劇場

久々宮知崎

劇場

終わってしまえばどんな激情も劇場も、ただ大げさなものにしか見えないだけ。


彼も、きっと彼女も、ここまで物語らしく、思い出深く、何より身勝手なことをした自覚はないのでしょう。


ただ少女は、その時綴った言葉をなぞるだけ。


この劇場の主のために。



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幕はまだ…。いや、ずっと開かない。開演ブザーも鳴らなかった。


一人の少女がその幕の前の、いわゆるステージ中央に躍り出て、観客の目の前に立った。


スポットライトが当たる。


少女は白髪、長髪。十歳くらいの見た目で、白いワンピースを着こなしたその風貌は、まるで精霊のようだった。


不思議で不気味な雰囲気、薄っすらと浮かべた笑み。


その風貌に見合わず、まるで紳士のように、少女はひとつお辞儀をした。


そして、笑ったまま、口を開いた。






『腐敗と発酵というのは、科学的に見れば同じ反応であるそうです。


 パンや納豆が菌により発酵して美味しくなるのもリンゴや肉が腐敗して食べられなくなるのも、どちらも菌やカビの働きであるという観点から見 れば、違いがないということだそうです。


 では、なぜこの二つの言葉が生まれたのかというと。


 それは、人間にとって有害であるか有益であるかを区別するためです。


発酵したものは食べても腹を下さない。どころか美味しい。


腐敗したものは食べたら腹を下す。どころか死に至る可能性すらある。


酷く単純で、これ以上なく身勝手な区別です。


というわけでこんな風に、善と悪も、幸せと不幸せも、主観的で個人的な定義で決められてしまっていることが多い、というわけです。


いいと感じたか、わるいと感じたか、それだけが全てとは言わずとも、大半の出来事に対する区別の主体となっていることは、ここに言えるでしょう。


では、それを踏まえて。


——好きというのは呪いです。


好きになる側にとっても、なられる側にとっても、ひどく不快で、気持ち悪くて、解し難い感情です。


…なぜと言われれば。


先のように、呪いと祝いは表裏一体で、主観によるもので、彼は———


好きに、酷く傷つけられたのですから。


僭越ながら、恐縮ながら、強く感謝をしながら、彼の、とある一件について今日は語らせていただければと思います。






酷く苛つくことに、残念なことに、私の口から詳細を述べることはできないのです。


意気揚々と語ろうとしたところ申し訳ないのですが、これは彼女の敏感な事情に関すること。


どれだけの出来事があり、どれだけの言葉があったかは、是非お見せしたいものなのですが、生憎、私も彼もそれを赤裸々に語る権利を持っておらず…。


言える範囲で、語れる範囲で、そのあらすじをなぞっていくこととしましょう。


今を生きる、二人の男女のお話。仮に、彼と彼女、とでもしましょうか。


ただ、彼女は彼が好きだった。


ただ、彼は彼女が嫌いだった。


状況を淡白に示すのであれば、こうです。


…淡白でなく示すのなら、こうですが。』


彼女はここで言葉を切って、まるで狂気に染まったかのような声と目をした。




「苦しいのを見ないふり。


 そんなこともう慣れちゃった。


 あは。


 あなたがいないともっと苦しいから。


 これって悪いことだよね?」


「殴っても蹴っても、酷く言っても、それ 


 は辛くないんだよ


 あなたがいなくなるより、ずっとまし


 ねぇ


 捨てないでいなくならないでずっとここにいて


 もう壊れちゃいそう」


「…なんで


 なんでなんでなんでなんでなんで?


 なんであなたは私を捨てたの?」


「ごめんなさいもううるさくしないから


「ねぇ、見えてるんでしょ?


 どうして答えてくれないの


 わけわかんないよ」


「ねぇ」






『ん、んん。


…なかなかヘビーでしょう?


ただ今聞いていただいたのは、彼女の言葉。


実のところ、彼女は彼が好き、というどころでなく、彼に依存していました。


少し連絡を断てばこの通り。


それを彼女の本性だなんて言う気はありませんが、酷く不安定で恐ろしい。


これを見れば一般の人が普通にそうなるように、彼は彼女を怖がっていました。


更に彼は彼女が嫌い。一刻も早く関係を断ち切りたいところなのですが…。


彼は恐怖心や嫌悪感と同時に、


彼女に対する興味も抱いてしまったのです。






まるでアニメの中のような、今まで現実にあるとさえ思っていなかった言葉を放つ人間に、興味を持った彼は彼女の話を親身に聞き、その原因を探ろうとしました。


家庭環境、生活環境、友人関係、彼女自身の精神性など、様々なことを聞き出して解決の道を探ってやろうと考えたのです。


まるでカウンセラーの真似事、子どもの拙いおままごとのようで、彼はその行いを無責任に、興味本位で行いました。


彼は勘違いしてしまったのかもしれません。


これが特別で、まるで一世一代の舞台であるのかと。


物語の主人公として、ヒロインの悩みを解決してやらなければならないなんて、気色の悪い幻想を抱いてしまったのです。


ただ、嫌いと言って、ずっと、口を利かなければいいだけの話。


ですが、それで終わらせてしまうのが、惜しいだなんて思ったしまったんです。






そうして試行錯誤していくうちに、彼はようやく気づきました。


これは彼一人の能力で変えられるものではなく、かつ彼一人で負えるような責任でもないと。


時間が経つのを待って、彼女の回復を、彼女から彼への嫌悪を、偶然を待ち尽くすのが最善であるとようやく気付いたのです。


ですがその後、彼は一定期間、連絡を断ってはつなぐという奇行に出ました。


それが彼の根幹。


それが彼の虚栄心。


彼は、彼女を傷つけたままほう放っておくなんてことをしたくないと、そう強く思っていたのです。


勘違いしてはいけません。


これは彼が自分を優しくない人間だと思いたくないだけで、決して、根から優しいような人間ではありませんでした。


ですが、連絡を自分勝手に断ち続けること、それだけは許せなかった。


だって、彼は曲がりなりにも、好きだと言われた身だからです。


彼は今まで、一度も人に、それも異性に、好意を寄せられたことなど一度もありませんでした。


だから彼は、好意のあしらい方を知らないのです。


好意には好意で返さなければならない。


頼られたからには、それに全力で答えなければならない。


そのくだらない価値観が、彼の心を強く、縛り付けていました。


彼に残された道は二つ。


自分のくだらない価値観を、そしてくだらない劣情を捨てて彼女との連絡を断ち切るか、


彼女にずるずると時間をかけたまま、このどうなるかもわからない不安定な人間関係を抱えたまま歩んでいくか。


どちらも、彼にとっては辛く、耐え難い道でした。


ですからここで、私がこの言葉を語りましょう。』


少女は声を少し男らしく、おどろおどろしくしてみせた。




「僕はお前が嫌いだ

 お前のそばにいたくない

 話してても楽しくない


「でも、

 お前が悲しんでるのを想像するのは嫌だ

 全部投げ出して自分の為だけに生きる弱い僕を想像するのが嫌だ

 結局は僕が、お前を最終的に傷つけたままってことが嫌なんだ

 お前のためじゃない

 だから今まで散々お前を傷つけた癖に戻ってきたし、優しくした

 お前に好かれてるって特別感を味わうのも目的のひとつだった

 それも自分のためでお前のためじゃない


「お前が好きという度にその気持ち悪い自分を実感する

 お前のためじゃないのにお前のためみたいな発言をしてる自分に吐き気 がする

 お前を言い訳にしてやるべきことをやらない僕にも反吐が出る


「この関係はお前のためにも僕のためにもならない

お前を好きと言える人じゃないとお前には応えられない

僕はクズだ

お前を好きだなんて言えない」


「だからもう、お前を傷つけてでも、関係を断つしかないんだ」




さて、ここに引用しましたは、彼の言い損ねた言葉。


好きと言われて、その強制力に呪われて、勝手に傷ついて傷つけた馬鹿な彼の、心からの言葉です。


そしてこの物語は、ここでお終い。


というか、継続中です。言うなれば。


彼はこの言葉をここにいる彼女に伝えるために、それでもこの言葉で彼女を傷つけていることを実感しないように、私に代弁させました。


ですから、あとは彼が満足すれば、この語りはすぐにでも、終りを迎える。


そのはずなのですが…。』






スポットライトは消えなかった。


彼女はため息をついて、少し幕の後ろを睨む。目に向き直って、一つため息をつく。


そして不気味な雰囲気を捨てて、年相応の少女のように、少し拙げに、もう一度口を開いた。


『…おかしくはありませんか?


彼は彼女と関わらないことを望んでいますが、彼はこうして、彼女への言


葉を吐き出さずにはいられなくなっている。


彼女への最善策は無視であるというのに、未だ拒絶のスタンスを取り続け


ている。


最初からずっと、彼に依存するという選択肢を取ってきたのは彼女ですが…、彼もまた、彼女を無視しないという選択肢をずっと取ってきて、今も私に彼女への伝達役という任を背負わせている。


どこか、ひどい矛盾があるように、感じられませんか?


…ということで、ここからは本当の、私からのお話で、持論で、どうしようもない彼らのためにする、あなたへのお願いということになります。






まず、状況を整理しましょう。


彼は彼女が嫌いです。ですが、彼女は彼が好きで、ずっとそばにいたい。


ですから、彼は彼女との関係を断たねばならない。そうならなければ彼は幸せにはなれない。


そのためには、嫌いというだけでは足りない。なぜなら、彼女はかまってさえ貰えればいいから。


ですが、彼の虚栄心はその無視を許さず、嫌いと言い続けることしかできない。


結果、この劇場が存在するように、彼は彼女を拒絶しながら、構ってしまう。


彼が悪いわけでも、彼女が悪いわけでもないはずなんですけどね…』


袋小路も袋小路、八方塞がりの極みといった感じです』


少女は目を瞑って、肩をすくめた。


そして決心したように目を開けて、そちらを指差す。


『だから、あなたです』


客席ではなく、あなたを指差す。


『この一件には彼ら以外の人が、彼らの内情を知る必要がある。だけど、彼女はそれを望まない』


『だからこんな特殊な形で彼は、助けを求めたんです』


『彼女と話しても、埒が明かない。彼女と話しても、気が重くなるだけ』


『でも彼女は決して話さないし、直接、彼として友人に相談するのはリスク


が高い』


『この劇場は、それらを通り抜けてあなたの力を借りるためにあるのです』




少女はあなたに、手を差し伸べる。


『お願いです。あなたに少しでも優しさがあるのならば、彼の話を聞いてあ


げるだけでも、彼に何気なくお菓子を渡すだけでもいい』


『彼と彼女との関係を知るのが、彼の苦労を知るのが、一人じゃないんだと


いうことを、彼に教えてあげてください』


『彼が作ったこの劇場が、決して無意味ではなかったということを伝えてあ


げてください…!』


拍手も歓声も劇場には響かず、ただあなたの周りの音だけが、そこにあった。






『すみません。ちょっと熱くなりすぎちゃって…。彼もこれを、大事にした


いわけではないと言っていたのに』


少女は熱くなった目頭を押さえながら言った。


一つ息を吐いて、吸って。


また、最初のような不気味な笑みを取り戻して、口を開いた。


『…まぁこれらすべて、私には関係のないことです。


そして、皆様方にも関係のないことです。


ええ。この劇場が無駄になろうとも、どうなろうとも、彼にあなたを責め


る事はできませんし、何よりお門違いというものです。


ですが。


今日というこの日に、一切この出来事と関係のない客席から、この物語とすら言えないような演目を最後まで見てくださったこと、本当に、本当にありがとうございました。


伝える気もない彼の自己満足に、付き合っていただき、誠に、ありがとうございました』






少女はまた、一つお辞儀をして、壇上から降りていった。


幕はずっと閉じたまま。


だって、彼がこの劇場の主なのだから。


彼と彼女の物語は開演されず、ただ前語りのみにてそれは尽きる。


彼は次の最後の一言を書き終えて、少し自嘲しながらエンターキーを押した。




※この物語はフィクションです。…なんて。






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