結弦が帰ったあとの夏目邸。

　アンリは趣味の読書の時間を満喫していた。

　本は良い。自分に向けられているかもしれない悪意に怯えることなく刺激を楽しめる。本の中の登場人物たちは自分に悪意を向けることなく、自分を楽しませてくれる。

　人間恐怖症になる前から外の世界が恐ろしいアンリにとって物語の世界は唯一の逃げ場所だった。

　だけど今日はどうしてか読書に集中できない。

　──夏目さんはなんで人間恐怖症に？

　結弦の質問がずっと心の中に残り続けていた。「長年の積み重ね」という答えは嘘ではないが、実を言えば人間恐怖症の引き金となったであろう出来事の心当たりはある。

　ただ、あまりにも思い出したくない出来事だから、無意識のうち当時の記憶を押さえつけていた。

　押さえつけていた記憶は今、結弦の質問を依代にふつふつと甦りつつある。

　この屋敷は夏目家の別宅であり実家ではない。アンリの実家は関西にあり、8年前まで両親と妹と共に暮らしていた。

　母親は教育熱心な人間だった。ピアノ、バレエ、武道、算盤、一通りの習い事を強要した。稽古を嫌がると母親は決まって「あなたのためよ」と威圧感のある笑みを浮かべて言い聞かせた。

　対してアンリは不器用だった。何1つとしても人並みにすらなれず、母親はそんなアンリを厳しく叱った。「あなたのような出来損ないは夏目家の恥だ」と言われたことすらある。アンリにとって家は叱られるためだけにある嫌な場所だった。

　家が嫌な場所だからといって、家の外は安らげるかと言うとそんなことはなかった。家でどれだけ叱られていようとも、周囲はアンリは夏目家という名家の人間として見る。夏目家に生まれたというだけで注目を浴びる。嫉妬される。夏目家の事業の軋轢で恨みを持つ人もいる。

　端的にいえば、アンリは学校でいじめられていた。物を隠されたり、謂れのない噂を吹聴されたり、ひどい時は直接的な暴力を受けたりもした。

　街中もアンリにとっては恐ろしい場所だ。身代金目当て、恨みつらみ、様々理由でアンリは狙われている。警備がいながらも何度も誘拐された。

　いくら不出来な娘と罵る親でも、誘拐されて人質になった時ばかりは親はアンリを必死に助けようとした。父親がすぐに警察や民間のプロに連絡を取り、要請を受けた組織は優れた手腕でアンリを救出した。

　自分を助けるために両親が動いたと知ったとき、こんな自分でも両親は心配してくれるんだとアンリは安心した。おかしな話だが、誘拐犯から助けられたときだけがアンリにとって親に安心感を抱ける瞬間だったが、同時に妙な居心地の悪さもあった。何度か誘拐されるたびに、居心地の悪さは次第に違和感へと変わっていった。

　家にも学校にも居場所のないアンリだったが、ただ一人だけ彼女を守ってくれる友達がいた。

　辰野蘭という同学年の少女だ。彼女は入学当時からアンリの友達となってくれた。クラスの人気者で、正義感の強い少女だった。根も歯もない噂を楽しむ輩には説教をし、嫌がらせから庇ってくれた。アンリそんな彼女に心を許していた。

　転機は小学四年生のとある日の放課後だ。

　委員会活動を終えたアンリは辰野と一緒に帰ろるために彼女を探していた。一緒に帰ると言っても学校敷地内の駐車場までの距離ではあるが、アンリにとって数少ない学校生活における楽しみの時間の一つだった。

「蘭ちゃんさ、よくあんなやつとつるめるよね」

　知らない誰かの声が聞こえた。ただ、話の内容から話し相手は辰野だとわかり、アンリは駆け足で声の方へと向かった。その時だった。

「しんどくない？ 夏目アンリと付き合うの」

　突然、自分の名前を呼ばれたアンリは足を止めた。

「まあね」

　それに同意したのは辰野の声だった。アンリは耳を疑った。

「でもさ、あの子って夏目家じゃん。味方になっておいた方が後々お得だし。それに、周りの大人からの印象もいいでしょう？」

　辰野の声で伝わってきた言葉が理解できない。頭が真っ白になった。

「そうでもなきゃ、あんたたちと一緒にいじめてるって」

　キャハハという甲高い笑い声が二人分、アンリの耳に入った。

　自分の悪口を陰で吐き出し、ケラケラと笑う彼女たちの姿を見て、アンリは誘拐犯から助けられるたびに覚えた違和感の正体に気づいた。

　自分のためだと言ってしつけた母は自慢の娘というアクセサリーが欲しかった。

　自分を誘拐した犯人に憤る父は世間体を守りたかった。

　両親の依頼に応じて助けにきた人たちは手柄が欲しかった。

　いじめから助けてくれた辰野蘭は、いじめられている子を守った人格者という賞賛欲しかった。

　欲しいものが違うだけで、身代金を要求する誘拐犯と何も変わらなかったのだ。自分のために動いてくれたように見えてみんな、自分の欲しいものを手に入れるために夏目アンリという存在を利用していたのだと思った。

　その日から、アンリは目の前にいる人間が自分に対して悪意を持っていると思うようにになった。

　貶めようとしているのか。

　騙そうとしているのか。

　憎んでいるのか。

　利用しようとしているのか。

　誰も信じられなくなったアンリは他人が秘めている悪意を勝手に想像し、極度の緊張状態に陥る。そして最終的に嘔吐してしまうようになった。

　辰野蘭の件を機にアンリは親元を離れて今の屋敷に住み始めた。両親は口ではいうが、世話が焼ける娘を使用人に押し付けたいという態度を隠そうとはしなかった。

　相変わらず誘拐の危機は何度かあったが、周囲の人間と距離を置くことで虐められることも無くなり、以前よりはマシな環境になった。

　それでもまだ、人間が恐ろしい。

「はぁ……。どうして答えてしまったんでしょうね」

　結弦だって初回はともかく、今は何かしらの裏を持って接しているのかもしれないのに、なぜあんな話をしてしまったのだろう。おかげで嫌な記憶まで思い出してしまい、読書に熱が入らない。