境界線のパラダイムシフト 〜運命に抗う少女の軌跡〜

藤笑アスカ

第1話「別の世界からの接触」

# 第1話「別の世界からの接触」


 砂漠の灼熱が霧島遥の肌を焼いた。しかし彼女は明陵大学の講義室の椅子に座ったままだった。


 「誰だ…?共鳴している?」


 見知らぬ銀髪の男性の声が、彼女の意識の中で鳴り響く。遥は息を呑み、講義室に戻ろうと必死に目を閉じた。


 教授の声が水中から聞こえるように歪み、遠くなっていく——


***


 四月の陽光がキャンパスを明るく照らす木曜日の昼下がり。明陵大学文理学部の中庭は学生たちの笑い声で賑わっていた。散り始めたシンボルツリーの桜が、淡いピンク色の花びらを風に乗せて舞い落とす。


 霧島遥は一人、木陰のベンチに腰掛け、弁当箱を開けていた。黒髪のロングヘアが春風になびく。彼女の青い瞳には感情が宿っていない——少なくとも、そう見せるように彼女は長年練習してきた。他人の感情が色として見える能力を隠すために。


 機械的に箸を動かす様子は、周囲の賑やかさとは不釣り合いで、むしろ彼女の孤独を際立たせていた。


 「遥ちゃーん!」


 明るい声に顔を上げると、佐藤美咲が両手を振りながら近づいてくる。その後ろから岡崎健太と山本理沙も続いていた。友人たちの輪郭の周りに漂う色が見えた——美咲の明るいオレンジ色の喜び、健太の青緑色の焦り、理沙の落ち着いた水色の穏やかさ。


 「また一人で食べ始めちゃって」美咲は笑いながら遥の隣に座った。「私たちを待ってくれてもいいのに」


 「授業が早く終わったから」遥は短く答え、練習した微笑みを浮かべた。表情は上手く作れていたが、友人たちの明るさに引き寄せられる自分を感じることは、内心で認めたくなかった。


 健太がベンチの向かいに座り、最新型のスマートウォッチを自慢げに見せる。友人たちの他愛もない会話が続く中、遥は時折皮肉を交えて参加した。その表面的な交流の裏で、彼女は常に一定の距離を保っていた——自分の異質さが露呈することへの恐れから。


 美咲が突然話題を変えた。「ねえ、最近『共鳴現象』って知ってる?」


 「共鳴現象?」理沙が首を傾げた。


 「誰かと意識が繋がっちゃう現象」美咲はスマホを取り出して画面をスクロールした。「SNSで話題になってるの。『別の人の記憶や感情を共有した』って投稿、増えてるんだよ」


 遥の手が停止した。かすかな違和感が背筋を伝う。


 「次元がズレるってこと?」健太は興味を示した。「テレパシーみたいなもんか?」


 「ロマンチックじゃない?」美咲は目を輝かせた。「私なんて、昨日の夜、誰かの夢を見た気がしたんだ。砂漠みたいな場所で…」


 遥は箸を止め、美咲をじっと見つめた。「砂漠…?」


 その単語が遥の意識を揺さぶった。幼い頃から繰り返し見てきた夢——赤茶色の砂と果てしない空、そして何かを探し求める感覚。


 突然、遥の視界がぼやけ始めた。心臓の鼓動が速まり、頭がクラクラする。美咲の声が遠のいていく。


 「遥ちゃん?大丈夫?」美咲の声が水中から聞こえるように歪んでいた。「顔色、すごく悪いよ?」


 「ちょっと…」遥は立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。「講義に…行かないと…」


 何とか立ち上がり、友人たちの心配する声を背に中庭を後にした。


***


 心理学総合講義室に滑り込んだ遥は、後方の隅の席に座った。まだ講義開始まで時間があり、室内は学生たちの私語で賑わっていた。


 「なんなの、あの感覚…」遥は頭を押さえた。「美咲の言った砂漠…私も見る夢なのに」


 桜井教授が入室し、講義が始まった。「今日は記憶と感情の相互作用について学びます。特に強い感情を伴う体験は、記憶として強く定着する傾向があります」


 遥はタブレットに要点を書き留めようとしたが、教授の声が徐々に遠くなっていく。講義室全体が水中にあるように歪み始めた。恐怖が胸に広がり、タブレットを握る指に力が入った。


 最初は微かな砂の匂い——乾いた、鉄分を含んだような香り。それから肌を焼く灼熱が全身を包み込んだ。鼓動が速くなり、息苦しさを感じる。


 「これ、幻覚?私、ついに壊れた?」遥は呟いた。


 まるで別の世界に引きずり込まれるような感覚。講義室の天井が消え、代わりに青く広大な空が広がった。足元には粗い砂の感触。風の音、金属の軋む音。


 彼女はもはや教室にいなかった。


 果てしなく続く赤茶色の砂漠。遠くには岩山が連なり、地平線が蜃気楼で揺れている。太陽が容赦なく照りつけ、乾いた空気が肺を焼く。


 遥の体は彼女の意思とは無関係に動いていた。別の誰かの身体に宿ったかのように。


 「コード実行、フェーズ2」


 低く冷静な男性の声——しかしそれは彼女自身の声帯から発せられていた。目の前には無機質な金属の浮遊体——ドローンが半円状に配置されている。


 「対象特定完了。共鳴開始」


 金色の光が指先から放たれ、砂の上に複雑な模様が描かれる。魔法のような力に、遥は息を呑んだ。


 短い戦闘の後、ドローンは制御されたかのように砂上に着地した。遥は彼の感情を「色」として感じ取った——成功の満足感が鮮やかな金色に輝き、緊張の紫色が徐々に薄れていく。


 「任務完了」彼の声には安堵感が混じっていた。


 鏡に映ったような形で、銀髪の若い男性の姿が見えた。肌は日に焼け、緑の瞳が砂漠の光に輝いていた。その端正な顔立ちに、遥は言いようのない親近感を覚えた。


 「リヴァイアス・ノート、報告を」通信装置から別の声が聞こえた。


 リヴァイアス。その名前が遥の意識に刻まれた。


 「ドローン5機、すべて無効化。次元技術庁の監視網に破損あり。このエリアは——」


 彼の報告が途切れた。リヴァイアスは動きを止め、周囲を警戒するように見回した。彼の周りに淡い青色の霧が漂い始める——不思議に思う感情の色だと遥は直感的に理解した。


 「誰かいる…?」彼は低い声でつぶやいた。「共鳴している?」


 遥の心臓が高鳴った。彼は自分の存在に気づいている。


 リヴァイアスが空を見上げ、瞳を細めた。「この感覚…誰だ?」


 彼の緑の瞳が真っ直ぐに遥の意識を見透かしたように感じた。まるで長い間探し求めていた何かを見つけたような、奇妙な親密さ。


 突然、世界が再び歪み始めた。砂漠の景色が水の中に溶けるように消え、教室の風景が徐々に戻ってくる。


 「霧島さん、霧島さん!」


 遥は目を見開いた。桜井教授が彼女の前に立ち、心配そうな顔で見つめていた。教室中の視線が彼女に集まっていた。


 「大丈夫ですか?顔色が悪いですよ」教授の声には心配が滲んでいた。


 遥は自分がまだ講義室の椅子に座っていることに気がついた。タブレットは床に落ち、手の震えが止まらない。喉の奥には砂の粒子が残っているような異質な乾きを感じた。


 「す、すみません…」遥は声を絞り出した。


 「保健室に行きましょうか?」


 「いえ、大丈夫です」遥は落ちたタブレットを拾い上げた。「少し休ませてください」


 教授は心配そうに頷き、講義を再開した。


 深呼吸を繰り返す遥の脳裏には、銀髪の男性の姿がくっきりと残っていた。「あれは幻覚じゃない…」心の中でつぶやく。「リヴァイアス…彼は私に気づいていた」


 窓から差し込む陽光が、一瞬紫色に輝いた。


***


 講義が終わると、遥は急いで席を立ち、廊下に出た。人気のない階段の踊り場で足を止め、壁に寄りかかった。頭痛がする。脈拍は早く、呼吸も浅い。


 「霧島さん」


 背後から静かな声がした。振り返ると、黒いスーツの中年男性が立っていた。見知らぬ男性の周りには、淡い緑色の靄が漂っている——冷静な判断力と使命感の色。


 「どなたですか?」遥は警戒した。


 「境界評議会の佐々木です」男性は落ち着いた声で言った。「あなたが体験したことについて話をさせてください」


 遥は言葉を失った。この男性は彼女の体験を知っているのか?


 「人目につかない場所で話しましょう」


 数分後、二人は桜の木の下のベンチに座っていた。


 「あなたが体験したのは『共鳴現象』です」佐々木は直接的に切り出した。「単なる幻覚ではなく、別の並行世界との意識の繋がりです。あなたの中で今も余韻が残っているでしょう——砂の感触、乾いた空気、あの男性の存在感…」


 遥の喉が乾いた。佐々木の言葉が体験を正確に言い当てていた。


 「なぜ私が?」


 「あなたは特別な能力を持っています」佐々木は彼女の目をまっすぐ見た。「他者の感情を視覚化し、共感によってその感情を増幅させる力です。人の感情を色として見ることがありませんか?」


 遥は息を呑んだ。幼い頃からの秘密を見透かされた。施設での日々、カウンセラーたちに「想像力豊かな子」と片付けられた記憶がよみがえる。十年以上、誰にも信じてもらえなかった能力。


 「あなたの能力が、共鳴現象を制御する鍵となり得るのです」佐々木の声は低く、切迫していた。「両世界の間では、共鳴点が不安定になっています。このままでは次元崩壊の危険さえある」


 「次元崩壊?」


 「詳しいことは安全な場所で」佐々木は立ち上がり、名刺を差し出した。「今晩、あなたのアパートを訪問します。準備をしておいてください」


 遥は震える手で名刺を受け取った。光の加減で名刺の端が微かに紫色に光る。手に持った瞬間、佐々木の感情が青緑色の靄として名刺から漂うのを感じた——「期待」と「使命感」の混ざった色だった。


 「嘘じゃない…」遥は呟いた。「私の能力も、あの世界も…全部現実なんだ」


***


 夕暮れの光が薄暗いアパートの窓から差し込み、部屋に長い影を落としていた。遥はソファに深く沈み込み、両手で温かいお茶のカップを握りしめていた。


 「冷静に考えよう」遥は自分に言い聞かせた。「感情が色として見える能力…子供の頃からあったけど、誰にも信じてもらえなかった」


 施設時代の記憶が蘇る。親のいない遥を「問題児」と呼ぶ大人たち。「あの子、また誰かの感情が見えるって言ってる」と囁く声。それ以来、遥は自分の能力を否定し続け、感情を表に出さないよう徹底的に自分を鍛えてきた。


 しかし今日、砂漠の中でリヴァイアスの感情を色として見た体験は、あまりにも鮮明だった。金色の満足感、青い不思議の感情…全てが本物に感じられた。そして何より、彼女の存在に気づいたリヴァイアスの緑の瞳。


 「どうして私とリヴァイアスが繋がっているの?」遥はお茶に映る自分の顔を見つめた。「まるでずっと前から知っているような感覚…」


 インターホンが鳴り、遥は飛び上がるように身を起こした。時刻は午後7時半。


 「どなたですか?」


 「霧島遥さんでしょうか。境界評議会からまいりました、佐々木です」


 ドアのセキュリティカメラで確認すると、黒いスーツを着た佐々木の姿があった。彼女はドアを開けた。


 「お邪魔します」佐々木は静かに部屋に入り、遥に促されてソファに腰掛けた。


 「詳しい説明をしていただけるんですよね?」遥は真っ直ぐに彼を見据えた。


 佐々木は小さなデバイスをテーブルに置いた。それが起動すると、紫色の光が広がり、二つの世界を示す立体映像が浮かび上がった。


 「二つの並行世界——地球とアストラリア」佐々木は映像を指し示した。「長い間それぞれ独立して発展してきましたが、近年、次元の壁が薄くなっています」


 映像は二つの世界の間に橋のような光の筋を示した。


 「アストラリアでは『次元技術』が発達し、次元間の移動や交信が部分的に可能になっています」佐々木は続けた。「しかし、それが次元の壁をさらに弱め、共鳴現象が頻発するようになりました」


 「共鳴現象は、感情が強い個人間で特に起こりやすい」彼は映像の一部を拡大した。「あなたとリヴァイアス・ノート。同じ感情共鳴能力を持つ二人が、次元を超えて引き合っているのです」


 「そして、危険なことに」佐々木の表情が険しくなった。「あなたたちだけではありません。共鳴現象は世界中で増えています。制御されなければ、次元の混乱を招く」


 遥は共鳴体験が再び鮮明に蘇るのを感じた。リヴァイアスの緑の瞳と、彼の感情の色。その記憶に、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。


 「私が何をすればいいんですか?」


 「私たちは『境界人交換プログラム』への参加をあなたに依頼します」佐々木は真剣な眼差しで遥を見た。「あなたの意識をアストラリアに送り、リヴァイアスと協力して次元の安定化に取り組んでほしいのです」


 「意識を送る?」遥の声に不安が混じった。「そんなことが可能なんですか?」


 「アストラリアの次元技術と、あなたの能力があれば可能です」佐々木は静かに言った。「リヴァイアスはすでにあなたを感じ取っています。彼もあなたを探しているのです」


 「彼も…私を?」遥は息を呑んだ。「でも、なぜ私が?他に適任者は…」


 「あなたの感情共鳴能力は非常に希少です」佐々木はより親身に説明した。「そして、既に始まっている共鳴は止められません。制御されない共鳴は、あなたの精神を蝕みます」


 遥は沈黙した。これまで彼女が「異常」と思い込み、隠してきた能力が、実は特別な力だったのか。


 「準備が必要です」佐々木は立ち上がった。「あなたに頼っている人がいることを忘れないでください。明日の朝、迎えに来ます」


 佐々木が去った後、遥は窓辺に立ち、夜景を見つめた。明かりの灯る窓の向こう、何千、何万もの人々が暮らしている。彼らは共鳴現象など知らず、日常を送っている。


 「受け入れるべきなの?」彼女は自問した。「それとも、これまでのように現実から目を背けるべき?」


 窓ガラスに映る自分の姿を見つめながら、遥の決断は揺れていた。長年築き上げてきた論理的な世界観と、目の前に開かれようとしている未知の可能性。


 名刺を握りしめる手に、好奇心と恐怖が交錯していた。しかし、その奥には、ずっと抑え込んでいた感情があった——「繋がりたい」という本心。


 窓に映る自分の姿が、一瞬だけ銀髪の男性の姿と重なった。遥は息を呑み、ガラスに触れた。


 「もう逃げられない」


 その瞬間、遥は自分の選択肢が一つしかないことを悟った。別の世界で、リヴァイアスが彼女を待っている。そして彼女もまた、無意識のうちに、ずっと彼を探していたのかもしれない。

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