第3話 邪龍ヴァルシア
「我の名はヴァルシア。かつて人々は我を邪龍と呼んだが……そなたを助けた者、とでも思っておけ」
ヴァルシアと名乗る彼女――いや、その言葉づかいからすると性別ははっきりしないが、見た目は女性に近いように思えた。柔らかい曲線をもつ体格に反して、その瞳は冷たく鋭く、まるで何百年も生きてきたような威圧感がある。
「封印されていた、って……ことなんですか……?」
ようやく僕はうわごとのように問いかけた。もう死にかけのはずだった身体が、まがりなりにも声を出せるほどに回復している現実。それを成し遂げたのが目の前の存在なのだと考えるだけでも、信じ難い光景だった。
「そうだ。我は古い時代から、忌まれるほどの力を持つがゆえに、この底に封じられていた」
ヴァルシアは苦笑まじりに、視線を落とす。砕けたクリスタルの破片を静かに踏みしめるたび、その周囲に微かな魔力の揺らぎが漂うのがわかる。もしも僕が意識を失ったままなら、ここで朽ち果てていたのだろう。彼女が封印の代価として、僕の命を救ってくれた――それは疑いようのない事実だ。
胸の奥がざわつく。まだ完全には理解できないけれど、確かなことがひとつある。僕は生きている。今、こうして呼吸をしているのは、目の前に立つヴァルシアのおかげだ。
「ありがとう、というべき……なんでしょうか」
ぎこちなくお礼を口にすると、ヴァルシアは鼻で笑うように軽く息を吐いた。
「取引だからな。礼など不要だ。お前が我の封印を解いた、それだけだ」
淡々とした口調に見えるけれど、どこか嬉しそうな色を帯びているようにも思える。僕が勘違いかもしれないが、長らく閉じ込められていた孤独が和らいだのかもしれない。そんな雰囲気を微かに感じる。
改めてヴァルシアの姿を見やると、やはり普通の人間ではない。竜を連想させる角や鱗、そして琥珀色の瞳には、人間離れした妖しさが宿っている。強大な魔力を放つ存在だというのが、肌で感じられた。
「それにしても、こんなところに再び人が来るなんて思ってもいなかった。お陰で助かったぞ」
ヴァルシアはふっと首を傾げて僕を見下ろす。背丈はそこまで変わらないはずなのに、その威圧感のおかげで視線を合わせるだけで息苦しく感じる。
「あ、えっと……僕はただ落ちてきただけなんですけど、それでも役に立ったならよかった、というか……正直まだ頭が追いついてなくて……」
「……まあ、無事に動けるようになったのなら、まずはここを出なければな」
ここを出る。言われてみれば、この谷底からどうやって脱出するのかすら僕は考えていなかった。崩れた岩の壁がそびえ、上を見上げても高低差が激しすぎる。
「っう……、足が……まだ痛い……」
「すぐに完全復活とまではいかない。そなたの体はひどく損傷していたからな」
ヴァルシアは淡々とそう言った。
ふとした拍子に、体のバランスを崩しかけると、彼女の腕がスッと支えてくれた。それがまた意外で、少しだけ胸が暖かくなる。
「あ、すみません……ありがとうございます。ちょっと、まだうまく歩けないみたいで……」
「気にするでない。我が支えてやらねば、せっかく助けた甲斐があまりにも虚しいではないか。ほら、そなた、もう少し左の肩を預けよ」
ヴァルシアの瞳が優しげにきらりと光る。底知れぬ力を秘めた存在が優しさを覗かせ、僕を労わってくれることに温もりを感じた。
「いろいろと、聞きたいことはあるんですけど……まずは、脱出してから、ですね」
「そう焦るな。そなたの身体はまだ不完全……少し休んでからでも遅くはないだろう」
ヴァルシアは、砕けたクリスタルの破片をちらりと見やる。青白く美しかった結晶はいまや粉々になり、周囲に散らばっている。それは彼女が長い年月をかけて閉じ込められていた証拠であり、僕が復活を手伝ってしまった象徴でもあった。
もしかすると、とんでもない存在を解き放ってしまったのかもしれない――そんな不安は、正直少しだけある。
だけど、死にたくなかった。だから僕は彼女との取引を受け入れた。ここからどうなるかなんて、まるで想像がつかない。それでも、暗い死の底に沈むよりは、ずっとましだと思えてしまうのだから仕方ない。
「邪龍……ヴァルシアさん、て呼んだほうがいいのかな」
何気なく言葉をかけると、彼女はすこし怪訝そうに首を傾げる。
「さん呼びをされるような柄でもないがな。まあ、好きにするがいい」
その軽妙な返しに、ほんの少しだけ肩の力が抜ける。図らずも、フランクなやり取りになった自分に驚いた。相手は人間離れした存在だというのに、なぜか僕のほうが緊張しすぎて息苦しくならないのは、きっと死の淵から救ってもらったという感謝が大きいのだろう。
「折角だ、少し話そうではないか……そなたがどのように生きてきたのか、我に聞かせよ」
「ええと……僕なんて、落ちこぼれの魔導師で、正直話すような大したことはないんですけど……それでもよければ、聞いてもらえるなら、少し嬉しいです」
ヴァルシアはわずかに目を細め、どこか満足げにうなずく。
「悪くない。そなたの話、聞かせよ。我も退屈は嫌いでな」
僕は傷に気を配りながら慎重に姿勢を整える。まだ体は痛むけれど、少しでもこの場で落ち着いて話ができそうな気がする。ここからどうやって脱出するか、どこへ行くのか――不安は山積みだけど、いまはヴァルシアとこうして言葉を交わす時間が貴重に思えてならない。
「じゃあ……少し話してもいいですか。僕がどうしてここまで来たのか、とか……学院で落ちこぼれだった頃のこととか」
ヴァルシアは軽く肩をすくめて、まるで「思う存分喋るがいい」とでも言うように口元をゆるめる。
「ふむ、好きにするがいい。そなたが語ることで、我も今後の方針を考えやすくなるかもしれぬからな」
わずかな闇の残る谷底で、僕は生き延びたばかりの疲れた身体をいたわりながら、少しでも率直に自分の過去を語り始めることにした。彼女――ヴァルシアとなら、何かが変わるかもしれない。そんな期待を胸に抱きつつ、僕は口を開いた。
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