猫の気持ち
会長は恭次郎を家に送るため先に下校した。円香と結弦は日没まで待機となる。
ほんのわずかだが、5月の始めにもなると生徒会に入ったときよりも日が沈むのは遅くり、以前は作業のキリが良いところで夜の帳が下りていたが、今の空はその表現を用いるには明るい。もう少しだけ作業を進められそうである。
帰り道の夜風はほんのり温かい。背中には久々に少しだけ重い荷物。前方のカゴには久々に見る黒猫の姿となった円香が鎮座していた。
円香が結弦の家に来るのおよそ10日ぶりである。それが理由なのかはわからないが、円香は珍しく自転車のカゴから話しかけてきた。
「高木君、あんなことがあった後になんだけれど、
「明日の朝は卵焼きを食べたいわ」
「わかった。卵切らしてるから帰ったら買ってくるよ」
「途中で寄らないの? その方が手間は少ないでしょ」
「確かにそうだけど、関は店内に入れないから待たせちゃうだろ。それは申し訳ない」
「それぐらい外で待ってるわよ」
円香は少し呆れたように言う。
「泊めさせてもらっているうえに、ごはんまで作ってもらっている身だもの」
そこまで言っても結弦は受け入れないだろうなと思って、円香は言葉を付け足した。
「それに、座りっぱなしだと疲れるのよね。あのスーパーぐらいの位置なら休憩にちょうどいいわ」
「……それなら。寄っていくとしようか」
スーパーからのそのそとした不自然になった歩き方で買い物を終えた結弦が出てきた。思いのほか買いすぎてしまって膨れ上がったマイバッグは肩にかけた程度だとずり落ちてしまうので、仕方なく首から正面にかけてみたが、背中の鞄の重さと作用しあってうまく歩けず、変な歩き方になってしまったのだ。
買いすぎたことを後悔しながらも駐輪場にたどり着き円香の姿を探す。自転車の近くで時間を潰すと言っていたが、駐輪場に彼女の姿はなかった。
周囲を見渡してみるが月あかりとスーパーの窓から漏れる光以外の光源がなく、見通しが悪い。暗闇に紛れやすい黒猫を見つけるのは至難の業だ。
「おーい。いるか?」
結弦は名前を呼ばないように注意しつつ、あたりを呼びかけた。
すると、
「おー、よちよち。どこからきたんでちゅか~」
聞き覚えのある猫撫で声が聞こえてきた。
「蜂須賀」
「あら。高木先輩じゃないですか。こんばんは」
「……こんばんは」
声のした方に向かうと千鶴がいた。そして、千鶴の胸元には不服そうな顔の円香が両手でがっしりと抱えられていた。
円香はブンブンと尻尾を振っているものの抵抗はしていなかったが、結弦の姿を見付けると必死にもがいで千鶴の腕の中を脱出し、結弦の足の後ろへと隠れた。
「あらら。逃げられちゃった」
千鶴はわざとらしく両手を上げる。結弦の足元でしゃがみ、結弦の背後に隠れる円香に向かって小さく手を振って気をひこうしたが、円香は千鶴と目を合わせようとしなかった。千鶴は円香の気を引くことを諦めて、しゃがんだまま結弦の顔を見上げた。
「随分と先輩に懐いてますね。先輩のお家の猫ちゃんですか?」
「まあ……そんなところだな」
「へえ~! 先輩って猫飼っていたんですね! お名前はなんて言うんですか?」
「セ……シュレディンガー」
危うく円香の名前を言いそうになり、咄嗟に思いついた名前に差し替えたが、口にしてから猫の名前としてはあんまりな名前だと気づいた。円香も同意見らしく、結弦のアキレス腱あたりを尻尾でバンバンと叩いてくる。
「シュレディンガー! かっこいいお名前ですね!」
知識のある愛猫家なら怪訝な顔をしそうなネーミングを千鶴は素直に称賛した。そして「シュレディンガ~」と甘たるい猫撫で声に円香に呼びかけた。
千鶴の呼びかけに対し、円香は尻尾をペチペチと地面に打ち付けつつ、そっぽを向く。
「だーめだこりゃ」
千鶴はがっくしと肩を落として落ち込んだ。それから膝に手をおいてゆっくりと立ち上がる。
「蜂須賀も夕飯の買い出しか?」
結弦が尋ねると千鶴は嫌なことを思い出したと言わんばかりに顔を顰めた。よく見ると足元には通学鞄がある。どうやら、学校帰りのようだった。
「いえ。正法を探してたらたまたまここに着いただけです」
「あいつ、学校の外でも迷子になるのか。いや、そもそも学校の中で迷子になる方変なんだけど」
「正確には迷子の初期段階ですね。一緒に下校してたら急に“困っている人がいるみたいだから行ってくるわ!“って走り出してしまったんですよ。で、それを追いかけてきたらこんなところまで来ちゃいました。あっはっは。人のいい幼馴染をもってあたしは幸せ者です」
笑いながら言うが、目は笑っていなかった。
「まあ、よくあることですけれど」
千鶴は手のかかる子供を思うような目で言った。
「よくあることって……っていうか迷子の初期段階ってなんだ」
「正法は方向音痴なので一人で本来の道のりから外れた時点で迷子です。ここが初期段階ですね」
「……その先があると」
「例えば、重い荷物を持ったお婆さんが横断歩道を渡ろうとしていたとするじゃないですか。正法ならどうすると思います?」
「それは……まあおんぶしたり、荷物持ってあげたりするんじゃないか」
「ぶっぶー。ハズレです」
千鶴は腕でバッテンを作る。
「正解はお婆さんごとおぶって家に送り届ける、でした。でも、方向音痴だから送り届けた後に帰り道がわからず迷子になっちゃうんですねえ」
「それが第2段階……すごいメカニズムで迷子になってるんだな、あいつ」
「それに加えて、正法ってむっだ~~~に鋭いから困っている人を見つけるのが上手なんですよ。だからドンドン人を助けて、ドンドン迷子になる。も~疲れましたっ! 困っている人だけじゃなくてあたしもみて! 困ってるから!」
だいぶ鬱憤が溜まっている様子の千鶴に結弦はうんうんと頷いて聞きに徹する。
「人助けはいいんですけどね、自分の身を顧みてほしいんですよ。最近……特に高校生になってから悪化してきましたし。正法を追いかけてたら火災現場に遭遇したり、通り魔の現場に遭遇したこともあったんですよ!」
掛谷に対する愚痴は止まることを知らない。
「そのうち変な事件に巻き込まれそう……いや、正法なら巻き込まれても大丈夫なので、せめて方向音痴を治してほしい!」
「事件に巻き込まれることはいいんだ……」
「遭難して死ぬ確率の方が高いです!」
妙な説得力のある意見に結弦は何も言い返せなかった。
「文句を言う割にはちゃんと迎えに行くんだな」
「だって2週間家に帰って来なくて捜索願い出したことありますし……」
「思ったより壮大なスケールで迷子になってた……」
「人の力になるのはいいんですけどね~。自分から探しに行くのではなくて、生徒会みたいに受け身であってほしいです。迷子になるから」
千鶴は切実な願いを口にする。それを聞いて、結弦は千鶴が萩原英美と同じ高等部一年生であることを思い出した。結弦はなるべく雑談のように聞こえる言い回しを心がけながら千鶴に尋ねる。
「そういえばさ、萩原英美って生徒を知ってるか?」
「あ~……まあ、別のクラスなので名前だけならって感じです。外部入学生ですよね」
「どんな生徒かわかるか。印象だけでもいい」
「印象って言われても正直、顔すらあやふやなので」
「ふむ……」
萩原英美が入学してまだ一か月。ましてや千鶴は内部進学組なので接点が少ないのも仕方のないことだ。
「なんですか~。恋愛相談系の依頼で聞き込みですか? 年下が好みですか?」
恋の匂いを感じ取った千鶴がニマニマとした顔で尋ねてきた。
「そう言うわけではないよ。もう十分だ。ありがとう」
「あれ。もうおしまいですか」
不完全燃焼といった様子の千鶴だった。だが、彼女はその後すぐにハッとした様子で結弦に質問を投げた。
「外部入学で思い出しましたけど、高校デビューって入学式の後にやるものなんですか?」
「高校デビュー? 僕もわからないけど、普通は春休み中に済ませるものじゃないか? それか夏休み明けとかによくある気がする」
「ですよね~。これはあたしの隣の席の子の話なんですけど、入学式の次の日に高校デビューしてきた人がいたんですよ」
「……不思議だな」
「入学式の時は地味~な眼鏡っ子だったんですけど、土日あけて月曜日にあったら眼鏡外して、メイクにも手を出してて、完全に別人になってました。あたし、教室間違えたかもって一瞬思いましたよ」
結弦は一瞬眉を顰めた。萩原英美と同じ症状である可能性が浮かんだのである。
その生徒の名前を尋ねるのは控えた。入学直後の席だから千鶴の出席番号がわかれば、一列を構成する机の数から二択に絞り込める。不用意に探る必要はない。
入学式の出来事を語った千鶴は腕時計を見ると「そろそろ探しに戻りますね」といった。彼女はその場でしゃがみ円香に手を振る。しかし、円香は変わらずペチペチと尻尾を地面に激しく叩きつけている。
「これはツンデレってやつなのか」
「いーや、嫌われちゃってますね。これ」
「あれ、尻尾を振る時って喜びの合図じゃなかったっけ」
「それはワンちゃんだけですね。猫は振方によって違うんですよ。ゆっくり尻尾を振っている時はご機嫌な状態で、こんなふうに激しく叩きつけている時はすっごく不機嫌な状態です」
「じゃあさっきは不機嫌だとわかってて抱えてたのか」
「それはそれでたまらないんですよ。尻尾のたたき加減が心地いいって言うか~」
千鶴は体をくねくねさせながら言った。
「もちろん、抵抗したら離しますけどね。ごめんねシュレディンガーちゃん。あっ、正法見つけたら連絡くださいね~」
千鶴は再び猫撫で声で蜂須賀に呼びかけるその場を立ち去った。
千鶴が闇世に消えたのを見計らって結弦は円香に言った。
「嫌がってたんだな」
「ベタベタされるのはあまり好きじゃないのよ」
円香は小声で答えた。特に返す言葉もなかったので「帰るか」とだけ告げて、自転車置き場に戻ろうとした時だった。
「気にすんなって婆さん! 俺に任せろ!」
「いやあ……すまないねえ……ほんと買いすぎちゃって……」
掛谷が見知らぬ老婆を背負ってスーパーから出てきた。手元を見ると大量の品物が入った買い物袋も持っている。
「掛谷……」
「ん? おお、高木じゃないか! こんなところで奇遇だな」
結弦の小さなつぶやきに反応して掛谷は結弦の方向を向いた。
「ああ。奇遇だな……何やってるんだ」
「ん? ああ。こちらのご婦人が多過ぎる荷物に苦労していたものだから、荷物持ちをな」
「ほんと。情けないよ。私ったら。安いからって買いすぎちゃって、腰痛めるなんて。あっはっはっは」
「いやいや何を言うんだ。世の中助け合いだぜ?」
老婆と掛谷は二人揃って朗らかに笑う。
「と言うわけで、俺はこの人を家まで送って行くのでな。じゃあ、また明日」
「いや、ちょっと待った方がいいと思う」
「ん? なんだ? 夜は暗いしサクッと荷物を届けて千鶴に心配かける前に家に帰りたいんだが。急ぎの要件か?」
「まあ、急がないと遠くに行っちゃうからな」
結弦は既に手遅れな事情を語る掛谷を引き留め、携帯電話を取り出した。
「もしもし? 蜂須賀?」
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