第5話 揺れる正義

 風が変わった。


 ミレナ村に吹く春の風は、やわらかで心地よいはずだった。だが今、レオンの背に感じるそれは、どこか鋭く、警告めいていた。


 ──ウルスの言葉が頭を離れない。


「お前は“裏切った”。それ相応の報いを受けることになる」


 村人たちの笑顔の裏で、自分の首に忍び寄る刃の気配を、レオンはひしひしと感じていた。


 ◆ ◆ ◆


「レオン、今日も手伝ってくれてありがとうね!」


 マーシャの笑顔は変わらず、優しかった。畑仕事を終え、麦茶を差し出してくるその手に、何の疑いもない。


「いえ、こちらこそ……助かってます」


 レオンは笑って応えたが、内心では自分の存在がこの村にとって“毒”になってはいないかと怯えていた。


 ──もしも、ウルスが再び現れたら?


 ──もしも、村人に被害が出たら?


 正義を貫くとは、自分だけが苦しむことでは済まない。周囲を巻き込む覚悟も問われるのだ。


 レオンはその覚悟が、自分にあるのか分からなかった。


 ◆ ◆ ◆


 その日の夜、レオンが村の集会場にいると見知らぬ旅人が訪れた。


 黒髪を後ろで束ね、片目に眼帯をした青年。身なりは質素だが、ただ者ではない雰囲気を纏っていた。


「ここに“レオン”という者はいるか?」


 村人たちの視線が一斉にレオンへ向けられる。


「……あなたは?」


「名乗るほどの者ではない。だが一応、ギルドの“査問官”だ」


「査問官……?」


 カイルが小さくつぶやいた。冒険者ギルドには、内部の倫理と規律を監査する特殊な役職が存在するという。それが“査問官”だった。


「最近、各地で“転生者”による犯罪が急増している。君のような“善良な転生者”は例外だが、組織としては放置できない」


 青年――カインと名乗った査問官は、真っすぐにレオンを見つめた。


「協力してほしい。君のような者が、模範となる必要がある」


 村人たちの視線が揺れる。


 誇らしげに見る者もいれば、怯えをにじませる者もいた。


「俺が模範……?」


「そうだ。君は“殺し屋”だった。だが今は違う。人を助けて生きている。──その証明が必要なんだ」


 正義という言葉が、レオンの中で鈍い音を立てた。


 (模範となる……? それは“贖罪”なのか?)


「すまない。今は答えられない」


 レオンの答えに、カインは目を細めた。


「……わかった。だが近いうちに決断してくれ。次に会う時、答えがなければ──こちらで判断する」


 ◆ ◆ ◆


 その夜、カイルがこっそりレオンの部屋を訪れた。


「……レオン、本当に行かないのか?」


「行くか行かないかじゃない。“何のために行くか”が問題なんだ」


 レオンは膝を抱え、焚き火の明かりを見つめていた。


「正義ってのはな……俺たちが勝手に作った“都合のいい言葉”かもしれない」


「都合の……?」


「俺は人を殺してきた。命令されたから? 金のため? 生きるため? どれも“正義”とは言えなかった。でも──今も分からない。俺のやってることが、本当に誰かの役に立ってるのか」


 沈黙が落ちる。


 だがカイルは、レオンの隣に座ってぽつりと言った。


「……でもさ。ぼくには、君に助けているように見えるよ。ぼくに初めて話しかけてくれた時も、あの火事のときも、ずっと」


 レオンは驚いた顔でカイルを見た。


「君が“本当の意味での正義”かなんて分からない。でも、君は“間違いを繰り返さないように努力してる”。それだけで十分だと思う」


 その言葉が、胸に深く沁み込んでいく。


 “努力している”ということが、どれほど尊いか。


 ◆ ◆ ◆


 翌朝。


 レオンは村の丘に登り、風を受けながら立っていた。眼下に広がるミレナ村。小さな集落だが、そこには確かに“自分の居場所”がある。


 (この場所を守りたい。誰にも奪わせたくない)


 その思いは、きっともう、かつての“殺し屋”の感情とは違っていた。


 そして彼は決意する。


 ──正義とは、選ぶものではなく、築くものだ。


 泥を掴み、汗を流し、恐れと戦いながら、少しずつ築いていくものだと。


 レオンはゆっくりと村へ歩き出す。


 背後に広がる空は、曇りながらも一筋の光が射し込んでいた。

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