相席作戦
「掛谷、すまない。用事ができた」
食堂の長蛇の列に並んでいる最中、結弦はわざとらしく着信中の表示が出てる携帯電話を見せつける。
食堂のおばちゃんに注文を告げたばかりの掛谷は困り顔を浮かべた。
「おお、まじか」
掛谷に断りを入れた結弦は、お盆を戻して生徒会棟まで早足で移動した。
生徒会棟に幾つかある共用会議室の一室に入り、ドアに貼られた札を“使用中“に変更した。再度、ポケットから携帯を取り出すと一通のメッセージが届いていた。
『蜂須賀さん、呼び出せたわよ』
千鶴の対応は円香に任せていた円香からだ。ドアに一番近い席に座り『了解。ありがとう』と返信する。
作戦は順調に進んでいる。下準備は完了した。ここからが本番だ。
『作戦開始』とだけ書かれたメールがアンリの携帯電話に届く。アンリは深く息を吸ってから、食堂のドアを開けた。
そこには見渡す限りの人、人、人。これまで味わったことのない人込みにアンリは逃げたい衝動をどうにか踏みとどまって、食堂内に一歩足を踏み入れた。
ワイヤレスイヤホンを右耳につけて、長い金髪でそれを隠し結弦に電話をかける。結弦はワンコールで応答した。
『聞こえているか?」
結弦の声がする。吐くのはわかってるから返事をしなくていいと言われているので無言を貫いた。
『もし聞こえていたら注文の列に並んでくれ』
結弦からは見えていないとわかりつつも、アンリはゆっくりと頷いた。そしてトレーと箸を持って注文の列に並ぶ。
アンリにとって最初の関門は注文だ。当然だが、掛谷と相席するためには食堂のメニューを注文する必要があるわけだが、桃園学院の食堂はこれだけ混雑しているのに食券制を採用しておらず、アンリ自身の口で自分が食べたいものを伝える必要がある。
今のアンリはナイフを持っていない。このまま普通に話しかければアンリは恐怖から嘔吐してしまう。
もちろん、このことは事前に結弦から知らされているし、そのために最低限の効果を実験で確認済みの対策も用意してある。
(うう……緊張します……)
アンリの前に並んでいた生徒の注文が終わった。次アンリ分の番、それを意識しただけで喉の奥から嫌な感覚がこみあげてくる。
「はいよ、次の人。何にする?」
おばちゃんがアンリの方を見た。アンリは反射的に目を逸らす。
背中をぞわぞわっと寒気が走った。気を抜いたら吐いてしまうだろう。だけど、ここで吐いてしまったらこの先にある目的にはたどり着けない。それどころか、今後の関係を築くことすら難しくなってしまう。
そう自分に言い聞かせて、アンリは震える指で制服の胸ポケットから一枚のカードを取り出した。カードの表面にはマジックペンで“オムライス”と書かれている。
結弦の考えた対策はいたってシンプル。「あらかじめ伝えたいことをカードに書いて置き、必要に応じて見せる」というものだ。
アンリにとって、対人コミュニケーションで嘔吐の最終的な引き金になりうるのは自分の意思を伝えるという行為のようだった。どんなに距離を取っても、自分の意思を人に伝えようとすると吐いてしまうし、伝える相手がその場にいない手紙ですら書いている途中で吐いてしまう。
しかし、アンリは学内の筆記試験でまずまずの成績を残している。このことに違和感を抱いたことが糸口となった。
アンリが試験の答案を問題なく書けていることについて考察と実験を繰り返した結果、次の事実が判明した
一つ、伝える相手の存在を意識しない状況であれば問題なく文字を書けること。
二つ、既に文字が書かれた媒体を手渡すことはできること。
これを利用して、結弦は今回の作戦で使いそうな名詞と汎用性の高い言葉をを白紙のトランプセット54枚に書いてアンリに手渡してある。ちなみにオムライスはアンリの好物らしい。
ただし、この作戦も完璧ではなかった。文字が書かれた媒体を渡すことができるといっても、カードを得蘭でいる間は常に嘔吐寸前の感覚に襲われるようで、5秒以内にカードを選ばなければもれなく吐いてしまう。やはり、直接的な原因は他人と向き合うこと、すなわち人間を強く意識することであり、自分の意思を伝えるという行為が嘔吐の引き金になるのはそれが最も相手の存在を強く意識する行為だというだけなのだろう。
暫定的な大作として、注文時に使うカードは胸ポケットに隔離することにした。1枚しかないから選ぶ間も無く、アンリは自分の注文するメニューを伝えられる。
「あいよ。オムライス定食ね」
おばちゃんが注文を確認する声が聞こえた。第一関門は突破したようだ。
アンリはオムライスの乗ったトレーを両手で持って食堂を見渡す。幸いにして掛谷はすぐに見つかった。ここからが二つ目の関門だ。
掛谷の向かいの席に立つと、アンリは人間に対する恐怖と、憧れの人を前にした緊張によって噴き出た汗が背筋を伝うのを感じた。
一方で掛谷は好物のハンバーグを咀嚼しながらテスマホを操作していて、アンリには気づいていない。
注文の時はおばちゃんが尋ねてくれるからアンリは受け身になるだけでよかった。だが、相席の申し出はアンリから自発的に動かなければならない。トレーで両手が塞がってるからカードを使うこともできない。
最初の一言は、アンリ自身の口ちゃんと伝える必要がある。
「あ、あのっ……」
恐怖と緊張を乗り越えて喉から出てきた声はあまりにも小さすぎて、食事中の談笑の声にかき消されていく。掛谷には届かない。
でも、それでいい。これは結弦と事前に相談した、二つ目の人間恐怖症対策作戦開始の合図だ。アンリの髪で隠れているワイヤレスイヤホンの内蔵マイクを通して、結弦に届けばいい。
『相席、よろしいですか』
合図を受け取った結弦はできるだけ機械的な音声に聞こえるように、手元にあるメモ用紙を読み上げた。
英語のリスニングの勉強法として、教材音声を真似して発音するという手法がある。難易度に応じてシャドーイングや、オーバーラッピングなどと呼ばれるものだ。
この勉強方法から結弦は着想を得た。要するに“聞いた音を復唱するだけ“という体をとることで自分の意思を伝える言葉を選ばないようにし、相手の存在を意識しないように自分を誤魔化すことができれば声を出せる、という考えだ。
この方法もメイドの牧野さんを相手に効果は確認済みだ。実践でも同じように結弦の言葉を繰り返せばいい──はずだった。
「あい……あいっ……ウェっぷ」
アンリの声が詰まった。胃袋から何かが込み上げてくるのを感じたかと思うと、喉の奥が酸っぱい感覚がじんわりと広がった。アンリは吐きそうになったが、掛谷から目を逸らして何とか堪えた。
音声だけでしか現場の状況を把握できない結弦もよからぬ雰囲気を感じた。状況を確認して軌道修正すべきだが、自分の声がきっかけで吐き出す可能性があり、それがままならない。
作戦は失敗した。
できるはずがないのだ。ここまで近い距離にいる、恋焦がれる相手を意識しないことなど。
自分で言葉を選ばなくても、ただ聞こえた言葉を復唱するだけでも、好きという思いの分だけ相手の存在を強く意識してしまう。その思いの強さに小手先のテクニックによる誤魔化しが入り込む余地はなかった。
掛谷への強い思いがそのまま人間恐怖症のアンリに牙を剥く。アンリは自分の強いが生み出した恐怖心に襲われ声を出せない。
牧野との実験がうまくいったのは、アンリにとって牧野個人に対して特になんとも思っていなかったからだ。現実の再現として不適な条件だった。結弦も結弦で恋という感情への理解が足りていなかった。
意地と根性で吐き気を抑え込むことはできたが、完全に膠着状態だ。アンリの頭の中は真っ白になり何も考えられなくなる。アンリはただその場で立ち尽くすことしかできない。
誰か助けてくれと、人間が怖いくせにアンリは助けを願った。
その時だ。
「座るか?」
結弦ではない男の声が膠着状態を破った。横目で声の主を見る。
「席、探してるんだろ。ここ使っていいぞ」
目の前で立ち尽くしているアンリの存在に気づいた掛谷が声をかけてきた。掛谷は左の掌を差し出し「どうぞ」と着席を促す。
アンリは緊張でこわばらせた表情で頷き、掛谷とは対角線上の椅子に座った。
「……」
「……」
二人の間に会話はなく、ただ食べ物を口に運ぶだけの時間が流れる。
この間もアンリの心中は恐怖と憧れの人と食事をしている幸福感がせめぎ合っていた。ただし、残念ながら恐怖心の方が強くアンリは食事中も吐き気を催している。テーブルは十分な横幅があったから吐き気は抑えられているが、そのせいで顔色は青い。
「なんか、顔色悪いな。大丈夫か」
掛谷はアンリの顔色を気遣い、声をかける。急に話しかけられたアンリは縦に二回、首を勢いよく振って答えた。
これが、この日に唯一成立した掛谷とアンリのコミュニケーションだった。
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