていたと言っていた以上、オーギュストは間違いなく警戒していたはずだ。

 だから使わず残しておいた最後の一本を――肉体、精神両方の隙が生まれたこの瞬間に、ヨノカは放った。


 どすっと、鈍い音を立てオーギュストの体に衝撃が走った。

 その衝撃の正体を見ようと、俯き己の体を目にする。


 そこに、心の臓に位置する胸に、食器の銀ナイフが胸に突き刺さっていた。

 遅れ、激痛が走る。


 オーギュストの脳裏に死の一文字が宿った。


 だが……一向に死が訪れる気配ない。

 オーギュストはふと、我に返る。


 因果な事に、『敗北』の二文字がオーギュストを狂乱から解き放ち、冷静さを取り戻させていた。


 ゆっくりと、胸のナイフを抜く。

 単なる食事用のナイフで、しかも粗雑でチャチな造り。

 鋭くもなければ純銀でもない。


 そんな玩具みたいな刃が、死の影を映した。


 もし、後一センチナイフが突き刺さって入れば。

 いや、食器用のではなく投擲用のナイフなら、純銀のナイフだったら……。


 紙一重――かどうかはわからないが、ほんの僅かでも質の高い物であったなら、致命の一撃となる可能性は十分にあった。


 その屈辱が、オーギュストは冷静にさせてしまった。


「見事だ。ヨノカ。ああ、見事、見事、見事……。羞恥の極みだよ。私が人間如きに敗れる事があろうとは……」

 何時もの様に、仰々しく芝居がかった話し方で。

 だけど、何時もと違い怒気が籠っていた。


 敗北の事実を否定する事は容易い。

 言い訳出来る要素は幾らでもある。

 だが、他の何でもなく、オーギュストの誇りがその逃げ道を塞ぐ。


『紋章持ちの高潔たる己が、劣等な人間如きに敗北した』


 その事実は、もう二度と覆らない。

 そしてその上で――まだ一つ、屈辱的な事実があった。


 冷静になったからこそ、オーギュストは気付けた。

 確かに、今のヨノカは半死半生の身である。

 多少無理をすれば、殺す程度の事なら容易いだろう。


 何なら後ろの人間を人質にでもすれば良い。


 だが、オーギュストはそれを選択しない。

 それは誇りや矜持という話ではない。

 吸血鬼という種への危機を取り除く為ならば、オーギュストはどれ程恥を掻こうとも、恥ずべき男に成り下がろうとも、構わないと思っている。


 オーギュストが手を出さないのはそういった矜持からではなく……ヨノカが、まだ別の手を隠し持っていると確信しているからだ。


 今殺しても背後の正体を掴む事は出来ない。

 また同時にヨノカの隠し持つ『最後の手段』は自分を殺しうる切札の可能性が濃厚。

 最悪を想定したオーギュストは、それ以上動く事は出来なかった。


 想定される最悪……つまり自分が死に、ヨノカだけが生き残る状況。


 それだけは、避けなければならなかった。

 例え、どれほどの恥をさらそうとも、どれほどに自尊心が砕けようとも。


「誓おう、ヨノカ! 私は必ず、君をこの手で殺す。我が誇りを取り戻す為、この羞恥と苦渋を注ぐ為、君の血にて我が喉を潤さんと誓おう! ああ誓おうとも!」

 叫び、オーギュストはその場から離れていく。


「ま、待て!」

 血が足りず、死人のような青ざめた顔で、それでもヨノカは手を伸ばし叫んだ。


 オーギュストは背を向けたまま、だけどぴたりと足を止めた。


「逆だ! オーギュスト! 必ず、必ずだ! 必ずお前を追いかけ殺す! 貴様の根城を見つけ、今度こそ貴様の息の根を止めてやる! 貴様じゃない! 俺が貴様を殺すんだ!」

「宣言、確かに受け取った。今日より君は、私の好敵手だ――」


 オーギュストは血の刃を天へ解き放ち、天井を粉砕した。

 開かれた大穴より吸血鬼の破滅たる天の光が降り注ぎ、暗闇を切り開く。


 吸血鬼三つの屍はその光に焼かれ、塵と化した。


 オーギュストも日の光に焼かれ、全身が炎上する。

 それを気にする事もなく、オーギュストは天井の穴から城の外に出ていった。

 その情けない敗走の姿を教訓とする様に、その無様な有様を二度と忘れないと誓う様に――。


 オーギュストは太陽にその身を曝し、屈辱をその身に刻みつけながら、ヨノカの元から逃げ去った。

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