第5話 美装粧麗(びそうしょうれい)1

 夜がまだ、完全に明けきらぬ刻だった。


 東の空はかすかに白みはじめていたが、館の中には、なお深い闇が残っていた。


 板敷きの床を渡る足音が、どこまでも静かで、どこまでも慎重だった。


 几帳の向こうで、湯を運ぶ侍女たちの声が交わる。


 炭のはぜる音に交じって、湯気の立つ香草の香りが、ほのかに部屋の中へと流れ込んでくる。


 その香りがまるで合図であるかのように、床の間の奥からひとつ、低い声が響いた。


 「……さあ、お起き。今日は、大切な日だよ」


 声の主は、ウバメだった。

 歳を重ねてなお、眼差しに濁りはなく、言葉には迷いがない。


 彼女の手で“仕立てられた”乙女たちは、幾人も都へと送り出されていた。


 帳の中、紅絹の寝具に包まれていたナギは、ゆるりと瞼を持ち上げた。


 目が合ったわけではない。


 ただ、起きるべき刻を告げられた身体が、ゆっくりと反応したにすぎなかった。


 その瞳には、もう何の迷いもなかった。


 光も、怯えも、少女らしい戸惑いすら、もうなかった。


 あったのはただ、静かで、深く、底の見えぬ影――


 その影の中に、かつてのナギという少女は、すっかり沈み込んでいた。



 湯の香が、しんとした室内に立ちのぼっていた。


 湯気に包まれたその空間で、ナギは静かに身を任せていた。


 侍女たちの指先が、迷いもなく、なめらかに肌を撫でていく。


 髪を丁寧に梳かれ、耳の裏や爪の先まで、やさしく洗われていくたびに、


 ナギの身体はまるで陶器の器を仕上げられていくようだった。


 ――しかし、その日は違っていた。


 いつもなら、湯の後には筆が待っている。


 紅を含ませた筆が、唇、目元、胸元、そして脚の奥へと滑らせられる。


 けれど、その朝は違った。


 ウバメが筆を手にしても、壺の蓋は開けられなかった。


 「今日は、紅は要らないよ。もう、何も加える必要はないんだ」


 筆はただ、空気を切るだけの道具となり、

 壺の中の香は、そっと横に置かれたままだった。


 ナギの肌には、これ以上何かを施す余白などなかったのだ。


 絹の礼装が、その素肌に重ねられる。


 桃色に金糸をあしらった薄衣が、まるで霞のように胸元を包む。


 帯は高く締められ、背には緋の布がふわりと垂れる。

 その装いだけで、ナギという存在は、“捧げもの”として仕上がっていた。


 紅を引かずとも、もう誰の目にも、それは明らかだった。



 鏡の前に座らされたナギの背に、朝の光がやわらかく射し込んでいた。


 湯気がわずかに残る髪からは、ほのかに香草の匂いが立ちのぼっている。


 絹衣に包まれた胸元には、かつて何度も紅を施された跡が、今はただ、素肌の滑らかさとして息づいていた。


 ウバメは、そっとその背に近づき、鏡の中の女をのぞきこんだ。


 「……もう、何も足す必要なんてないよ。これ以上は、余計というものさ」


 その声音には、どこか陶然とした響きがあった。

 まるで、ひとつの芸術品が完成したとでも言いたげな、満足に満ちた声。


 ナギは、鏡の中の“自分”をじっと見つめた。


 艶やかに結い上げられた髪、首筋を滑る黒髪の一筋。


 桃色の衣に映える白い肌、そして紅を引かずとも際立つ唇の輪郭。


 どれもが、整いすぎていた。


 (……これは、本当に私?)


 鏡に映るのは、自分でありながら、自分ではない。


 装いも、表情も、仕草さえも、すべて“誰か”によって仕立てられたもの。

 己の手で選んだものは、ひとつとしてない。


 「ムラオサ様が、飽かず磨き上げてくださったからさ」


 ウバメは背後でふっと笑い、満足そうに頷いた。


 ナギの瞳は、わずかに伏せられる。


 長いまつげが影を落とし、艶やかな衣の胸元へとその影が沈んでいった。


 鏡に映る“完成された乙女”の顔は、どこまでも静かで、そして遠かった。


 その日、ナギは初めて――“完成品”として、ムラオサの前に姿を見せた。

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