胡桃遊び

魔女木直樹

第1話

2025年、青森県津軽地方の小さな農村では、クルミが名産として知られていた。しかし、アメリカのトラップ大統領が仕掛けた関税戦争の影響が日本全体を襲い、この田舎町にも暗い影を落としている。関税恐慌は都市だけでなく地方にも波及し、クルミ農家の生活は日に日に困窮していく。かつては豊かな実りをもたらしたクルミの木々が、今では不景気と農業不況の象徴と化していた。大恐慌以来とも言われる経済の停滞の中、人々は生き抜くために小さな希望を見出そうと日々を過ごす。この物語は、そんな過酷な現実の中で、農村に暮らす人々の日常と葛藤を描いたリアル系の小説である。関税戦争が引き起こした苦難は、遠く離れた田舎町にも確実に届いており、それは日本全体が抱える「自分事」として重くのしかかっている。


倉庫の寒さは骨まで染みた。亮太は懐中電灯を手に持ったまま、雪の上に転がしたクルミを見つめた。小さな実が跳ねる音が、静寂の中で妙に大きく響く。かつてはこれが金になった。胡桃沢のクルミは、殻が薄くて実が甘いと評判で、輸出先では高値で取引されていた。それが今ではただの重荷だ。亮太はしゃがみ込み、クルミを拾い上げると、ポケットにしまった。倉庫の扉を閉め、家に戻る道すがら、彼の頭の中では数字がぐるぐる回っていた。借金の額、売れ残った在庫の量、来月の生活費。どれもが暗い未来を予感させるものばかりだ。

家の中では、美咲が台所を片付け終え、結衣の描いた絵を手に持っていた。テーブルに置かれたその絵には、クルミの木と笑顔の家族が描かれている。子供らしい丸っこい線で描かれた木には、たわわに実がなっていた。亮太はそれを見て、胸が締め付けられる思いがした。結衣にとってクルミの木はまだ希望の象徴なのかもしれない。だが、現実は違う。

「結衣、寝たか?」亮太は低い声で尋ねた。

「ああ、さっき布団に入れたよ。今日は公民館の話で疲れたみたい」美咲は絵をテーブルに戻し、亮太の顔を見た。「あんたも疲れてるね。顔が真っ青だよ」

「疲れるような話しかねえからな」亮太は椅子に腰を下ろし、額を押さえた。「村長は支援策がどうのって言ってるけど、県も国も当てにならねえ。トラップが関税をぶち上げたせいで、俺たちのクルミはただのゴミ扱いだ」

美咲は黙って亮太の隣に座った。彼女もまた、この不景気がどれほど深刻かを理解している。結婚してからの数年は、クルミの輸出が順調で、生活に余裕があった。結衣が生まれた時だって、将来に不安はなかった。それが今では、銀行からの督促状が届くたびに胃が縮こまる思いだ。

「でもさ、ハナ婆ちゃんの話、ちょっと気になったんだ」美咲が口を開いた。「胡桃遊びってさ、昔の人はそれで辛い時を乗り越えたんだよね。なんか、そういう小さなことが大事なのかもって思うよ」

「小さなことじゃ腹は膨れねえよ」亮太は吐き捨てるように言ったが、その声には力がなかった。彼はポケットからクルミを取り出し、テーブルに置いた。結衣の絵の横に転がる小さな実が、妙に場違いに感じられた。

翌朝、胡桃沢は薄い霧に包まれていた。亮太はトラクターを引っ張り出し、クルミの木々が並ぶ畑に向かった。冬の間は収穫はないが、木の手入れは欠かせない。枝を剪定し、来シーズンに備える。それが農家の仕事だ。だが、今年はその意味が薄れている。売れる当てがないのに、なぜこんなことをしているのか。亮太は鋏を手に持ったまま、立ち尽くした。

そこへ、村長の佐藤健一が軽トラックでやってきた。助手席には、見慣れない男が乗っている。スーツを着たその男は、40代半ばくらいだろうか。健一がトラックから降り、亮太に声をかけた。

「亮太、ちょっと話がある。こいつは県庁から来た高橋って奴だ。支援策の話でな」

高橋と名乗った男は、ぎこちなく笑いながら名刺を差し出した。「高橋誠です。県の農林課で働いてます。胡桃沢の状況を聞きまして、少しでもお役に立てればと」

亮太は名刺を受け取りもせず、高橋を睨んだ。「お役に立てるって、どうやってだよ。クルミが売れねえのは県のせいじゃねえ。アメリカの関税が原因だ。それをどうにかできるのか?」

高橋は一瞬言葉に詰まったが、すぐに咳払いをして答えた。「確かに、関税問題は我々の手には負えません。ただ、県としては地元産品の販路拡大を支援するプログラムを検討中でして。例えば、クルミを使った加工品の開発とか、国内市場での需要喚起とか」

「加工品?」亮太は鼻で笑った。「そんな金も時間もねえよ。俺たちは今、生きるのに精一杯なんだ」

健一が間に入った。「まあまあ、亮太。話くらい聞いてみろよ。県が動いてくれるだけでもありがたいだろ」

亮太は渋々頷き、高橋の話を聞くことにした。高橋は鞄から資料を取り出し、クルミの粉末を使った菓子や、クルミ油の製造案を説明し始めた。確かにアイデアとしては悪くない。だが、亮太の頭には現実的な問題が浮かぶばかりだ。設備投資の資金はどこから出すのか。加工品が売れる保証はあるのか。結局、国や県が本気で動かなければ、関税戦争の波に飲み込まれるだけではないのか。

その夜、亮太は再び公民館に足を運んだ。今度は村の若手農家が集まり、県庁の提案について話し合うためだ。佐々木亮太以外にも、30代の農家が数人集まっていた。皆、疲れた顔をしている。中でも、林田翔太という男が口を開いた。彼は亮太と同じく家族を持ち、クルミ農家として生計を立てている。

「加工品って言ってもさ、俺たちにそんなノウハウねえよ。県が金を出してくれるなら別だけど、そんな話はねえだろ?」

「だろな」亮太が頷いた。「結局、俺たちが借金してリスク背負うだけだ。トラップが関税を下げてくれりゃ、こんな苦労しなくて済むのに」

「トラップか……」翔太が苦笑した。「あいつが大統領に返り咲いた時、テレビで笑ってた奴らがいたけど、俺たちには笑いものじゃねえよ」

議論は堂々巡りを続け、結論は出なかった。ただ一つ、皆が感じていたのは、この不景気が自分たちだけの問題ではないということだ。関税戦争は日本全体を蝕み、津軽の小さな村にもその爪痕を残している。亮太は公民館を出る時、再びポケットのクルミを握り潰しそうになった。だが、その硬い感触が、なぜか彼を落ち着かせた。

家に帰ると、結衣が目をこすりながら起きてきた。「お父さん、おかえり。クルミ持ってるの?」

「ああ、これか」亮太はクルミを見せ、結衣に渡した。「お前、胡桃遊びって知ってるか?」

「ううん、なにそれ?」結衣が首をかしげた。

「昔の遊びだよ。こうやって転がして遊ぶんだ」亮太は床にクルミを転がし、結衣が笑いながら追いかけた。その小さな笑い声が、暗い夜に一筋の光を灯した。


結衣の笑い声が家の中に響き、亮太は一瞬だけ現実を忘れた。クルミが床を転がり、結衣がそれを追いかける姿は、まるで昔の自分を見ているようだった。だが、その楽しげな時間が長く続くことはなかった。結衣が眠りに落ち、美咲が布団をかけてやると、家の中は再び静寂に包まれた。亮太はテーブルに座り、昼間の高橋との会話を思い返していた。加工品の提案。確かに、クルミをそのまま売るだけでは未来がないのかもしれない。でも、その一歩を踏み出すための金も気力も、今の彼には残っていなかった。

美咲が台所から戻り、亮太の前に湯呑みを置いた。「あんた、さっき結衣と遊んでた時、ちょっと笑ってたね。久しぶりに見たよ」

「笑ってたか?」亮太は自分でも気づかなかった。「ただ、結衣が楽しそうだったから、つい……」

「それでいいんじゃない?」美咲は湯呑みを手に持ったまま、優しく言った。「私たち、ずっと暗い話ばっかりしてきたけどさ、結衣にはそんな顔見せたくないよ。ハナ婆ちゃんの言う胡桃遊びみたいに、小さなことでいいから笑える時間を作らないと」

亮太は黙って湯呑みを手に取った。熱いお茶が喉を通り、冷えた体を温める。美咲の言葉は正しいのかもしれない。だが、現実の重さはそう簡単に振り払えない。関税戦争がなければ、トラップがアメリカを再び引っ掻き回さなければ、こんな苦労はしなくて済んだはずだ。亮太は湯呑みを置くと、立ち上がった。「ちょっと外の空気吸ってくる」

外は雪が降り続き、胡桃沢の村は白い闇に沈んでいた。亮太は家の裏にある小さなクルミの木の前に立った。祖父が植えたこの木は、彼が生まれる前からここにあった。かつては家族全員で収穫を楽しんだものだ。今ではその実が売れず、木すらもただの風景に成り下がっている。亮太はポケットからクルミを取り出し、木の根元に置いた。まるで供物のように。

翌日、村に小さな動きがあった。村長の佐藤健一が呼びかけ、若手農家数人と高橋が再び公民館に集まった。今度は具体的な計画を立てるためだ。健一はテーブルに地図を広げ、胡桃沢の畑や倉庫の位置を示しながら言った。「高橋さんの提案を元に、まずは小規模で加工品を作ってみるってのはどうだ。県が一部資金を出してくれるらしい」

「一部ってどのくらいだよ?」林田翔太が鋭く尋ねた。「俺たちだって借金抱えてんだ。失敗したら終わりだぞ」

高橋が資料を手に答えた。「初期投資の3割を県が補助します。ただし、残りは自己負担です。リスクは確かにありますが、国内市場でクルミ製品が売れれば、安定した収入が見込めますよ。例えば、クルミのペーストやお菓子なんかはいかがでしょう」

亮太は黙って聞いていたが、内心では疑念が渦巻いていた。国内市場といっても、消費者がクルミ製品にどれだけ興味を持つのか。そもそも、不景気で皆が財布の紐を締めている今、そんな商品が売れるのか。だが、黙っているのも悔しくて、口を開いた。「売れる保証はあるのか? 俺たちは賭けに出る余裕なんてねえよ」

高橋は少し困った顔をしたが、すぐに笑顔に戻った。「保証はできません。でも、やらないよりは可能性がある。関税で輸出が潰された今、新しい道を探すしかないでしょう」

その言葉に、会場が重苦しい空気に包まれた。誰もが分かっていた。現状維持ではジリ貧だ。だが、新しい一歩を踏み出す勇気も資金も、皆が欠けている。健一が咳払いをして言った。「とりあえず、試作用にクルミを少し出してみねえか? 失敗しても在庫が減るだけだ。どうせ売れねえんだから」

その提案に、亮太も翔太も渋々頷いた。翌日から、村の倉庫に眠るクルミの一部が公民館に運ばれた。そこには、松田ハナも顔を出していた。彼女は杖をつきながら、積み上がったクルミを見渡し、呟いた。「昔はこんなに余るなんて考えられなかったよ。戦争が終わった時だって、クルミは貴重だった」

「ハナ婆ちゃん、昔はどうやってたんだ?」翔太が興味深そうに尋ねた。

「どうやってたって、食べたり売ったり遊んだりさ。胡桃遊びで子供らを笑わせて、空腹を忘れさせてたよ。クルミを砕いて粥に混ぜたりもしたな。あんたたちも、そんな風に頭使ってみな」

ハナの言葉に、亮太はふと立ち止まった。クルミをただ売るだけでなく、暮らしの中で活かす。確かに、昔の人はそうやって生き抜いてきたのかもしれない。公民館では、試作用にクルミを砕く作業が始まった。亮太も手伝いながら、頭の中で考えを巡らせていた。もし、クルミを加工するなら、結衣が喜ぶようなものにできないか。お菓子なら、子供が笑顔になるかもしれない。

その夜、亮太は家で美咲と話した。「今日、公民館でクルミを砕いてた。県の提案で試作用にな。失敗するかもしれねえけど、結衣が喜ぶようなお菓子でも作れたらって思ってる」

美咲は目を輝かせた。「それ、いいね。結衣、甘いもの好きだし。私も手伝うよ。昔、実家でクルミのクッキー作ったことあるからさ」

翌日、亮太と美咲は公民館に結衣を連れて行った。試作用のクルミを使い、簡単なクッキーを作ることにしたのだ。結衣は目を丸くして、クルミを砕く作業を手伝った。粉々になったクルミを小麦粉と混ぜ、バターと砂糖を加えて焼く。公民館の古いオーブンからは、甘い香りが漂い始めた。焼き上がったクッキーを手に持つ結衣は、満面の笑みを浮かべた。「お父さん、これ美味しい! クルミってすごいね!」

その笑顔を見た瞬間、亮太の胸に熱いものがこみ上げた。関税戦争も不景気も、この小さな幸せを奪うことはできない。そう思えたのだ。だが、同時に現実が頭をよぎる。このクッキーが売れなければ、借金は増えるだけだ。村全体が立ち直るには、まだ道のりは長い。

公民館の外では、雪が降り続いていた。亮太はクッキーを手に持ったまま、窓の外を見つめた。クルミの木々が白く染まり、静かに佇んでいる。その姿は、不景気に耐える村人たちそのものだった。


公民館のオーブンから漂った甘い香りは、村に小さな波紋を広げた。結衣が作ったクルミクッキーを手に持つ姿を見た他の農家たちも、興味深そうに近づいてきた。林田翔太がクッキーを一つ手に取り、口に放り込むと、目を丸くした。「おい、亮太、これうまいぞ。こんなのが売れたら、俺たちのクルミも少しは活きるんじゃねえか?」

「売れるかどうかは分からねえよ」亮太は苦笑しながら答えた。「ただ、結衣が喜んでたから、まあ悪くねえかなって」

その言葉に、翔太も頷いた。「確かに、子供が笑うってのは大事だな。俺の息子も喜ぶかもしれねえ。試しに俺も何か作ってみようかな」

翌日から、公民館は少しずつ活気づき始めた。試作用に持ち寄ったクルミを使い、農家たちがそれぞれアイデアを出し合って加工品を作り始めたのだ。美咲が教えたクッキーのレシピを基に、誰かがクルミを砕いてペーストを作り、別の誰かがそれをパンに塗って焼いてみた。松田ハナも顔を出し、昔の知恵を披露した。「クルミを炒って塩振れば、酒のつまみになるよ。昔はそれで腹を繋いだもんだ」

村長の佐藤健一は、そんな様子を見て満足げに頷いた。「県の高橋さんに報告したら、試作品を市場に出す手伝いをしてくれるってさ。少しずつでも動き出せば、希望が見えるかもしれねえ」

だが、亮太の心はまだ晴れなかった。確かに、クッキーやペーストを作るのは楽しい。結衣の笑顔も、村人たちの笑い声も、暗い日々に光を灯してくれる。だが、それで借金が消えるわけではない。関税戦争が終わるわけでもない。トラップがアメリカで何を企もうと、胡桃沢のクルミが輸出で稼げない現実は変わらないのだ。試作品が売れなければ、ただの時間の無駄に終わるかもしれない。

数日後、高橋が再び村を訪れた。彼は公民館に並んだ試作品を見て、感心したように言った。「素晴らしいですね。クッキーもペーストも、素朴で温かみがあります。こういうのが地元ブランドとして売れる可能性は十分ありますよ」

「売れる可能性って、どのくらいだよ?」亮太が鋭く尋ねた。「俺たちは賭けに出る余裕がねえ。失敗したら終わりなんだ」

高橋は少し考え込み、慎重に答えた。「正直、確率は五分五分です。市場調査も必要ですし、初期の販路開拓には時間がかかります。でも、県としては販売促進のイベントを企画するつもりです。青森市で小さなマルシェを開いて、そこで試食販売をしてみませんか?」

「マルシェ?」翔太が首をかしげた。「都会の奴らが俺たちのクルミなんかに興味持つのか?」

「持つかどうかはやってみないと分かりません」高橋は資料を手に続けた。「不景気で皆が節約してるのは確かですが、地元の食材を使った手作り品には需要があります。特に、ストーリーがある商品は強い。胡桃沢のクルミが、関税戦争に負けずに立ち上がった証だって伝えれば、共感してくれる人もいるはずです」

その提案に、健一が目を輝かせた。「ストーリーか。確かに、俺たちの苦労をそのまま伝えりゃ、ただのクッキーじゃねえって分かるな。亮太、お前はどう思う?」

亮太は黙って考え込んだ。確かに、ストーリーは大事かもしれない。関税戦争で潰されかけた村が、クルミで立ち上がる。そんな話なら、誰かの心に響くかもしれない。だが、同時にリスクも頭をよぎる。マルシェに出すための準備資金はどこから出すのか。売れ残ったらどうするのか。それでも、結衣の笑顔が脳裏に浮かんだ。あの小さな幸せを守るためなら、賭けてみる価値はあるのかもしれない。

「分かった。やってみるよ」亮太は小さく頷いた。「ただし、失敗したら高橋さんにも責任取ってもらうからな」

高橋は笑って手を振った。「責任は取れませんが、成功するよう全力でサポートしますよ」

その日から、胡桃沢はマルシェに向けて動き出した。美咲がクッキーのレシピを改良し、結衣がパッケージに絵を描いた。翔太はペーストを瓶に詰め、ハナのアイデアで塩炒りクルミを作った。健一は村人たちをまとめ、公民館を臨時の工房に変えた。皆が忙しく動き回る中、亮太は不思議な感覚に包まれていた。こんな風に村が一つになるのは、いつ以来だろう。関税戦争がなければ、こんな苦労はしなかったかもしれない。だが、この団結も生まれなかったかもしれない。

マルシェの日が近づくにつれ、亮太の不安は増していった。夜、結衣が寝静まった後、彼は美咲と二人で台所に座った。「もし売れなかったら、どうするんだろうな。借金が増えるだけだ」

美咲は静かに亮太の手を握った。「売れなくても、結衣が笑ってた。あんたが頑張ってる姿を見て、私も嬉しかった。それだけで十分じゃない?」

「十分じゃねえよ」亮太は声を荒げたが、すぐに目を伏せた。「でも……確かに、結衣の笑顔は大事だな」

その夜、亮太は再び家の裏のクルミの木を見に行った。雪が積もり、木は白い影のように佇んでいる。彼はポケットからクルミを取り出し、木の根元に転がした。昔、祖父と遊んだように。クルミが雪の上を滑り、小さな音を立てる。その音が、なぜか心を軽くした。

マルシェの前日、公民館では最後の準備が進められた。クッキー、ペースト、塩炒りクルミが箱に詰められ、結衣の描いた絵がラベルとして貼られた。健一が皆を見渡し、言った。「明日が勝負だ。俺たちのクルミが、どこまでやれるか見せてやろうぜ」

亮太は箱を手に持ったまま、頷いた。関税戦争も不景気も、確かに彼らを苦しめた。だが、この小さな挑戦が、未来を変える一歩になるかもしれない。雪が降り続ける胡桃沢で、村人たちは静かに決意を固めた。


マルシェの朝、胡桃沢の村人たちはまだ暗いうちから動き出した。公民館に集まり、箱詰めしたクッキーやペースト、塩炒りクルミを軽トラックに積み込む。雪が降り止んだ空の下、青森市に向かう道は静かだった。亮太は助手席に座り、結衣が描いたラベル付きの箱を膝に抱えていた。隣でハンドルを握る健一が、口笛を吹きながら言った。「天気がいいな。客が来てくれりゃ、上出来だ」

「売れるかどうかは分からねえけどな」亮太は窓の外を見ながら呟いた。内心では、不安と期待が交錯していた。もし売れなかったら、また借金が増えるだけだ。だが、結衣の笑顔や美咲の励まし、村人たちの団結が、彼をここまで引っ張ってきた。

青森市の小さな広場で開かれたマルシェは、思った以上に賑わっていた。地元の農家や手工芸品の出店が並び、家族連れや観光客がそぞろ歩きをしている。胡桃沢のブースは端の方に位置していたが、結衣の絵が描かれたラベルが目を引いたのか、早々に人が集まり始めた。高橋が用意したチラシを手に、健一が大声で呼びかけた。「胡桃沢のクルミだよ! 関税戦争に負けねえで作った、魂のこもった一品だ! 試食してみな!」

亮太はクッキーを配りながら、客の反応を見ていた。年配の女性が一口食べて、「懐かしい味だねえ」と笑った。若い母親が子供にペーストを塗ったパンを与えると、子供が目を輝かせた。塩炒りクルミを手に持ったサラリーマン風の男が、「これ、ビールに合いそうだな」と呟いた。小さな声が積み重なり、ブースは徐々に活気づいていった。

正午を過ぎる頃には、用意した試作品の半分が売れていた。翔太が興奮した声で言った。「亮太、見ろよ! 売れてるぞ! この調子なら全部捌けるんじゃねえか?」

「まだ分からねえよ」亮太は冷静を装ったが、胸の奥で何か熱いものが膨らんでいた。売れる。初めてその実感が湧いたのだ。関税戦争で輸出が潰され、不景気に喘いできた胡桃沢のクルミが、こうして誰かの手に渡っている。結衣の絵が、誰かの笑顔につながっている。

夕方、マルシェが終わる頃、胡桃沢のブースはほぼ空になっていた。売上を計算した健一が、笑顔で報告した。「8割が売れたぞ。残りは試食でなくなった。初回にしては上出来だろ」

高橋が近づき、握手を求めた。「おめでとうございます。これなら、次はもっと大きな規模でやれますよ。県も本格的に支援を検討します」

亮太は握手を返しながら、初めて高橋に感謝を感じた。「まあ、悪くねえ結果だな。次があるかは分からねえけど」

その夜、胡桃沢に戻った村人たちは公民館でささやかな祝杯を挙げた。美咲が持ってきたクッキーを皆で分け合い、結衣が眠そうに亮太の膝に寄りかかった。ハナが杖をつきながら言った。「昔の大恐慌の時も、こうやって笑ってたよ。胡桃遊びで腹を誤魔化してさ。あんたたち、よくやったね」

「胡桃遊びか……」亮太は呟き、ポケットからクルミを取り出した。結衣に渡すと、彼女は眠そうな手でそれを転がした。床を滑る小さな音が、公民館に響いた。

翌日、亮太は家の裏のクルミの木を見に行った。雪が溶け始め、木の枝に春の兆しが見えていた。彼は木の根元にしゃがみ、土に触れた。祖父が植えたこの木が、不景気の中で再び意味を持つ日が来るとは思わなかった。マルシェの成功は、小さな一歩に過ぎない。借金が消えたわけでも、関税戦争が終わったわけでもない。だが、村が一つになり、結衣が笑い、クルミが誰かの手に渡った。それだけで、未来が少しだけ明るく見えた。

数日後、高橋から連絡があった。マルシェでの評判が広がり、青森市内のカフェがクルミ製品を扱いたいと申し出たという。健一は早速、次の生産計画を立て始めた。翔太は息子と一緒にクッキー作りに挑戦し、美咲は新しいレシピを考え出した。胡桃沢は、静かに動き続けていた。

その夜、亮太は結衣と一緒に胡桃遊びをした。床を転がるクルミを追いかけ、結衣が笑う。美咲が台所から見守りながら、そっと微笑んだ。外では、クルミの木が風に揺れていた。関税戦争も不景気も、まだ彼らを苦しめるだろう。トラップが何をしようと、日本政府が動かなくとも、胡桃沢にはこの小さな幸せがあった。亮太はクルミを手に持ったまま、静かに目を閉じた。雪が溶け、春が来る。その日まで、彼らは生き続けるのだ。

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