実験:人と話すために

「人が怖いと言っても全く喋れないわけではないことは先の件で分かった。おそらく、どもらずに喋れる条件がある」

 結弦はアンリと1メートルほど離れた位置から話しかける。調べた結果、このぐらいの距離を開ければこちらから話す分には問題ないことが分かった。逆に言えばこの距離を保たないと話を聞いてもらう事すらできない。

「まずは再現性の確認から始めよう」

「再……うっぷ……」

「無理に喋ろうとしなくていい」

 ただし、彼女の方から声を出すことは距離を開けてもできない。どうやら人が近くにいるだけでなく、人間の存在を意識すること自体が恐怖と嘔吐の引き金になるようである。

「とりあえず、さっき持ってたナイフを持ってきてくれ」

 結弦に指示された通り、アンリは部屋を出てナイフを持ってきた。

「何か話してみてくれ……そうだな。自己紹介でもどうだ。名前と所属クラスを話してみてくれ」

「桃園学院高等部1年3組、夏目アンリと申します」

 今度はハキハキと喋った。

「ナイフを持ってるときは話せるのか」

「みたいですわね。……あれ? と言うことはわたくし、掛谷先輩とお話しできる方法を見つけてしまったのでは!? 意思疎通手段の問題は解決ですわね!」

「……そうだな」

 はっきりと言ってやるべきか悩みながらも肯定しておくと、アンリはなぜか体をもじもじして顔をぽっと赤らめた。

「そのぅ……貴方に男性として忌憚のない意見を聞かせていただきたいのですけど、わたくしの容姿っていかがなものでしょうか? 可愛いと思っていただけるでしょうか?」

「まあ、整っていると思うよ」

 これは本音である。なお、ナイフを向けられているので仮に彼女の容姿があまり整っていない方であっても、この言葉以外の選択肢はない。

「では、今ここでいきなり告白したらどう思われます?」

「……かなりドキドキするだろうね」

 ナイフを持った女性から告白されて平静を保てる男は少ないだろうな、と結弦は思った。

「で、ではその場合、交際まで漕ぎ着けると思われますか?」

「……君との交際を断れる男は少ないと思う」

 もちろん、ナイフを持っているからである。よほど肝が据わっていなければ刺激しないように振る舞うだろう。

「まあ……! まあ……!」

 アンリは一人で舞い上がり始めた。このまま放っておくとナイフを持ったまま街中まで走りそうな勢いだ。そろそろ指摘せねばなるまい。

「夏目さん」

「なんですの?」

 結弦は部屋にあった姿見を親指で指しし示す。

「一度、鏡の前で告白のシミュレーションをしてみるといい」



「わたくしは何を浮かれていたのでしょう……あれではただの脅迫にしか見えませんわ……」

 鏡で自分の姿を客観視したアンリは目に見えて落ち込んでいた。気を取り直し、人間恐怖症の抜け道を模索する。

「そもそも、どうして刃物を持っていると流暢に喋れるのだろう」

「そうですわね……」

 アンリは刃物を握りしめたまま、人差し指を唇の下に当てて考えた。事情を知らなければ猟奇的な絵面である。

「相手より優位に立てている自覚があるから……でしょうか」

「なるほど。優位な立場に立てていることをいいことに強気に立ち回れるってことかな」

「言葉選び悪すぎません?」

「そういう状況を武器を使わないで成立させるとなると……弱みを握るとか」

「結局脅迫じゃないですか。そういう不健全な関係はお断りですわ」

「それで付き合えるとしても?」

「……………………………………………………………………もちろん」

「すっごい間があったね」

 欲望と倫理観の戦いは相当泥仕合になっていた様子である。

「まあ、脅迫で成立する人間関係はよくないしね。恋人となればなおさらだ」

 結弦は声以外の伝達手段に目を向けてみる。

「筆談は? 僕は君の手紙によってここにきたわけだけど、文字を人に向けて書くのはどうなるんだ?」

「あの手紙はエチケット袋片手に何度も吐きながら書きましたわ……」

 アンリは顔を青くしながら、依頼状を書いた時のことを語る。

(まあ、少し酸っぱい匂いしたもんな)

「手紙のように時間をかけてもいいならともかく、筆談はそうもいかないでしょう? お相手も目の前にいることですし……」

「筆談も無理か……」

 すぐに思いつくような手法は既に試していると言うことだ。発想を膨らませてく必要がある。

「歌とかどうだろう」

「歌……?」

「音楽も元を辿れば伝達手段だ。何より歌っている時、人は楽しい気持ちになると聞く。恐怖を乗り越える力となるかもしれない」

「なるほど……一理ありますわね」

「ちなみに歌ったことは?」

「人前ではありませんわね……吐いてしまうかもしれないので」

「よし。試す価値はあるな。知っている曲でいいから歌ってみてくれ」

 アンリはナイフを机の上に置く。そして、深呼吸してから流行りの曲の一フレーズを歌った。歌としては上手とも下手とも言い難い微妙な歌唱力ではあるものの、歌詞をしっかり聞き取れるように、滑らかな発音で歌えていた。

「行けるかもしれないな……」

 アンリは歌い終えた途端に表情を明るくする。自分は人前で歌えるという発見がアンリの気分を高揚させていた。

「じゃあ、次はそのメロディに合わせて何か……そうだな、日頃の不満について僕に語ってくれ」

 アンリは力強く頷いてから、口を大きく開けた。




「……ごめんなさい」

 吐瀉物を掃除する結弦に対してアンリが謝罪する。

 結果だけ言えば、一言も紡ぐことなくアンリは嘔吐した。

「できないのなら仕方のないことだ。次の作戦にいこう」

「はい……次は何を試すのですか?」

「フリースタイルラップだ」

「……ラップ? ラップってあのYO! YO!というあれですか?」

「ああ。世の中には即興の歌詞にのせてフリースタイルラップを披露するMCバトルという競技があるらしい」

「歌で気持ちを伝えるのとどう違うのでしょう……?」

「MCバトルにはアンサーという概念があるそうなんだ」

「アンサー……?」

「相手のラップにラップで反撃することだ。つまり、フリースタイルラップでは歌よりコミュニケーションとしての側面が強くなる」

「コミュニケーション……だとしたら、先ほどの二の舞になってしまうのでは?」

「かもしれない。だが、ラップでは韻や節回しという技術も大事になってくる。つまり、技術面に脳のリソースを割くことで、相手の存在を意識できなくなる。結果、君は恐怖を感じる余裕がなくなる。その可能性を検証したい」

「なるほど……一理ありますわね」

 結弦は既視感を覚えたが黙っておいた。

「じゃあ、やってみよう。テーマはさっきと同じく日頃の不満だ」

「はい!」




「……ごめんなさい」

 一フレーズも言い切ることができなかった。

「まあ、わかってたよ」

 結弦はアンリの吐瀉物に白い粉をかけていた。この粉は吐瀉物を凝固させて処分しやすくする凝固剤だ。結弦が新しい雑巾を取りに行った先で牧野から手渡された。

「次の作戦に取り掛かろう」

 固めた吐瀉物を捨ててすぐに結弦は言った。

「まだあるのですね……よく思いつくものですわ。どんな作戦ですの?」

「尻文字だ」

「は?」

 アンリは思わず聞き返した。

「だから、尻文字だ。尻で文字を描いて相手に気持ちを伝えるんだ」

「一応、理由を聞きましょうか」

「君を観察して気づいたんだが、身振り手振りはできるよな?」

「できますけれども……」

「だよね。だから、体を使った表現なら平気なんじゃないかと思ったんだ。ただ、身振り手振りでは表現できる範囲に限界があるから、体を使って文字を描けないかと考えた。それが尻文字だ」

「……」

 アンリは怪訝な目で結弦を見た。正気を疑いたくなる発想だ。しかし、妙に理屈は通っていたので強く否定することもできなかった。

「よし。じゃあ試してみよう。テーマはさっきと同じだ……あ、今回は口を使う必要ないからエチケット袋を口につけておいてくれ」

「……はい」

 気乗りはしないが、アンリは包丁を机の上に置いて尻を結弦に突き出す。年頃の少女としては恥ずかしい姿勢だったが、好きな男と意思疎通できるようになるため、耐え忍ぶことにした。

「じゃあ、どうぞ」

 結弦の合図とともにアンリは一文字目を書き出した。




「ただ恥を晒しただけじゃないですか」

 一画目で吐いたアンリはナイフとともに怒りの感情を向けた。

「すまない」

 結弦はアンリの嘔吐物に凝固剤をかけながら謝罪する。

「よく考えたら人に向けて文字を書くこと自体がダメだったね」

「そうでなくとも、知らない人間がお尻で文字を書いて意思表示してきたらどう思いますか?」

「変な踊り始めたなって思う」

「でしょうね! 下手すれば学校中の笑い物ですわよ!」

「返す言葉もない」

「そもそも、仮にお尻で文字を書くことができたとして、伝わりますの?」

「漢字は伝わりにくいかもしれない」

「日本語文での伝達手段として致命的すぎませんか」

「ビャンビャン麺とか漢字で書けないと困るよな」

「ビャンビャン麺を漢字で書ける人間も環境も限られてますわよ! もっとあるでしょう! 漢字を使えなくて困る場面!」

 普段はあまり人と会話をしないせいか結弦に突っ込むアンリの声は掠れ始めていた。

「声、大丈夫か」

「お気遣いありがとうございます。大丈夫ですわ。次の作戦に移りましょう」

「いや、次の作戦はない」

「……ない?」

 アンリの表情が固まった。

「ない。ネタ切れだ」

「わたくし……一時間かけて無駄に吐いただけですの……?」

「無駄ではない。期待した結果が得られなかっただけだ。得られた結果は苦労に見合うものでなくても必ず意味がある。……活かせる機会はないかもしれないが」

 結弦は携帯電話で時間を確認する。18時30分だった。

「そろそろ家庭教師の依頼に取り掛かろうとしよう」

 結弦は荷物置き場にある通学鞄に向かって歩く。勉強道具を取り出そうとしたところでアンリは「結構です」と結弦を引き留めた。

「君からの依頼だったはずだが」

 カバンから取り出したばかりのクリアファイルを手に持ったまま結弦が尋ねる。

「それは人付き合いの練習をする建前です。貴方が事情をご存知なら勉強という遠回りは必要ありませんわ。わたくしの成績は芳しくないですが……勉強よりも会話の練習を優先したいです」

「……そうか」

「だいたい、数学や理科を勉強したところで将来使う予定はありませんもの。正直言って無駄な時間ですわ」

「そういう人生もあるかもしれないな……ならば、君の方針を尊重しよう」

「……何か、含みのある言い方ですわね?」

「求められていないことはしない主義でね、君が家庭教師は不要というのなら僕はそれに従うまでだ」

「将来使う予定がなくても無駄じゃないと? だったら教えてくれますか?」

「数学も理科も僕たちが生きるこの世界を解き明かすための知識と調べ方、そして考え方を学ぶ学問だ。知らなくても生きていけるかもしれないが、無関係ではいられない」

 アンリは首を傾げた。知らなくても生きていける。なのに、無関係ではいられないとはどういうことだろう。

「この世界を生きていく上で、大事な判断をしなければならない時が来る。その時、知識も調べ方も考え方も知らないままでは事な判断を誤る確率が高くなる」

 アンリはムッとした表情をする。納得できる部分はあるが、苦手な分野に取り組むことへの抵抗を乗り越えられるほどではなかった。

「偉そうに語ったが、これは僕の幼稚園の先生の受け売りだ。僕の意見ではなく、君の質問の答えとなる考えを紹介しただけにすぎない」

「幼稚園児に壮大なことを語る先生がいるものですわね」

「ちょっと変わった先生でね」

 恩師の話題はそこで打ち止めにして、結弦は話を戻した。

「無関係でいられる確証はないからと言って、興味の持てないことを勉強するのは簡単じゃない。時間は有限だし、必要に思えることだけ集中するという選択肢も間違いではないと思う」

 ただし、と結弦は付け加えた。

「君の本当の依頼にも関係はある」

「どういうことですの……?」

「学問というのは学生ならば確実に共通の話題にできる。特に“わからないことがある“というのは会話のきっかけとして最も使いやすい。勉強でわからないことを聞く、というのは掛谷が上の学年なのもあって自然な会話のきっかけになるとは思わないか? 」

「それは……そうですわね。ですが、それは掛谷先輩と話せるようになってからでもいいのではないでしょうか?」

「これはある種のパラドックスだが、物事を知れば知る程わからないことが増えていく。逆にいうと、自分がわからないことを正確に把握し、人に尋ねるためには知識が必要だ」

「……」

 結弦が言わんとしていることに気づいたアンリは苦虫を噛み潰したような顔になった。薄々と察しつつある。自分が何をすべきなのかを。

「掛谷との話題を少しでも増やした方がいいだろう。その時に、頓珍漢な質問をして掛谷にガッカリされたいかい?」

「……まずは数学から……教えてください……」

 こうして結弦はアンリの恋愛相談と家庭教師を両方受け持つことになった。

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