第2話 地の底で囁かれる
意識の底に、真っ暗な闇がじっとりと張りついている。どれだけもがいても、まるで深い水の中に沈んだように、感覚が遠のいていくばかりだった。肩や足に残る激痛も、次第にぼんやりとした鈍痛へ変わっていく。僕は、自分が生きているのかどうかさえ曖昧になる感覚を味わいながら、何度も「どうして、こんなことになったんだろう」と思考を繰り返した。
――死ぬんだな、僕は。そんな無力感ばかりが頭の中を満たしていた。痛みで意識が飛びそうなのに、それでも変な具合に頭だけはクリアだ。学院でもパーティーでも、無能扱いされて、結局最後にはあんな形で捨てられて……。わかっていたはずなのに、心のどこかでいつか認めてもらえるかもしれないと夢を見ていた自分が、馬鹿みたいに思える。
どうして、こんなに報われないんだろう。どうして、こうも僕は、何の力にもなれなかったのか。あれほど必死にがんばってみせると決意したのに、それを示す機会すら一瞬で奪われてしまった。冷たい石床に横たわったまま、僕はゆっくりとまぶたを閉じかける。もう痛みに耐えるのも疲れた。助ける人なんていないんだから、いっそのこと意識を手放してしまいたい。
そのとき、不思議な声が耳の奥をかすめた。
「そなた……聞こえるか?」
え? 今の声、誰……?
僕は目を開けようとしてもうまく瞼が動かせない。それでも微かに意識を向けると、またその声がする。
「このままここで朽ち果てたくないなら、我に手を貸せ」
頭が朦朧とするせいで、正直、何を言われているのかわからない。
僕は死にたくないのか――それはもちろん死にたくないよ。でも、どうしろっていうんだ。体も動かせないし、声すら出ない。
「お前が我を解放すれば、助けてやる」
解放? それはどういうことなんだろう。誰が話しているのかも見えないのに、僕は半ば必死にすがるような気持ちで、心の中で叫ぶ。
「助けて……くれるの……?」
「そうだ。約束しろ。我を封印から解けば、お前の身体を治してやる」
理解不能な話だけど、今の僕には選択肢がない。助かりたい。死んでしまって終わりは嫌だ。何だかよくわからない相手でも、手を貸してくれるなら――
僕は喉を軋ませながら、かすれた声をこぼす。
「た、助けて……本当に、助けてくれるなら……僕……何でも……」
言葉がうまく紡げない。けれど、その瞬間、胸を締め付けていた痛みがわずかに軽減した気がした。まるで、不思議な力が体の一部に作用しているかのような感覚。熱っぽい魔力がゆっくりと染みわたっているようだ。
「――いいだろう。取引は成立だ」
声は一段と低く、どこか喜びを帯びたようにも聞こえる。
僕の意識はまだぼんやりとしていて、視界は暗闇のままだ。けれど鼻をかすめる血のにおいや痛みが、少しだけ和らいでいる。
「……誰なんだ……君は」
声を絞り出して尋ねるが、相手は明確な答えをくれなかった。
ただ「近くになにか見えないか?」と囁いてくる。
そこにある? 何が……。必死に目を開けようとすると、うっすらと視界がぼやけて、やがて青白い光がぼんやりと浮かび上がってきた。
少しだけ頭を動かしてみると、岩が積み重なった壁際に、大きなクリスタルの塊があることに気づく。まるで光源のように青く発光していて、周囲の荒れた谷底を仄かに照らしていた。
「我はあのクリスタルに閉じ込められている。さあ、そこへ手を伸ばせ」
声は急かすように続く。僕は体をねじらせようとするが、いまだ負傷が深く、ほんの少し腕を動かすだけで息が詰まるような痛みが襲う。だけど、やるしかない。助かるためには――僕は歯を食いしばり、傷だらけの体を石畳の上でずるずると動かした。
「……くっ……ううっ……」
声にならない呻きがこぼれる。右肩を動かすだけで激痛が走るけれど、それでも諦めずに数センチずつ前進する。
汗が滲む額を気にかける余裕もなく、僕は血の混ざった唾を吐き捨てながらクリスタルへと近づく。距離にして歩幅二歩分だろうか、それが果てしなく遠く感じられる。
「もう少し……もうちょっと……!」
何度も息が止まりかけるが、それでもなんとか左手を伸ばす。先がゆがんだ視界の向こうに、青白い輝きを放つクリスタルが見える。あと少しで手が届く。そこに指先が触れた瞬間、僕の中で何かがビリッと弾けた。
――バチン。軽い静電気のような衝撃が腕を走る。続いて、周囲の空気が震えるようにうねり、谷底が微かに震動するのを感じた。
「それだ。そこに触れろ、我を封印した者たちの術式を崩すのだ」
声が熱を帯びる。僕はうまく言葉を返せないまま、必死の思いで手のひらをクリスタルに当てる。すると、スッと何かが溶け込むように、掌とクリスタルの境界が曖昧になった。
「……ふ、封印……これを解く……?」
「そうだ、それでいい」
声が急に揺らぐように大きくなり、周囲の石壁がひび割れていく。まるで空気が膨張しているかのように、どこからともなく魔力の震動が発生して、僕の髪を逆立てた。冷たいはずの谷底が、一気に熱を帯び始める。
「う、うわっ……!」
僕は驚いて手を離そうとするが、もう離れない。クリスタルとの接触面がまるで吸いつくようで、逃げ場を失った腕にさらに強い衝撃が走る。
「離すな。死にたくなければ、そのまま我の封印を――解け」
その最後の叫びと同時に、クリスタルが砕けていく音が響いた。バリバリ……と氷の彫刻が崩れるような音。青白い光が大きく弾けたかと思うと、あたりが眩しさに包まれる。僕は思わず目をきつく閉じた。頭の中が真っ白で、何も考えられない。
……刹那か、あるいは途方もない時間を経て、光が収まり、あたりに薄い粉塵と風が舞う。まるで嵐が通り過ぎたあとの静けさが訪れた。
「……っ、い、痛みが……」
気づくと、自分の肩や足の痛みがほとんどなくなっている。完璧に傷がなくなったとは言えないが、先ほどまで動かすのも無理だった腕や脚が不自然なくらい軽く感じられる。息をするたびに襲われていた苦しさも幾分か和らいでいた。
「どうやら、死なずに済んだようだな」
声の主が、視線の先にそっと現れる。先ほどまで暗闇の中にうずくまることしかできなかった谷底には、砕け散ったクリスタルの破片があちこちに散乱していた。
そして、その破片の中心には……人型の存在が立っている。いや、人型だけど、明らかに人間ではない。赤みを帯びた髪と、頭頂部に小さな角が生えていて、瞳は琥珀色に輝いていた。体格は女性に近いようにも見えるが、背中や腰のあたりに竜の鱗が部分的に覗いている。
「あなたは……誰……?」
僕は呆然としたまま言葉をこぼす。その存在は、何も言わずに一歩近づいてきた。谷底の暗がりでもはっきりと見える、周囲を圧倒するオーラ。決して大柄ではないのに、その存在感は凄まじかった。
「我の名はヴァルシア。かつて人々は我を邪龍と呼んだが……そなたを助けた者、とでも思っておけ」
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