プロローグ

心地の良い光が入ってくる。

 秋晴れの穏やかな陽気だ。カーテンの隙間から覗いた朝の光に、思わずん、と目を細めた。


「あさ⋯⋯」


 焦点の定まらない瞳で、ぼんやりと天井を眺める。

 と、ばふり、と隣の父親に引き寄せられた。固い筋肉質の腕は温かくて、また眠気がやってくる。

 うつらうつらと起きない脳を奮い起こすように、夏椎は声を絞り出した。


「とうさん、あさだよ⋯⋯」

「あと1時間」

「ちこくするよ」

「⋯⋯あと50分」

「もう、今日から学校だって知ってるでしょ」


 諦めの悪い父親のおかげで、脳がようやく起き始めた。

 呆れたように夏椎が言っても、父親はまだ腕の力を弱める気は無いらしい。どうにもこうにも逃れられそうにないので、夏椎も諦めてされるがままにする事にした。

 この甘えん坊な父親は、高校生になっても親離れする気がない。まぁ、それはそれで構わないのだけれど。

 夏椎が醒めた脳で朝食の工程を考えていると、ジリリリ、とスマートフォンの音が耳に届いた。

 確か、この音は。


「父さん、仕事の電話じゃない?」

「⋯⋯⋯」

「またマネージャーさんに怒られるよ」

「⋯⋯はい。おはよう夏椎、少し話してくるよ」


 父親は夏椎の額にキスを落とすと、ようやく身体を解放してくれた。

 のっそりとまるで熊のように起き上がる父親は、かなりの巨漢だ。隆々とした筋肉が半袖から伸びている。その手がスマートフォンを持つと、小熊のように小さくなるのだから面白い。

 対する夏椎は、ハイスクールの新入生歓迎会で見た新1年生の誰よりも小柄だった。

 そして後輩の誰からも少女に間違われた。残念ながら少年の方だが。くっきりとした丸い双眼、整った顔立ちは父親似なのだが、体格でこんなに扱いが変わるのかと驚いたものだ。


「まだかかりそうかな」


 父親の声のトーンから察するに、何やら揉めていそうだ。端々に聞こえる言葉は「行きたくない」だの、「話が違う」だの、どうやら駄々をこねているようだがどうせそれはまかり通らないだろう。

 夏椎はキングサイズのベッドから降りると、ん、とひとつ伸びをした。藍色のストライプのパジャマは父親とお揃いだ。クリムゾンレッドのパーカーと黒のジーンズに履き替え、一足先に階段を降り、袖捲りをしながらリビングへと向かう。

 食事作りは夏椎の日課だ。父親が仕事でいない日も多いので、小さい頃から自然とそうなっていた。

 鮭を焼き、昨晩セットしていた米でおにぎりをこしらえる。味噌汁の具材は冷凍のほうれん草。卵も混ぜてかき玉汁にする。

 テキパキと朝食を作っていると、のそのそと着替えた父親が降りてきた。見るからにしょんぼりしているので、本日も言い分は通らなかったのだろう。まぁ、いつもの事だけど。


「父さん、お皿出して。コーヒー飲むなら淹れてね」

「夏椎は?」

「俺は水でいいや」

「分かった」


 マグカップもお揃いだ。父親が何でもかんでもお揃いにしたがるので、夏椎も新しく何かを買う時はつい父親の分も買ってしまう。

 父子2人暮らし。産まれた時からずっと父親が重めの愛を注いでくれているので、14歳の今に至るまで寂しさを感じたことはない。

 住んでいるのはアメリカだが、家の中での会話は日本語でと言うルールも、父親が決めたことだった。父親の故郷が日本だから。それと、客人が来ていても内緒話が出来るようにと悪戯心を加えて。


「いただきます」


 2人で手を合わせて、声を揃える。

 夏椎は物心ついてからは日本に行ったことはないが、おにぎりは好きだった。これも日本人の父親の血なのかなぁと思いながら、しみじみと美味しくおにぎりを頂く。


「夏椎、悲しいお知らせがあるんだ」

「うん、今度はどこに行くの?」


 父親の仕事柄、いなくなるのは慣れたものだ。ケロッと尋ねる夏椎に若干傷ついた顔をする父親だが、慣れたものは仕方がない。


「⋯⋯ドイツ」

「へぇ。頑張ってね。完成を楽しみにしてるよ」


 ぱっと夏椎の目が輝いた。ヨーロッパでの仕事は久しぶりだ。


「別にわざわざ現地に行って撮影なんてしなくてもいいじゃないか⋯⋯」

「仕方ないでしょ、俳優なんだから」

「夏椎を育てられれば良かっただけなのに、傍にいられないなんて本末転倒じゃないか!」


 世界中の誰もがその名を知っている、ハリウッドスターである志賀龍司がこんな泣きべそをかきながら嫌々仕事をしていると知ったら世間はどんな反応をするのだろうか。

 高身長、整った容姿に演技力。そして類まれなる身体能力。

 夏椎は息子ながら龍司の出た映画は全て網羅している。

 小さい頃はお互い離れられなくてそんなに大きな映画には出ていなかったが、夏椎が中学に上がった頃から1人で留守番が出来るようになり、以降度々大がかりな映画にも声がかかるようになって現在に至る。

 今や世界で知らぬ人はいないビッグネームになってしまい、龍司の方は後悔しているのだが、夏椎はむしろどんどん映画に出て欲しいので当然マネージャーの味方だった。


「もうハイスクールなんだから、子育て終わったようなものでしょ」

「嫌だ、一生甘やかすって決めてるんだぞ」

「別にいいけど」

「だったら夏椎も付いてこないか?ドイツ」

「やだよ、今日から学校始まるの知ってるでしょ」

「はぁ〜⋯。ついて行きたかった⋯⋯」

「それはやめて」


 大事にされるのと、幼児扱いは別だ。それに龍司が学校に来たらめんどくさい事になる。今はかろうじて息子だとバレていないのに、バレてしまうと私生活や学校生活に影響が出そうだ。


「ちゃんと連絡するよ。俺も頑張るから、父さんも撮影頑張ってね」

「写真も送って欲しい」

「ハイハイ」


 話していると、また龍司のスマートフォンが鳴った。着信音には聞き覚えがある。マネージャーからだ。


「⋯⋯⋯」

「父さん、鳴ってるよ」

「⋯⋯出ないとダメかな」

「出ないとダメなんじゃない?」

「はぁー、⋯観念するかぁ」


 言い終えるなり、龍司はスマートフォンを持ってリビングを出て行った。

 ようやく仕事モードに切り替わったようだ。これで自分も憂いなく学校へ行けそうだ。夏椎はほっとして朝食の続きを食べる。

 さて、どれくらいの期間かどうかはまだ分からないが、龍司がいない間の生活プランを立てなければ。

 ひとり暮らしは慣れているが、ひとりきりの時間経過は案外長い。映画を見るか、ゲームをするか、それとも短期のアルバイトでもしてみようか⋯⋯?

 アルバイトは龍司に止められそうだな、と苦笑いしていると、龍司がリビングへ戻ってきた。苦虫を噛み潰したような顔をしているので、またマネージャーから何か言われたようだ。


「どうしたの?」

「⋯⋯すぐ出ることになった。夏椎、我が家ルールの鉄則は?」

「誰も家には呼ばない行かない寄り道しない、知らない人にはついてかない。外を歩く時は最大限の警戒を」

「よろしい」


 ちなみにこのルール、学校の友人に言ったら可哀想な子を見る顔をされたのは内緒の話だ。

 まぁでも、ずっと一緒にいられるわけではないので。このルールで離れた父親を安心させられるなら構わないと夏椎は思っている。


「学校に着いたら連絡してくれ。⋯⋯ごめんな、もうすぐ誕生日なのに」

「気にしてないよ。帰ってきたら一緒にお祝いしよ」

「夏椎⋯⋯っ」


 きつく抱きしめられ、もう、本当に困った父親だなぁと苦笑する。


「洗い物はしとくから、準備してくれば?」

「それくらいの時間はあるぞ」

「まだスクールバスが来るまで時間はあるし、やっておくよ。またマネージャーさんに急かされるよ」

「夏椎はしっかり者だなぁ⋯⋯」


 しみじみ頷くと、龍司は夏椎の頭を撫でた。本音から行きたくないけれど、息子が送り出してくれると言うなら行かない訳にもいかない。

 それに、他でもない大事な我が子が自分の作品を楽しみにしてくれている。こんなに嬉しいこともないのだ。それは龍司の強い原動力でもあった。


「じゃあ、行ってくる。新学期楽しむんだぞ」

「父さんも、撮影楽しんでね」

「あぁ、任せろ」


 龍司はにかっと笑顔を見せると、スマートフォンとバックパックを抱えてリビングを後にした。

 玄関のドアがガチャリと閉まる。鍵までかけて行く龍司の過保護さに、夏椎は苦笑いしつつも甘んじて受け入れた。


「さて、俺も準備するか」


 夏椎はぽつりと零すと、カチャカチャと食器を片付け始める。

 2人分の食器。今日からは1人分。2階建ての家は広い。静寂。寂しくないと言えば嘘になる。

 夏椎は、龍司以外の親族を知らない。母親のことは龍司が話してくれるが、それ以外は皆無だった。祖父母と言うものがいるのかどうか、日本にいるのかいないのか、いつもなら笑顔で何でも答えてくれる龍司がその話題だけは口を閉ざしてしまうから。

 だから、聞かなくなった。だから、1人で何とかしなければと思うようになった。

 だって、いつまでもお荷物でなんかありたくはない。


「⋯⋯何か見ようかな」


 食器を洗い終わり、空白の時間が出来た。静かな部屋ではどうしても独り言を呟いてしまう。

 寂しさを紛らわせるように夏椎はテレビのリモコンを手に取る。テレビ画面の動画サイトに映るのは、龍司が出演した映画の広告だ。これは2つ前の映画だったな。アクション映画で、ノンワイヤーでのアクションが話題になった龍司の代表作だ。

 久しぶりに見ようかな。全部は無理だけど。

 口には出さずに、リモコンのボタンを押す。暗転する画面。ものものしい音楽が流れる。

 

 瞬間。

 

「え」


 テレビの中から、幾多もの、細い手のような何かが伸びてくる。

 夏椎が何かを言う前に、呆気なく、身体が絡め取られた。それは熱いとか冷たいとかではなく、なんとも無機質な―――


 暗転。


 カラン、とリモコンが宙から落ちる音がする。

 その音を聴くものは、もう、この部屋には誰もいなかった。

 

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