月明りの生徒会室
結弦はカバンから数学と理科の問題が書かれたA4用紙を取り出した。これはアンリの苦手な範囲を把握するために手元の問題集から抜粋して作成したものである。
作ってきた問題用紙のうち数学と理科のものだけアンリの勉強机の上におき、制限時間は気にせずできる限り取り組むように指示した。当然、ナイフは片付けてもらっている。
一時間後、アンリは結弦を見つめ、人差し指で机をトントンと軽く叩いた。解き終えた意思表示と受け取った結弦はアンリの机に向かう。結弦が近づくとアンリは椅子から立ち上がり距離をとった。
結弦はアンリの答案にざっと目を通す。
「……ん?」
答案を眺めているうちに結弦は違和感を覚えた。正当がほとんどないので変なのは当然だが、それとは別に何かがおかしい。何かを見逃している気がした。
違和感の正体を検討するが全く掴めない。五分ほど深刻な面持ちで解答を眺めた末に、結弦はクリアファイルにしまった。経験上、五分考えてわからなかったことはすぐに答えは出せないと思っているからだ。
結弦は「それじゃあ、また次回」と言って夏目邸を後にした。
日は沈み、電気も消えた生徒会室を月明かりだけが照らす。会長席に優男の姿はなく、役員用のソファの上に一匹の黒猫がタブレットPCで読書をしている。
家庭教師の依頼に取り組む結弦と萩原英美の件を調査する円香は生徒会室で待ち合わせをすることにしていた。
「すまない。遅くなった」
「大丈夫よ。お迎えありがとう……って何か酸っぱい臭いするのだけど」
「依頼主にゲロを吐かれてね」
結弦はありのままの事実を伝えた。
「そう……その、いわゆるイケメンではないかもしれないけど、そんな醜悪な見た目はしてないと思うわ。だから、落ち込まないでね?」
「別に僕の容姿が原因で吐いたわけじゃないから変な気を使わなくていいんだよ」
結弦はソファに腰を下ろし、依頼について話した。円香は掛谷と面識があったので恋する相手が掛谷であることは伝えたが、夏目アンリという名前と、盗撮をしていた事実はアンリの尊厳を考えて伏せた。
「人間恐怖症なのに恋をしてしまった……なかなか難儀な課題ね」
「ああ。正直言って困っている。特に恋愛の方だ」
「恐怖症の方じゃないのね」
「そっちは一応、糸口はあるからね。人として問題はあるけれど」
「恋愛相談ってそんなに難しいことかしら。結局、相手の心次第だし、成就まで責任持たなくていいのよ? 特に今回の相談相手は女の子だから、高木くんが男性目線のアドバイスを言えばいいんじゃないかしら」
「男性目線のアドバイス?」
「男の人は女の子のこういう仕草に惹かれるとか、こういう女の子が男ウケいいとか……」
具体的な策を示したが、結弦はピンときてなさそうだ。円香の脳裏を嫌な予感が脳裏をよぎる。
「もしかして、ないの?」
「ないなあ」
結弦はしみじみと答えた。
「誰かを好きになったことは?」
「少なくとも物心をついてからは思いつかない」
「男の子同士で恋バナしたことは?」
「ない」
「じゃあ、猥談は? あの女子はエッチだなあとか話さない?」
「ない。というか一般的な男子高校生ってそういうこと話すのか?」
「よくそれで恋愛相談を受け持ったわね」
「頼まれてしまったからな」
円香は呆れ混じりのため息を吐いた。
「関ならどうする?」
「私?」
「意中の男を狙う時、あるいは女子同士で恋愛相談を受けた時なんて答える?」
「そうねえ……」
円香は顎に肉球を当てるという猫らしさのかけらもない姿勢で考えた。
「その子、可愛いの?」
「容姿は整っている方……だと思う。美的感覚があてになるかはわからないが」
「じゃあ、胸は大きい?」
「……胸?」
一般的に女性をそういう目で見ない方がいいと心得ている結弦はアンリの体をまじまじと見ていなかったからすぐに答えられなかった。しかし、どこかでアンリの全体像は視界に入っているはずだ。こういう時、結弦は目を閉じて記憶の中の映像から情報を取り出すことにしている。
「目を瞑って女の体を思い出すって客観的に見たらなかなか変態ね」
「仕方ないだろう。覚えていないんだから」
「で、どう?」
「まあ、そうだな……」
思い出すのは初対面の時椅子に座っているアンリの横から見た姿。確かにわかるような膨らみがあったような気がする
「一般的に見て、大きい方だったと思う。服の上からでもわかるぐらい」
「なら、色仕掛けね。露出度高い格好して、谷間見せつけて告白すれば万事解決よ」
「児童向け雑誌の恋愛相談コーナーでも、もう少まともなアドバイス返すと思うぞ」
「男という生き物は美貌と乳でゴリ押せば勝手に落ちてくれるものなの」
「暴論がすぎるなあ」
「流石に冗談よ。で、色仕掛けを第一案として」
「色仕掛けの方は本気なのか」
「当然でしょう。強い武器を持っているのなら選択肢として検討しておくべきよ。切り札は実際に使うつもりはなくても、持っているだけで敵にも味方にも効果があるの」
ミサイルと一緒ね、と円香は付け加えた。
「残念なことに全ての女がミサイルを持っているとは限らないし、全ての男にミサイルが有効とは限らないわ」
「もしかして巨乳のことミサイルって呼んでる?」
「力を持たないものがどうやって戦いに勝つか。情報による駆け引きよ」
「情報と駆け引き……確かに、恋愛はいかに相手の感情を揺るがすかという勝負だと言えるからな。具体的にはどうすればいいんだ?」
「……」
円香の目が泳ぐ。最もらしい答えを言ってみたはいいものの、具体的なアイデアは何もないとは言いにくかった。
「……それは……ほら。雰囲気とか。そういうあれよ」
「そういうあれって」
「なんかこう、駆け引きの末にいい感じの雰囲気作ってボディタッチしなさい。そうすれば男は勝手に落ちるわ。だって男の人ってちょっと可愛ければキスとかそれより上のこととか誘ったら断らないでしょ?」
「……」
しどろもどろになりながら偏見を語る円香を結弦がどこか訝しげな目で見つめる。
「で、でも生徒会が没収した参考文献には書いてあったのよ!?」
「成人向け雑誌を参考文献と呼ぶ人間を初めて見たよ」
なお、桃園学院では学業に関係のない雑誌の持ち込みは校則違反である。そして、その雑誌から得た情報が円香の持つ恋愛に関する知識の全てだった。
「結局、色仕掛け以上の案はないと」
「そうなるわね。私から出せるのは」
「恋愛絡みの相談って一番寄せられそうな気がするが、関は普段どうしてたんだ?」
「女子生徒の場合はさっきのアドバイスをそのまま伝えてたわ」
「本当に大丈夫なのか?」
「男子生徒の場合は、客観的かつ理論的に改善点を指摘したわ。清潔感がないとか」
「本当に大丈夫なのか? さっきとは別の意味で」
「あれで泣くような男はどうせ振り向いてもらえないわよ」
「大丈夫じゃなかったな」
結弦は泣かされた男子生徒に同情しながら円香のタブレットパソコンを片づけ始める。帰宅の合図だと受け取った円香はソファからピョンと飛び降りた。
「ちなみに、会長はどんなこと言ってた?」
「そうねえ……詳しい内容は把握してないけど、会長に相談した生徒はみんな満足度の高そうな顔してたわね」
「となると、会長の助言を乞うのは有効かもしれないな」
「それがいいかも。何より高木くんは男性視点の知見が不足しているみたいだし」
「関も似たようなものだろ」
「流石に私でも恋愛感情とかときめく男性の仕草ぐらいは答えられるわよ。高木くんはそれすらないでしょ」
「……返す言葉もない」
結弦は生徒会室のドアを開け、円香に外に出るように促す。
「私には自分から異性と交際に漕ぎ着けるまでのノウハウがないだけ。交際を申し込まれたことはいっぱいあるのだけど」
円香はさりげなく異性に人気がある事実を語る。だが、誇らしげな様子はなく、どこかうんざりしているように見えた。
円香は結弦がドアを開けているうちに生徒会室の外に出た。結弦は円香が外に出たのを確認し、施錠する。
「ノウハウ……。交際経験の多い女性のアドバイスも聞いてみるか」
「それがいいと思うわ。攻略する城の傾向と、城の攻め方、両方の情報を集めるってわけね」
「戦争で例えるの好きだな」
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