条件
襲い掛かってくる無数の糸を全て回避するにはこの部屋からの脱出が最も確実な方法だが、その選択はあまり意味がない。脱出したところで一時凌ぎにしかならないからだ。この糸を回避できたところで、部屋を出てしまえば馬鹿みたいに長い夏目家の廊下を走り抜ける必要がある。
糸の伸縮速度は不明。しかし、結弦の足よりは確実に速く、廊下ぐらいの広さだったら糸でよける隙間を無くすぐらいのことはできそうだ。
この部屋を出た時点で完全に詰む。前方に回避した方がまだ望みはある。糸の動きを見たてすぐに結弦は直感した。うまく避けて近づくことができれば、逆転の機会を作ることもできる。
最も糸の密度が低そうな場所を探した。糸はアンリの体の左右に広がり結弦に向かって伸びている。そのうえで手袋を付けた右手側の方が密度が高い。ということは、体の前に両腕を伸ばしたら必ず隙間ができるように、アンリの体の前には物理的に糸が通れない領域が存在するはずだ。
一縷の望みに賭けて結弦は前に走り出し、アンリの体に向かってヘッドスライディングの要領で飛び込んだ。
うまく回避できたかはわからない。自分の意志はまだ残っていたが、人格が上書きされるまでにタイムラグがあるだけかもしれない。僅かでも自分の意思が残っているうちに手袋を奪い取ろうと、結弦は起き上がり、アンリの右手の方に目た。
結弦が目にしたのはアンリの右手だった。。
「……やられた」
よける猶予もなくアンリの指先から「糸」が放たれ結。きっとわざと守りの薄い場所を作っていて、まんまと誘き寄せられたのだろう。きっと自分の意識は闇に沈んでいき、物言わぬ人形となる。そうなることの覚悟を決めた。
「……」
「……」
「……」
「……ん?」
しばらく経っても結弦の意識は失われなかった。改めて自分の胸を見ると確かに撓みむことなくピンと張られている三本の「糸」が結弦の胸とアンリの指を繋いでいる。試しに右手で「糸」を外して見ようとすると、そもそも触ることができなかった。実態は持っていないらしい。
「チッ」
アンリは舌打ちをした。
表情から察するにアンリにとってはさほど予想外の出来事ではないようである。
「あーあ」
良家のお嬢様とは思えない柄の悪いため息をつくと、アンリは右足で結弦の胸を蹴飛ばす。バランスを崩した結弦は仰向けに倒れた。
結弦が起き上がろうとする前にアンリは鳩尾を力強く踏みつけて起き上がれないようにした。それから、左手でスカートをたくし上げると綺麗な太ももと、少女の太ももには不釣り合いなほど厳つい、ナイフ付きのが現れた。
初めてこの部屋に来た時に結弦に向けたあのナイフだった。
ホルスターからナイフを取り出したアンリは結弦に馬乗りになって、ナイフの切っ先を心臓の真上に当てた。
「……」
沈黙が流れる。アンリはナイフは押し込みもしなければ、引き下げもしない。ナイフを当てたまま、結弦の顔を伺うだけだ。
アンリは内心で期待通りの成果が得られずに憤慨していた。
「貴方、このままだとわたくしに殺されますわよ? 命乞いくらいしたらどうなんです?」
「君が僕を殺す気なら、命乞いなどするだけ無駄だろう。だから、君の行動の意味を考えている」
「わたくしの行動?」
「殺す気がないなら脅迫しているのだろうが、脅迫して何を得ようとしているのかわからなくてね」
「なんだ。そんなことですか。慈悲で命まで奪わないように『糸』を使っているのです。しかし、貴方に『糸』が効かないようなので命を奪うしかありません」
「今までもそうしてきたのか?」
「……何ですって?」
「君の性格を考えると反応が落ち着きすぎだが、今までも『糸』が効かなかった人間を殺してきた割には、躊躇いすぎている」
「……何が言いたいのです」
アンリの左手に力が入った。
「“命乞い“という行為自体に、君にとって重要な意味があるんじゃないか? と思ってね」
「……別に。あまりにも平然としてるから、気になっただけです。よくもまあ、刃物を押し付けられてベラベラと喋れますわね。ああ、もしかしてこのナイフ、脅すためのおもちゃだと思ってますか? でしたら──」
そう言ってアンリはナイフを結弦の体に向けて僅かに押し込んだ。制服に切り込みが開き、小さな赤い点ができる。
「ちゃんと本物。それも一級品ですのでご安心くださいませ?」
アンリはできる限りサディスティックな笑って見せた。本気を出せば殺せるのだと分かるように。殺すこともなんとも思っていないと、分かるように。
「やっぱり、殺す気はないみたいだな」
結弦は痛みに少し顔を歪めるだけだった。脅しのおもちゃでないことを示しても、実際に傷つけてもこの男は顔色ひとつ変えない。アンリに殺意がないとたかを括っているようだ。
そういう甘く見られているところもイライラする。
最終手段として殺す覚悟は持っているつもりだ。この男を殺したところで、今の世界にその罪を裁く人間はいない。。
ただ、できれば手を汚したくないというのがアンリの本心だった。
「そういえば、僕が初めてこの部屋に来てしまった時も君はナイフを取り出していたな……確かあの時も左手……」
なのに。この男は脅しにも屈さず推理を続ける。命乞いをするどころか、慌てふためく様子もない。「糸」の力も通用しない。
──この男は本当に殺さなくてはいけないかもしれない。
そんな考えが頭をよぎる。
「なるほど、君の反応の意味もようやくわかってきた」
聞いてもいないのにベラベラと推理を語り、一人で納得している結弦。厄介なことにその推理は痛いところを突いていた。その事実がさらにアンリの焦りを加速させる。
「僕の仮説を言おう。以前、いや厳密には昨日まで、君はナイフがないと『糸』の力を使えなかったんじゃないか?」
その一言で、二人の空間は静寂に包まれた。
「はあぁああ……」
アンリは大きなため息で静寂を引き裂いた。アンリは覚悟を決めた。やるしかない。この男は生かしておいては危険だ。
「命乞いをするのであれば助けて差し上げようかと思ったのですが……仕方ありませんわね」
「否定はしないのか」
「最期の言葉はそれで良いのですか?」
アンリは平静を装った。結弦相手にはハッタリにすらなっていないかもしれないが、自分で自分を騙すための振る舞いだった。
より良い世界にするために、この男を亡き者にする必要がある。
これから殺人を犯すことを意識したら息が荒くなった。初めて人を殺す。その行為に対してアンリの持っている人並みの倫理観が覚悟を鈍らせる。
(……それでも、やるしかない……)
躊躇と同様を胸の奥へと押し込み、両手を振り上げる。
その瞬間、ナイフを持つ手に横から強い力が加わった。その力を受け止めきれなかったアンリはナイフを手放してしまう。アンリの手を離れたナイフは金属の擦れる音とともに部屋の隅に追いやられる。
「危ないところだったわね」
その声の主は結弦でもアンリでもなかった。ゆっくりと顔を上げるとアンリの視界に美しい黒髪を揺らしながら、右足を蹴り上げている女の姿が映った。
生徒会副会長、関円香がそこにいた。
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