タイムリミット

 得物を失ったアンリは結弦と円香から距離を取り、飛ばされたナイフの元へ駆け寄ると拾い上げたナイフと右手を2人の方に向けた。

 アンリは右手を円香の方に向ける。『糸』の力で円香を味方に引き込めば2人がかりで結弦を押さえつけられると踏んだのである。

 翼のように背中から生えた『糸』と右手から放たれる『糸』を総動員して円香へとぶつける。

 他の人よりも耐性が強い結弦が庇うのか、それとも二人して避けようとするのか。どちらの対応をされても次の手はある。結弦が庇ったとしても一瞬ばかり気を失わせることはできるならその隙に円香を狙う。二人して避けるのなら、円香の避ける方向に向けて『糸』を伸ばせば良い。それがアンリの作戦だった。

 当然、アンリの作戦は破綻する。円香は「糸」を避ける必要などないのだから。

「なっ……!」

 『糸』は円香の体に触れた途端に根元から塵となって消滅した。予想だにしない光景にアンリの口から驚嘆の声を漏らす。

 耐性があるなどと生易しい事象ではないとすぐにわかった。磁石の同極同士を近づけたら反発しあうように、根源的な部分で『糸』の力は円香には届かないとアンリは肌で感じた。

 翼のなくなったアンリの背中が冷や汗でぐっしょりと濡れる。

「次から次へと……!」

「手短に済むならそれに越したことはないから、一応聞いておくわね。『栞』を渡しなさい」

「誰が渡すものですか」

 怖気付いたことを悟られないように、毅然とした態度で断る。

「それに、渡したところで世界は元に戻りませんわよ」

「へえ? どうして?」

「糸を硬く結ぶことは容易でも、解くのは難しいでしょう? それと同じで下手に外そうとしたら、廃人になってしまうかもしれません。……そうですわ。ここはお互い不干渉の提携を結びません?」

「不干渉?」

「ええ。本当なら殺してでもこの世界から消えていただきたいところですが、今すぐにこの場から立ち去って、わたくしと関わらないというのなら見逃してあげます」

「ふざけないで。それで私たちに何の得があるの」

「命が助かるなら儲け物だと思いますけれど……今は二対一ですが、その気になればわたくしは『糸』の力で周囲から人を呼ぶことだってできるのですよ? ですが、そうですわね……」

 アンリは顎に手を当てて考える。自分が焦っていることを気取られないように、こちらが優位に立っていると伝わるように、できる限り余裕ぶってみせた。

「お二人が生活に困らない程度の人材を糸の支配から解放して差し上げましょう。お望みでしたらお都合の良い人格に書き換えてもいいですわよ?」

「話にならないわね」

 アンリの提案は一蹴された。

「硬く結ばれた糸を丁寧に解く必要なんてないわ。知ってる? もっと簡単に絡まった糸を解く方法」

 円香は胸ポケットから一枚の『栞』を取り出した。

「刃物で切ればいいだけよ。──実行」



 『栞』が円香の手の中で短剣に変形する。

「高木君は下がってて。できれば私の背中のすぐ後ろを維持して。」

 円香に言われ結弦は部屋の出口まで下がった。結弦が安全地帯まで移動したことを確認した円香はアンリとの距離を一気に詰める。

(……なんですの、あの短剣!?)

 『糸』と同じように『栞』から出てきた。そして円香の口ぶり。“栞を破壊する能力“を持っているとアンリはすぐに察した。

『糸』の力を無効化できる人間が『栞』を破壊する道具を持っている。その事実がアンリの抱えていた焦燥感を加速させる。

(この二人を殺さなければ、本当に理想の世界が壊されてしまう……!)

 『糸』を背後に向かって放ち、壁を貫通させて屋敷の中に糸を張り巡らす。『糸』引っかかった人形に召集伝令を出した。しかし、アンリの部屋に到着するまで多少の時間はかかる。それまで一人で凌がなければならない

 葛藤している暇などない。

 手段を選んでいる暇などない。

 心の中で言い聞かせ、自分の世界を守るために罪を犯す覚悟を決めると、アンリはナイフを円香に向けて振りかぶった。

「危なっかしいわね」

 円香はあっさりとアンリの左手首を掴んでナイフを止めた。円香は掴んだ左腕をそのまま手際よく背中に回し、手首をひねる。アンリは痛みに耐えきれずにナイフを手離した。

「高木くん、このナイフを遠くにやっておいて」

 床に落ちたナイフを蹴りで結弦の方へ転がした。結弦は足元に転がってきたナイフを足で払って部屋の外に出す。

「何をするのですか! 放しなさい! 放して! 」

 左腕の自由を奪われたアンリはもがいて抵抗する。

「高木くん、『栞』を使うところは見た?」

「右手の手袋だ」

 結弦の返答を聞いて円香は右足でアンリの左足を払う。アンリはバランスを崩し、ゴンッという鈍い音と共にうつ伏せに倒れた。

 円香は手袋を取り上げようと、アンリの右手を見た。

「……往生際の悪い」

 アンリは手袋を取り上げられないように、最後の抵抗として右手を胸の下に隠していた。

「さ、大人しく右手を出しなさい。暴れると怪我するわよ」

「い、いやっ! 放しなさい! 狼藉者!」

「狼藉者って……好き勝手しておいてよく言えるわね」

 円香は両足で全体重をかけることでアンリの左手を抑え、体の下に隠している右手を引きずりだそうとする。アンリは必死に暴れて抵抗した。

「こらっ。このっ」

 激しい抵抗に円香は苦戦する。猫化の影響で体力の少ない円香はアンリの体を完全に押さえつけることができず、ターゲットであるアンリの右手をなかなか掴めなかった。

 思うように手放しくてないアンリに円香の表情に焦りが見え始めた。

「ああ、もう! 往生際の悪い! 諦めなさい!」

 円香の叫びと共に、ポンっというコルクの抜けたような音が室内に響いた。

「……へ?」

 急にアンリの体を押さえつける力が消えた。突然のことにアンリの口からは間抜けな声が出た。

 状況を理解できないまま試しに上半身を起こしてみると、上から押しつける力に阻まれることなく、代わりに背中から何かがずり落ちる感覚がした。背中から滑り落ちた物体の正体を確認する。

「猫……?」

 そこには抜け殻のように脱ぎ散らかされた制服と一匹の黒猫の姿があった。

 アンリの頭上からひらり、ひらりと一枚の紙片が木の葉のように舞い落ちていく。アンリは自分の右手を見た。純白の手袋がまだ装着されている。

 最大の脅威たる「短剣」は一枚の紙切れに戻って、アンリの三メートルほど横に落ちた。



 薄暗い部屋の中にいた3人に知る由のないことではあるが。

 外の風景は既に暗闇に包まれている。

 タイムリミットは当に過ぎていた。

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