第51話ー降魔の香にあてられてー

 寺院に着くとシンシアはそのまま神瑠に連れられて靴を脱いで本堂へと上がり、そこへ足を踏み入れるのだった。


 そこは外とはまるで違う、シーンッとした空間で、スッと背筋が伸びるような厳かな空気を纏っていた。その真正面に、大仏様は直立しておられた。


 何だか圧倒されますね…と、ボーッと仏様に目を奪われるシンシア。


 そんな彼女に、


 …ほら、見て?左手に薬壺という小壺を持っていらっしゃる、と、そっと耳打ちで解説してくれる神瑠。


 それに頷きながら、薬壺…?と首をかしげる少女。


「あれの中に、いかなる病をも治すという霊薬が入っている、んだそうだ」


 と、神瑠が話してくれているところに、


「———これはこれは、よくお越しくださいました。“ 王子様 ”」


 そう言って奥から年老いた住職が顔を見せた。数多シワが刻まれたその両手を合わせて会釈するその人は袈裟を身に纏っており、先ほど出会ったレイの存在を思い出すシンシア。


 とはいえその人は神瑠の立場をよく知っているようでドキッと身体を強張らせる。


「今日はまた随分と可愛らしい方をお連れで」


「っ、か、彼女はジェヘラルトが初めてゆえ、案内していただけだ」


 どこか照れくさそうにカタコトに話す神瑠に、おや、外の国のお方で、と微笑ましく頷くその人。


 大分ご無沙汰していた。執務が立て込んでいて、ここにも近頃全く来られなかったのだと、神瑠は住職に軽く挨拶すると、シンシアに向き直り、———大丈夫。警戒してくれてありがたいが、この人は別に私たちの敵ではないよ、と、その緊張をふっと解いてやるのだった。


「少し邪魔をする」


「いえいえ邪魔などと…。心ゆくまでごゆるりとお過ごしくださいませ」


 住職はそう言うと二人に、ここへどうぞ、と、ふかふかの座布団を持ってくるのだった。


 神瑠に導かれながらシンシアと二人、そこに腰を下ろす。


「ありがとう。…久々に来てすまないが、またアレの準備をしておいてくれるか?」


 住職は “ アレ ” という言葉に一瞬ピクッと反応したが、すぐに、かしこまりましたと頷き、


「しばらくここでお待ちください」


 と言い残して本堂を後にした。


 ———二人だけで残されたそこは、一面畳が敷き詰められている、ただただ静かなだだっ広い空間で、蝋燭の火が薄暗いその場をほのかに照らしていた。


 不思議そうに辺りを見やるシンシアに、


「クリミナードに比べれば地味で芸がないだろう?」


 と、苦笑いを浮かべる神瑠。


 まぁ、これが侘び寂びの精神というものらしいが…と目の前の年季が入って色褪せた如来様を見据える。


「そっちの、 “ 教会 ” ?というものは、もっと豪華、いや美しい…?というか。窓だって、そう、何と言ったか、えぇっと…」


「ステンドグラス、ですか?」


「あぁ、それだ!すてっどぐらす?…太陽の光にそれが照らされて、色とりどりでキラキラと美しいだろう?


 子どもの頃、クリミナードで一度だけ目にしたが、まるで夢の中にいるかのようだった。


 ———嗚呼、極楽浄土とは、きっとこんな美しい場所を言うのだろうと」


 神瑠が力なく笑った、時だった。


「…っ、神瑠、さま?」


 神瑠はそっと隣に座するシンシアの肩に自らの頭を預けた。


 すまない、少し、だけ…、と、目を閉じて消え入りそうな声を漏らす。


「そんなにお仕事が忙しかったのですか?」


「催事のために時間を空けておかなければならなかったから。…まぁ、中止になってしまったが」


「ご自分のための行事でも、ですか?」


「ハハッ、誰の行事だろうと関係ない。仕事は仕事だ」


 そんな神瑠の言葉に、仕事、ですか…と呟くシンシア。


「いや、こんな言い方はよくないな。貴女とこうしている時間まで、仕事だと言っているように聞こえてしまう」


「そんなこと…、」


 と、苦笑いで答えるシンシアに、次の返事はなかなかない。そうして二人の会話はだんだん途切れ途切れとなってきた。


 ダメだな。御仏の前で居眠りなど、きっと城の者たちに怒られてしまう…、特に、一の姉様には…と、やるせなく笑って肩をすくめる神瑠。


「一の姫君は厳しいお方なのですか?」


「そりゃもう!」


 シンシアの言葉に思わず力が籠ってしまう神瑠。


 あ、いや、これは絶対内緒な?と慌てて口の前に指を立てるものだから、シンシアは思わず笑って頷くのだった。


「怖くて怖くて仕方がなかった…。こんな姿を見られたら、きっとまた———、怒、ら、れ、…」


 うつらうつらとしているその人の瞼は、いよいよ重力に抗うことができなくなっていた。


「———っ、それならどうぞご安心ください。幸か不幸か今ここには貴方の他に私しかいません。私さえ口外しなければ誰が知ることもないでしょう」


 穏やかに語りかけてくるシンシアの優しい声に、神瑠はフッと力なく笑う。


「…神様、とやらが、見ている。ほら、目の前のソレだって」


 神瑠の言葉にシンシアは二人の前に臨む薬師如来に目を移す。とても穏やかな顔で二人に微笑みかけているように見えた。


 まるで、全てを許してくれているかのように優しい眼差しだ。


「本物の神様なんて、万人の目には映らない。だからきっと、今ココにはいらっしゃらないのだと思います」


“ 見える側 ” のシンシアがまさかそんなことを言い出すものだから、


 貴女がそんなことを言うのか?と意外そうに耳だけを傾ける神瑠。



「だって神とはそんな、


 “ 私たちに都合の良い存在 ”、なのでしょう?」



 シンシアはおどけるようにそう言うと、優しく微笑んで見せるのだった。


 そんな彼女に、



 ———あぁ、そうだったな…。



 と、フワッと表情を緩ませる神瑠。


 少し自分が言った意味とは違ったが、それでも良かった。そのなんとも心地よい彼女の笑みと声が、神瑠の硬く強張った心を、スーッと解いていくのだった…。


 不思議だ。彼女に身を預けていると、胸のつかえがフッと取れたような、穏やかな心地になる。


 まるで何もかも許されたような、そんな気持ちにさせられる…。


 神瑠はそんなことを思いながら、頭の方はもう限界だったのか、とうとう意識を手放してしまったのだった。


 それを見届けたシンシアは神瑠の頭をゆっくりと自分の膝の上に導くのだった。


「ゆっくりとお休みくださいませ。あなたを咎めるものなど、今ココには何もありません」


 シンシアは規則正しい寝息を立てるその人の髪を優しく撫でながら囁く。


 フフッ、こうして見ると、まるで小さな子どもみたい。五の姫君や六の姫君のような…。


 シンシアはそんなことを思いながら小さく笑う。


 私との時間を作るために、寝る間も惜しんでお仕事を頑張ってくださったのですか?


 こんな、私なんかのために…?


 もったいないです…。わざわざそんなこと…とシンシアは申し訳なさそうに小さく息をつく。


 ———そういえば、私がはぐれてしまった時、誰かの声が私の元へ導いたのだと、神瑠様は仰っていた。


 まさか、耳飾りが溶けて無くなってしまった時、そこに宿っていた精霊さんが、今度は神瑠様のお耳に…?


 そんな仮説がシンシアの頭の中に広がる。


 っ、そういえば今日はまだ、神瑠様に一度も言葉を聞き返されていない…。


 シンシアはそっと膝の枕で心地よく目を閉じるその人を思わず二度見する。


 金色の蝶々リングァンティエのことも気になるし…。アレを操れるのは神使の証。


 そしてそれができたのは———。


 シンシアの頭の中にぼんやりとある人の後ろ姿が浮かぶ。


「ハッ、まさか、ね———」


 シンシアはそうポツリと零した。


 そんな時だった。本殿の屋根には大粒の雨が激しく打ち付ける音が、雷鳴を纏って鳴り響くのだった。


 それから少し経った頃だ。


 遠くの方で、“ パチンッ! ” と誰かが指を鳴らす音が鳴った気がした。


 すると、仏像の前に立てられた線香の煙のせいもあってか、部屋の中がだんだんと霧がかってきたのだった。


 その中にいるシンシアは、その時ばかりはなぜか異様なまでに心は落ち着いていて、ただただ幻想的な世界にその身を委ねていた。



 ———すると、


 奥の方から、ひらひらと金色の蝶々が飛んで来るのが目に入り、シンシアは思わず、口を手で覆い息を呑む。


 うそ、でしょう?まさか、“アナタ”なの?


 近くに、いるの———?


 シンシアはきょろきょろと辺りを見渡し、蝶々の主を探すが、悲しいかな、霧が視界を塞いでよくわからない。まるで別世界に迷い込んでしまったかのようだ。


 そんな時だった。



「…なんだ、結局眠ってしまったの」



 そう言って奥から畳が擦れる音が近づいてきたかと思うと、グッと神瑠の様子を覗き込んできたのだった。


「っ!?」


 シンシアは咄嗟に神瑠に覆い被さるように、彼を庇う仕草をする。


 そんな警戒せずとも、私は何もしませんよ。と笑って見せるその人。


「だが驚いた。この子が全く力を持たないなら、本堂に入ってすぐにでもそうなっておかしくないのですが…。


 さすが、あの水の神(ズィールォ)と契約する公王の血を引いているだけある、と言ったところか…」


 その人はふむふむと感心しながら神瑠を見ていると、ふと別の視線に気づく。


 実はシンシアがじっと見つめているのだ。


「…私の顔に何か?」


「ぁ、いぇ、なにも…、」


 ———目を奪われた、というのはこのことかと思うくらい、なぜだかその人から目が離せない。その上、心臓が妙に脈打つのだ。


 その人は白い肌に、ジェヘラルト人特有の白に近い美しい金髪をしていた。背中まで伸びるそれをハーフアップにしている。神瑠と同じ、ジェヘラルトの秘宝、紫藍石に似たコバルトブルーの美しい瞳を持つ、見目麗しい顔立ちの女性。


 …そう、女性なのだ、この人は。なのに、どうしてこんなにもドキドキするのだろう?


 思わず戸惑うシンシアをよそに、その人は自分の目の前に右手の人差し指を差し出すと、先ほど現れた蝶が吸い寄せられるようにゆらゆらとそこに留まった。


 シンシアが期待した“その人”ではなかったことが少し残念には思えたが、不思議だった。

 ジェヘラルトへ来たのは今回が初めてのはずなのに、どうしてだろう?


 この人を見て、“懐かしい”と感じてしまう。


 シンシアはぼんやりとそんなことを思っていた。


 今の彼女に、恐怖や警戒心など、どこにもなかった。


 それよりも———、


「あなたは、一体…?どうして、その蝶々を?」


「蝶々?…あぁ、この子ですか」


 何よりも先に蝶々のことを口にしていた。


 その蝶々は今はその人が差し出した人差し指の上に留まりゆっくり羽を休めている。


「この子は私の道先案内人。私は昔から極度の方向音痴なもので」


 その人はそう言って苦笑いを浮かべる。


 加護を使うとよく道を見失うから、その時はこの子に道案内を頼むのです、と続けた。


「加護…?あなたは精霊、なのですか?」


「いい質問ですね!あなたに私はどう見えますか?精霊?それとも…、」


 逆に質問されてしまい、シンシアは、え…と、、と困ったようにうろたえる。そんな彼女を可愛らしく見つめながら、


「———気付いたと思いますが、この本堂、とても心地よい香りがするでしょう?香を焚いているのです」


 とその人は続け、


 シンシアは、…あぁ、そういえば、と、ぎこちなく一つ頷くと、神瑠が先ほどしてくれた話を思い出していた。


 ———どうやら先ほどの質問はうまくかわされてしまったらしい。


 だが、改めて香の存在を自覚して、ホッと息をつく。


 嗚呼、そうか、これがお母さまがジェヘラルトに残していかれたモノ。かつてはお母さまが作られていたけど、今はジェヘラルト公王様がこの香をお作りになっている、って…。


 シンシアは母のカケラに触れられたことにフッと表情が緩むのだった。


「とはいえこの香は香りを楽しむだけのものにあらずで———」


「この香りが、魔物を遠ざけてくれるのですよね?…えっと、“ 降魔の香 ”、なんだとか」


「あら、知ってたんですか?


 あぁ、そっか、あなたの膝の上で眠るその子が教えたのですね」


 その人は優しくシンシアに微笑む。


「煙に我が精霊の加護を織り交ぜているので、香を焚くと、その煙が妖魔を滅する結界となる。本来はそういった代物なのです。寺院は特に、霊魂や魔力が集まる場所。それを喰らう妖魔たちから皆を守るためのものなのです」


 その言葉に、そっと感嘆するシンシア。


 お母さまは私利私欲のためではなく、かねてより、自分の持ちうる力(加護)を惜しみなく万民のために役立てていたのだ。


 まさに、模範的な力(加護)の使い方だ。


 自分も見習わなくては…と、無意識に胸元にしまってある氷翠石の笛のあたりをキュッと握るのだった。


「この香を嗅いでも平気でいられるなんて…。貴女はやはり“こちら側”の人間なのですね」


 その人は意外そうにシンシアを見るが、


 いや、そもそも私の姿が見えているんだから、そういうことか、とフッと笑った。


 意味がよくわからず、シンシアはそっと首をかしげると、


「その子は“持っていない”のでしょう?だからそうなる」


 その人は神瑠の方を指差してそう付け加えるのだった。


「この香には少しサイクをしてあってね。魔力を持たない者が嗅いでしまうと、香の香りに当てられて、意識が保てないのです」


「っ———?!」


 その言葉にシンシアは血相を変えて不安そうにその人と神瑠を交互に見る。


「…あぁ、大丈夫、安心してください!あくまで意識を失うだけ。命に別状はありません。きっと今、彼は心地良い夢でも見ているはずですよ」


 と、その人は慌てて補足すると、


 なんだ、良かった…と、シンシアの表情はフッと緩むのだった。

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神のご加護が届く場所〜霧雨の加護編 しろがね。 @Kai-whitesilver

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