第5話 美装粧麗(びそうしょうれい)2

 香のたちこめる広間には、朝の光が斜めに差し込んでいた。


 天井から吊るされた布はほのかに揺れ、壁に掛けられた錦の幔幕が重々しくたなびいている。


 ナギは、静かに広間の中央へ進み出た。


 緋の衣は、歩みとともにふわりと揺れた。


 絹の裾が音もなく板の間を滑り、白い足首がわずかに覗くたび、周囲の空気さえも息を呑むようだった。


 ムラオサは、玉座めいた椅子に凭れ、腕を組んでその姿を眺めていた。


 「……見事なものよのう」


 その低い声に、ナギは跪き、衣の裾を整えながら深く頭を下げた。


 頭を垂れたまま、額が板床に触れる寸前で止まり、呼吸をひとつ吐いた。


 「顔を上げよ」


 命じられてゆるやかに顔を上げると、ムラオサの目はすでに別のものを見ていた。


 その目は、ナギではなく、その背後にある名誉や、褒賞や、クニの重臣たちの顔を見ていた。


 ウバメが、そっと進み出て、深く膝をついた。


 「ムラオサ様、これにて献上の準備はすべて整いました。


 この乙女、どこへお出ししても恥じぬ出来栄えと存じまする」


 ムラオサは笑った。


 「ふむ。あやつなら、きっとタケル様の御目にも叶うであろう。して、褒美はどれほど貰えるかのう……」


 その笑みには、情がなかった。

 そこにあるのは、売り買いの勘定と、己の野心の輪郭だけ。


 ナギは、そのやりとりをただ静かに聞いていた。


 目を伏せたまま、唇の紅がかすかに揺れた。


 (もう……ムラには戻れない)


 そう思ったとき、不思議と心は澄んでいた。


 泣くことも怒ることもできないほど、感情は磨り減っていた。


 ウバメがすっと背を伸ばし、声をかける。


 「さあ、参りましょう。輿が、お待ちかねですよ」


 輿の中には、香が焚かれていた。


 濃密すぎず、それでいてどこか甘く、艶やかな匂いが鼻腔をくすぐる。


 それは、ムラの館で幾度も聞かされた香とは異なっていた。


 もっと、遠くの、見たこともない都の匂い──そんな気がした。


 ナギは、薄布をまとった膝の上に手を置いたまま、目を伏せていた。


 輿が動くたび、衣の裾がふわりと揺れ、金糸が朝の光をすくい取るようにきらめく。


 (……どこへ向かうのだろう)


 そう思っても、答えは分かりきっていた。


 この輿は、オオキミの待つ宮へと運んでいく。


 自分はそのために選ばれ、磨かれ、装われた。


 ナギは、両手をそっと重ねた。

 その指先に、かつてハルの温もりが宿っていたことを思い出す。


 ──もう、戻れない。


 ナギの指は、小さく震えた。


 あの夜の、たどたどしくも愛しい交わり。

 焔の下で交わしたあの手のぬくもりだけが、いまも胸の奥に残っていた。


 けれど、それは、決して語られることのない記憶。


 それを口にした途端、この体に塗り重ねられた紅が、すべて剥がれ落ちてしまう気がした。


 ──私はもう、“あのとき”の乙女ではない。


 輿は、ゆっくりと進んでいた。


 野を越え、林を抜け、坂を上り、そしてようやく、遠くに大きな門が見えてきた。


 その奥に広がるのが、ツワナの宮だった。


 ひとつ、風が吹いた。


 輿の隙間から差し込んだその風が、ナギの頬を撫でる。

 香の匂いをわずかに揺らしながら、緋の布の端をそっとめくった。


 ナギは、静かに目を閉じた。


 ──すべては、運命のままに。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る