名家に生まれるということ
エンジン音とともに走り去る夏目家の車をぼーっと見つめていた結弦は小さな声を漏らした。結弦の目の前にあるのは桃園学院の正門。そして今の自分の恰好はベージュのズボンに水色のシャツ。まごうことなき私服である。
「今日は関の迎えに行かなくていいんだった」
休日なのにいつもの癖で学院前でおろしてもらってしまった。愚かしいことに往路は家の近くまで迎えに来てもらったので自転車もない。
頭上を見上げると空は黒い雲に覆われている。己の選択を悔いている暇はなさそうだった。
雨が降り始めたのは学校と自宅のちょうど半分ぐらいの地点に差し掛かった頃だった。この調子だと本降りまでの猶予はなさそうだと思い、足を速めようとしたその矢先、赤信号に捕まってしまった。
どうにも間が悪い。そう思った時、突然目の前が真っ暗になった。
「だーれだ」
目の周りにごつごつとした硬い感触がする。同時に、体に水滴が当たらなくなった。
どうやら何者かが結弦を自分の傘に入れたうえで、もう片方の腕で結弦の目を覆っているようだ。何者かと言っても声の調子と狭い交友範囲においてこんなことをやりそうな人間は一人しかいない。
「……何やってんですか、会長」
「おっとバレてしまったか」
視界が開かれた。振り向くと黒いズボンにネクタイ付きのシャツ、白い中折れ帽子姿の会長が手を振っていた。
「調査をしてたら偶然、傘もささずに突っ立ている君を見かけてね。つい悪戯をしたくなった。ってどうしたんだい。まじまじとみて」
「いえ、会長も私服を着るんだと思っただけです」
「そりゃあ休日だからね」
会長はふっと笑う。そのタイミングで丁度信号が青に変わった。
「家まで送ろう」
「いえ──」
流石に悪いです、と遠慮しようとしたが、会長は結弦の背中を軽く押しながら横断歩道を渡り始めた。さっさと渡ってしまおうと言わんばかりに押される手に、横断歩道の途中で逆らうわけにもいかず会長に押されるがまま歩く。
「……ありがとうございます」
「気にすることはない。それよりどうだね。件の人間恐怖症の生徒は」
「抜け道みたいなのは見つけられましたけど、根本的な解決は難しそうですね」
「そうか。でも焦ってはいけないよ。、雑に片づけた末に世界樹の力を使われてしまっては本末転倒だからね」
「はい。気を付けます」
横断歩道を渡ってる間、結弦は俯いて考えごとをしていた。アンリから事情を聞いてからずっと考えていたことで、ちょうど目の前に参考になりそうな人がいる。今後のために聞いた方がいいのは間違いないのだが、失礼にならない言葉選びに迷っていた。
白い線と黒い線が交互に視界に映る。やがて白い線が見えなくなり、次に足を置く場所に一瞬悩んだ時、結弦は言葉選びに悩んでも仕方がないと、意を決して聞いてみることにした。
「会長の家ってお金持ちなんですか」
「お? カツアゲかな」
言葉選びは失敗したようだった。
「違いますよ。いい家柄の生まれなのと言う意味です」
最初からこの言い回しにたどり着いておくべきだったと結弦は自分の語彙力を反省した。
「はっはっは。意地悪をしてしまったが、その通り。私の家は大金持ちだよ」
自慢じゃないがね、と付け足す会長。その表情にはどこか陰りが見えた。
「家柄のせいで苦労したことってありますか。周りの人間に対して疑心暗鬼になったりとか」
「あるよ」
当然だと言わんばかりに会長はいつもの調子で答えた。
「特に女の子は怖い。異性として魅力的に思われるのは──仮に家柄のおかげだったとしても悪い気はしないけど、ハニートラップの可能性が脳裏をよぎって、素直に好意を受け入れづらくなる」
「ハニートラップ……」
「たかが高校生にって思ったかい?」
「というよりは、そんなものが実在するとは思わなくて」
「それが実在するんだよね。少なくとも、親戚の一人はそれで立場を失っている」
「……そういう不信感ってどうやって乗り越えるものなんでしょうか」
「受け入れるしかないよ。そういう家に生まれちゃったんだからね」
「簡単にいいますね」
「事実は変えられないからね。まあ、家の品位を落とせば寄ってたかる人はいなくなるだろうけど、多くの人に迷惑がかかるからそこまでしようとは思わないかな。例え望んだものではないとして、自分の立場の責任から逃げるわけにはいかないし」
「責任、ですか」
「社会的に高い地位というのは多くの人間に影響を与えるからね。その立場や財産を狙う人間がどれだけいようとも、他人の悪意に怯えて、自分の殻に閉じこもってたら責任を果たせないだろう。少なくとも私はそんな人間にはなりたくないんだよ」
それで、と会長は続けた。
「例の人間恐怖症の生徒は結構いい家の子なのかな」
「はい」
そういえば名前を言っていなかったと思った結弦は、アンリの名前を伝えようとしたが口を「な」の形にする前に会長がそれを制止した。
「名前は言わなくていいよ。恋愛相談でもあるんだろう。そういう秘密は信頼関係のためにも、許可なく口外しない方がいい。──で、参考になったかな」
「会長が人間的に強すぎてちょっと参考にはできなさそうですね」
率直に答えると会長は傘の裏を見上げて高笑いした。
「ただ、私は別に強い人間じゃないよ。悪意を持って近づいてくる人間の存在を知っていても、私が他人を恐れないのは信頼できる味方の存在がいてこそだ。もちろん『信頼できる人間』には高木君も含まれているよ」
「僕はそんな善良な人間ですかね」
「どうかな。でも、悪人ではないだろう。君は欲というより使命感で動く人間のように思えるが違うかな」
「……」
結弦は答えなかった。
「まあ、こうして私を雑にあしらえる分、関さんや高木君は他の人間よりは信用できるよ。何より軽口を言い合える関係性は心地いい」
「マゾヒストってことですか……?」
「違うよ! そういう嗜好はないから! 少なくとも同性にはね!」
「え、関に対してはあるってことですか?」
「な……いよ!」
「なんでちょっと詰まったんですか」
「ないって言いきるのも失礼かなって一瞬悩んだだけだから! 別にそういう目では見てないから! 少なくとも私のタイプではないから!」
「それはそれですごく失礼な気がしますけどね」
会長は荒くなった息を整える。
「別に。利害を気にせず言い合える関係が心地よいというだけの話だよ。そういうのができるのは学生の間だけだからね」
と、そんな話をしているうちに高木家についた。
「ありがとうございました」
結弦は礼を言って会長の傘の下から、ひさしの下に移動する。会長はにっこりと笑うと
「じゃあ、月曜に学校で」
と言って立ち去って行った。
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