地球の果ての島のお話

@asou-kureha

プロローグ0

 あぁ、私はなんて愚かだったのかしら。

 

 ひとり山岳を歩きながら、老婆は美しい夜空に包まれる。

 行く宛もない。家族だった者達には先程別れを告げられた。

 最後のドライブは重い沈黙に包まれていた。その思い出がより一層山の静けさを際立たせる。

 草木がさざめいて、どこからか獣の呻き声が聴こえる。

 フクロウが呼んでいる。死へと誘う道無き道を歩きながら、老婆はゆっくりと膝から崩れ落ちた。


 思えば始めから家族には疎まれていた。


 7人兄弟の4番目に生まれ、充分な食べ物も与えられずずっと痩せっぽっちだった身体。

 女としての魅力もなく、兄弟のように世の中へ食らいつくだけの学もなく。

 それでも自分ひとり生きていくには充分な稼ぎは得られていた。それを、末の妹に必ず返すからと根こそぎ奪われたのが事の発端だった。

 妹はその金を持って、男と共にどこかの国へ旅立ったと言う。

 老婆には器量も度量もなかった。騙されたと気付いたのは甥や姪に散々責めら立てられた後だったのも悪かった。

 そうして、資産代わりに多額の保険がかけられた老婆は山へ打ち捨てられた。

 最後の言葉は「骨さえ残ればいい」と、たったそれだけ。

 

 誰からも愛されず、誰にも必要とされず、私の人生は一体なんの意味があったのかしら。


 崩れ落ちた老婆の頭上へ、水滴が落ちる。

 

 あぁ、獣が来た。食べられて死ぬなんて、そんなおぞましい罰を与えられるだけの何かを私はしたのでしょうか。


 老婆は瞳を閉じた。

 せめてひと思いに命を奪って欲しい。

 固く縮こまった身体を、誰かの手が包み込んだ。


「愛敬!」

「合点!」


 滑り込むように老婆の身体を抱き上げ、柚木は側方宙返りの後、石壁へ着地した。

 老婆が座り込んでいた地点で、ドン、と重い音が響く。愛敬は銀色に煌めく身の丈近い剣身をそれの胴体へ突き立てた。

 

 それは、異形の形をしていた。

 

 四つ足のピューマのような外観に、ぎょろりとした一つ目と裂けたような口を開いている。

 青黒い身体は毛の一本すら生えていない。それは艶やかな四つ足を細かく動かし、胴体に乗り上げた愛敬へと腕を振りかぶる。

 愛敬は剣身を抜くと同時に跳躍する。くるりと鮮やかに身体を捩ると、それの後ろ手に回り込んだ。


「ありゃ、消えない」

「胴体に心臓ないんじゃねぇの?」

「そりゃあ、面白い相手ですねぇ!」


 若いふたりの弾んだ声に、老婆は恐る恐る目を開ける。

 優しくお姫様のように抱かれるのは始めての経験だった。なんて温かい。そしてなぁに、この胸のトキメキは。

 老婆を抱き上げているのは、夜空のような黒髪のとても綺麗な中性的な子どもだった。昔、何かの映像で見た地球によく似た瞳を有している。

 長い睫毛が伏せって、何かを睨みつけている。老婆はその何かへ視線を動かすことなく、その人に瞳を奪われていた。


「《ブライト・アロー》」


 それが愛敬を振り返るより早く、愛敬は聖剣を眼前へ構えた。

 聖剣の柄、中央に飾られた赤い宝石が鮮烈に光り、無数の光の矢が愛敬の背に浮き上がった。

 光の矢は一気にそれへ飛び交った。残滓すら残さず、黒い塵が空へ溶けていく。


「さすが元勇者」

「おちゃのこさいさいですよ!寄ってきた人喰いはアレ一体ですかね」

「みたいだな。ばあさん、大丈夫だったか?」


 自分を抱き上げたままの子どもに見惚れて呆けていた老婆は、声をかけられてはっと意識を現実へ向けた。

 子どもの宝石のような瞳と、その傍らにいる緑色のボブカットの髪と瞳の少女が一緒になって老婆を覗き込んでいる。

 ふたりとも、濃い水色の制服のような服を着ていた。人間離れした美しい相貌は思わず吐息が零れるほどだ。


「香流くん、何かしました?」

「えっ、俺なんもしてないけど」

「とりあえず、下ろしてあげたらどうです?」


 柚木に優しくコンクリートへ下ろされ、そこで、ようやく老婆は気が付いた。


 ここが、山の中ではない事に。


「ここはどこ⋯⋯?」


 つい先程まで見ていた景色はどこにもない。

 見渡す限りの草原と、土と岩肌がどこにも見当たらない。代わりに目に入るのは舗装されたコンクリートと、立ち並ぶ家々の外壁だった。


「おばあちゃん、運が良かったですね。もう少しで香流くんが寝ちゃうところでしたよ」

「まだ起きてたよ」

「襲われたのは不運でしたけど、私達が来たからにはもう安心!ですよ!」


 どんと胸を叩いて愛敬がふふんと鼻を鳴らす。

 老婆は子どもと少女へ目配せすると、ぽろりと涙を零した。

 柚木は老婆の涙を見てぎょっとする。オロオロしながら愛敬に助けを求めるが、愛敬は背を向けて歩き始めた。


「ちゃんと慰めてあげてくださいね」

「お前、俺がそういうの苦手なの知ってるだろ!」

「知りませんよ。頑張ってください、お巡りさん」


 愛敬はひらひらと手を振ってすたこらと歩いて行く。

 柚木は何も言えず、黙って泣き続ける老婆の手を引いて愛敬の後ろをついて行った。

 


 ★★★★★



 老婆が連れてこられたのは、建ち並ぶ建物の中でも一際大きな建物だった。

 椅子に座らされ、良く分からない飲み物をテーブルへ置かれる。飲んだことのない緑色をした不思議な味の飲み物だったが、少し苦い風味が今の老婆には心地良かった。

 シンプルな造りの部屋には長机と椅子、そして執務机が備えられている。

 愛敬はパイプ椅子を出して老婆の前に座った。柚木は誰かを呼びに行くと言い残して部屋を出て行ってしまったので、今は愛敬と老婆がふたりきりで顔を突き合わせている。


「あの、ここは⋯?」

「警察庁です。私とさっきの⋯柚木くんは、この島のお巡りさんなんですよ」


 柚木のいれてくれたお茶を飲みながら、愛敬はにこりと微笑んだ。

 

 少女にしか見えないけれど、お巡りさんと言うことはふたりとも大人なのかしら。

 それに、柚木くんと言うことはあの子は男の子だったのね。

 

 老婆は心の中で納得すると、愛敬につられてふふっと微笑んだ。


「私、保護されてしまったのね⋯」


 老婆はすぐに微笑みを崩して、小さな肩を落とした。

 生き残ってしまっては保険金は下りないだろう。甥や姪になんと詫びればいいのか。

 責め立てられた怒号がまだ耳に残っている。

 

 簡単に騙されて。騙される方が悪いんだ。誰がお前の面倒なんか見るか。遺産があるから会いに来てやっていたのに。

 

 子どものように縮こまっていた自分は、何の反論も言えずに彼らの提案を受け入れることしか出来なかった。


「保護されたくなかったんですか?」

「⋯本当はね、助かってはいけなかったのよ」


 愛敬が何か慰めようと逡巡していると、小さな音を立てて扉が開かれた。

 柚木が誰かを連れて帰ってきた。老婆が顔を上げると、柚木の後ろにスーツ姿の金色の瞳を持つ精悍な顔立ちの男が立っている。

 柚木よりも深い黒髪の背の高い男は、老婆を見ると「ありゃあー」と小さく呟いた。


「珍しく日本人じゃない」


 日本人。そう言われて老婆は碧い瞳を見開いた。


「私はカナダの出身よ」

「かなだ」


 愛敬が柚木を見上げた。柚木は呆れながら愛敬の額を小突く。


「学校で習っただろ」

「いいですか香流くん。私は日本しか知りません」

「そんなこと威張るなよ」

「そんなとこからここへ来るなんて、よっぽど理不尽な目に遭ったんだな」


 金色の瞳の男は、老婆の前で立膝をついた。

 またじわりと老婆の瞳に涙が浮かび上がる。


「この場所は現世と死後の世界の狭間の島だ。現世に弾かれた魂が稀に迷い込んでくるんだよ」

「死後の世界⋯。と言うことは私は死んだの?」

「いや、あくまで狭間だ。ちゃんと生きてる」


 金色の瞳の男は、老婆の手を優しく握った。

 温かい。大きな手が優しかった父親を思い出させて、老婆の頬を涙が伝った。


「私は、死ななきゃならなかったの⋯⋯」


 老婆は震える声で言葉を紡ぐ。

 妹に騙されて借金をこさえたこと。家も売り払い帰る場所もないこと。多額の保険金をかけられて死んで来いと言われたこと。

 全て自分が悪いのだ。要領の悪い自分が悪かったのだ。

 だから、帰らなければ。帰って死ななければ。

 こんなところで保護されて、のうのうと温かいお茶を飲んでいる資格なんて、自分には―――


「死ななきゃならない人なんていないだろ」


 しかし、柚木は即座に否定した。

 老婆が顔を上げる。柚木は袖で老婆の涙を拭って、真っ直ぐに老婆を見つめる。

 老婆が目を離せずにいると、地球の青が、柔らかく細められた。


「頑張ってここまで生きてきたんだから、ばあさんはすごいんだよ」

「そうそう!それにね。騙す方が悪いんですよ!とんだ責任転嫁に巻き込まれましたね!」

「ばあさんは優しそうだから自分を責める気持ちも分かるけど。他人に生死を決める権利なんてねぇんだから、生きたいか死にたいかはばあさんが決めていいんだよ」


 老婆は静かにその言葉を受け入れる。

 ただ、歳を重ねただけだと思っていた。

 良いことも悪いこともなかった。愛し愛されることもなかった。誰かの役に立てたかどうかすら怪しいそんな私の人生。


 それでも、生きてきた。


 逃げなかった。楽しんでいた。一生懸命働いて、週末に音楽を聴きながら刺繍をするのが何より幸せな時間だった。

 

 私の人生は意味があったのかしらなんて。


 そんなことを思うほど、価値のない人生だったのかもしれないけれど。


「私、まだ生きたかった⋯⋯」


 死の間際にすら諦めていた私の人生は、思い返せば確かに温かな時間もあった。

 

 あぁ、私、まだ死にたくなかったのね。


 そう思えた自分の人生に、老婆は安堵した。


「ばあさん、元気なんだからまだまだ生きられるだろ。死ななきゃならないなんてもう言うなよ」

「でも⋯私にはどこへも帰る場所がないわ」

「そんなのここに住めばいいんですよ。ただし、朝になったらビックリしちゃうかもですけど」


 愛敬がいたずらっ子のような笑みを浮かべる。

 そう言えばこの少女は日本しか知らないと言っていた。金色の瞳の男も日本人じゃないと驚いていたし、ここは日本に近しい場所なのだろう。

 カナダ人の自分からすれば、確かに日本については明るくはない。

 それでも、ここに住めばいいと言ってくれるなら。


「大丈夫、伊達に長生きしてないもの。多少のことには驚かないわ」


 ふふ、と笑いながら老婆は涙を拭った。

 柚木は金色の瞳の男に目配せする。金色の瞳の男は、何も言わずに静かに頷くと跪いたまま老婆を見上げた。


「もうあちらへは帰れなくなるかもしれないけど、いいかな?」

「ええ、構わないわ」

「なら歓迎しよう。現世で報われなかった魂が、この島で穏やかな死を迎えられますように」


 金色の瞳の男は、老婆の手首をガリ、と噛んだ。

 瞬間、細い身体へ燃えるような熱が駆け巡る。その熱は噛み跡へと集約し、金色の奇妙な模様を描くと体内へ吸収されていった。


「あら⋯⋯なぁに?」

「ここで君が悪い男に喰われないための措置だよ、お嬢さん」

「まぁ」


 くすくすと老婆は声をあげて笑った。


「愛敬、お嬢さんを空いている部屋へ案内してあげてくれ」

「はぁーい。香流くん、おばあちゃんに何か食べるものくらい用意してあげたらどうです?ついでに私にも!」

「はいはい。後で持ってけばいいんだろ」


 柚木は呆れたように小さくため息をついた。愛敬はにししと笑うと、老婆の前に立って小さな手を伸ばす。


「ようこそ、私達の島へ!あなたの人生まだまだこれからですよ!」


 老婆は目をまんまるにして、愛敬の手を取って満面の笑みを見せた。




 日本領土の端、神によって正円形に整えられた島。

 この島には、人間と共に人ならざる者達が住んでいる。

 羽の生えた者、肌の色が違う者、腕が四本も生えている者。

 そして時折現世から迷い込む人間がいる。

 住む世界の違う者達も、地球に住む者達も、お互いが尊重し合い、思惑を抱えながら暮らしている島。それでも皆、この島で生を謳歌している。


「香流くん、今日は何が起きますかね!」

「朝から元気だな、愛敬は。俺は眠い」

「背中叩いてあげましょうか?」

「痛いから絶対やだ」


 警官服を着た柚木と愛敬は、人々が空を飛び、車で走り、四つ足で闊歩する賑やかないつもの景色の中を歩いて行く。

 島の平和を守るため、トラブル発生を解決するために。

 

 この島に住むひとがその人生を謳歌出来るよう全力を尽くす。


 それがこの島のお巡りさんのお仕事なのだ。

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