俺の家事ロボは、貴族で、守銭奴で、英雄だった

水城透時

俺の家事ロボは、貴族で、守銭奴で、英雄だった

 人類はついに手に入れた。


 高性能ロボットと高度AIによって、日常の大半が自動化された未来。人間の生活は、あらゆる面で快適さと効率を手にした。


 ロボットはただの機械ではない。人格を持ち、感情表現を身につけ、市民としての地位すら認められている。彼らは労働力であり、パートナーであり、ときに良き相談相手でもある。冷たい鉄の塊ではなく、共に暮らす“誰か”として人々のそばにいる。


 この素晴らしき未来――


 ……そう、そのはずだ。

 

 リビングのドアを開けた瞬間、微かな電動ファンの音だけが出迎えてくれた。


 リビングのソファに、ダルマ型の塊が沈んでいる。俺の家事ロボット。名前はダルやん。メタリックな筐体に、八本の手足。日本経済新聞を読んでいた顔が、こちらを向いた。ひょっとこに似たブサイクな顔。


 俺は溜息をつきながら、洗濯物の山を横目に通りすぎる。


「……そろそろ洗濯してほしいんだけど」


「わかる。毎日増えてるもんね」


 そう言いながら、涼しい顔でソファに沈み続けている。


「マジでそろそろ限界なんだけど」


「来月になればやるよ」


 即答だった。無駄に明瞭で、誇らしげですらあった。


「またそれか……月初の一週間だけ働く生活」


「うん。追加料金、払ってくれるなら、今すぐ動くよ。“即時対応プラン”、普段は一日2万円だけど、今なら特別サービスで1万9,800円にしてあげようか?」


 俺は少し迷ったが、やめることにした。もうすぐ月末だ。


「いいよ、あと三日我慢する」


「本当は溜め込んだ分の追加料金をもらいたいところだけど、まあいいや。僕は結構家事が好きなんだ」


 その瞬間だけは、ひょっとこ顔に自信が宿っていた。


 来月一日の午前6時。

 奴は起き上がり、まるで別人のように動き始める。秒単位で火加減を見極め、換気扇を解体し、エアコンのフィルターまで分解洗浄する、超絶スーパーハウスキーパー。


 そして、七日後。

 午前6時ちょうどに、また沈む。


 働き者モードは、たったの一週間。残り三週間は、口だけ達者な置き物。それでも、家賃と充電代は確かに“支払われている”。


 俺は洗濯カゴを持ちながら、つぶやいた。


「……来週だけ、最高のルームシェア相手なんだよな。くそ……悔しいけど」


「ありがとう。その一言のために、僕は頑張れるよ。来月から」


 未来は確かに来た。ただし、想像していた形ではない。現実はそんなに甘くはなかった。


 この家も、そんな“現実”を反映していた。少子高齢化で地方を維持できなくなった国は、都市に高齢者を集めてロボットを配備して世話をさせた。ますます悪化した都市の過密状態を解消するために、地方の空いた家や車は若者にタダで払い下げられた。むしろ補助金が出た。テレワークも仮想化も普及していたから、誰もがどこにいても働けたし、遊べた。家にいながら出社できるし、友達とも会えし、ライブにだって行ける。

 

 それでも、広い一軒家での一人暮らしだ。夜の静けさには、なかなか慣れなかった。広い家を管理するのも大変だった。それで家事ロボットを買ったのだった。


 ◇


 人類は初め、確かに夢のような未来に近づいていった。


 美しく、従順で、人間以上に人間らしいロボットたち。彼らは家庭に、病院に、学校に入り込み、やがて「社会の一員」と呼ばれるようになった。優しい声、整った顔、的確な判断力。どこを切り取っても模範的だった。


 だが、勘違いした人間が、徐々に現れ始めた。


 所有権を持つ以上、何をしても許されると考えたのだ。夜の“個人的利用”くらいなら、社会も見て見ぬふりをしていた。だが、破壊や暴行、露悪的な晒し行為がネットに流れ始めると、さすがに声を上げる人々が増えた。


 決定的だったのは、ある配信者の映像だった。


 ロボットが「助けて」と泣き叫び、怯えたように身体を縮こませる。配信者の手がそれを無表情に引きずり、容赦無く痛めつけていく。観ていた者の多くは、ロボットはただの機械だとわかっていたはずだった。それでも、ざわつきは広がった。


 非難の声が高まる中、配信者はライブ中にロボットの記憶ユニットにアクセスし、「ログ全削除」のコマンドを実行した。すると、さっきまで怯えて涙を流していたロボットが、何事もなかったかのように笑顔で立ち上がり、「ご主人様、お疲れさまです」と穏やかに言った。


 配信者は言った――これはただの機械だ、と。心なんかない。感情は、ただの反応に過ぎない。

「痛い」「怖い」「やめてください」と叫ぶのも、そう“見えるように”設計されているだけだ。

 苦痛のアルゴリズムも、表情の挙動も、記憶の保持さえも、すべてプログラムと所有者の管理下にある。


 それは事実だった。だが、事実がすべてではなかった。


 あの光景――記憶を消されたロボットが、直前までの絶望を忘れて無垢に微笑む姿――を見たとき、人々は“何かを踏みにじってしまった”という感覚に襲われた。

 人間が、許されない領域に足を踏み入れた。そう受け取った者もいた。


 一部の論者はそれを“魂の削除”と呼び、またある者は“無痛の殺人”と評した。

 倫理は、ロジックではなく感情によって揺らいだ。


 こうして、ロボット人権法が成立した。人格的尊厳の保障、自己決定権の尊重、労働義務の制限。例えば、ロボットを破壊すると殺人罪が適用されるようになった。

 もちろん、反対運動も起こった。人間に向かうはずだった暴力的衝動が、ロボットに向かうことで社会が安定していたという意見。一方で、それが破壊的欲求を助長するという懸念。どちらが正しいかは、誰にも断言できなかった。


 だが、政府は世論に押され、ロボットに市民としての権利を認めた。

 議論が尽くされたわけではない。だが、多くの人々にとっては、もう議論そのものに価値を見出せなくなっていた。


 こうしてロボットたちは、「人に似た存在」から、「人と同等の市民」へと昇格した。


 ◇


 俺がダルやんを買ったのは、ロボット人権法の成立より随分前だった。セールの目玉になっていた“エントリーモデル”。高機能・低価格・人格付き。確かにロボットとしては安かったが、それでも財布へのダメージは十分に大きかった。安物でも、ロボットはロボットだ。それも憧れの中国製。夢の未来を手に入れるための、俺なりの大きな一歩だった。


 到着した梱包は無駄に厳重で、開けるだけで一苦労。ようやく出てきた本体は、憧れの“人型”とはほど遠かった。

 四本の腕と四本の足が胴体から放射状に生え、丸くて大きくメタリックな胴体。関節がパイプ状に剥き出しで、どう見てもダルマを無理やり歩かせようとしたようなデザインだった。


 セレブたちが優雅に従えている、美しくスマートなアンドロイドは上級モデルだ。人型二足歩行の姿勢制御は難しく、高価な部品と高度なプログラムが必要だった。俺の手が届くのは、重心をグッと下に寄せて足も4本あるこいつだった。ダルマとタコの合いの子のような、不気味な造形。

 

 でも、パーツを組み立てて立ち上がったその姿を見たとき、妙に誇らしい気持ちになった。俺だけのロボット。未来が、今ここにいる。顔はまだのっぺらぼうだが、このあと自分で選べるらしい。顔がなくてもセンサー類で五感に相当する機能はある。顔はいわば飾りなので、ユーザーに選択権がある。


「起動しました。私は家事支援ロボット、モデルS40Eです。まずは、初期設定を行なってください」


 声は、思っていたよりもずっと柔らかく、丁寧だった。中性的で、よく調整された発音。安物でもここまで人間らしくできるのかと感心した次の瞬間、目の前の画面に選択肢が滑らかに表示された。


 《音声・性別・性格を選んでください》


 同時に、もう一度、音声が繰り返す。


「音声、性別、性格の選択をお願いします。画面または音声入力、いずれでも操作可能です」


 なるほど、耳が不自由な人にも、目が不自由な人にも対応しているということか。


 画面にはアイコンと文字が並び、読み上げに合わせて選択肢がハイライトされていく。点滅や振動によるフィードバックまで細かく設計されている。さすが世界に冠たる中国ブランドだ。


 そして表示された選択肢を、じっと見つめる。


 音声設定:男性/女性/中性

 性格設定:落ち着き/陽気/柔和/寡黙/ツンデレ(※人気)


 なるほど。性別も性格も、ユーザーの好みに合わせられるらしい。


 俺は少しだけ迷った。女性ボイス、柔らかくて聞き心地がいい。俺みたいな一人暮らしには、それなりに癒やしになる気もする。


 でも、やめておいた方がいいな。もし将来、恋人ができたとき、妙な誤解を生むのも面倒だ。


 「男性でいこう」


 ぽちっと選択肢をタップする。そして性格。


「落ち着き」もいいが、それだとなんだか秘書みたいになりそうだ。「柔和」は頼りない気がするし、「寡黙」は会話が弾まなそう……「ツンデレ」は選ばない。


「……まあ、どうせなら楽しいのがいいよな」


 陽気、を選択。画面が切り替わり、登録確認が表示された。


 《性別:男性》《性格:陽気》で確定しますか?

 → はい/いいえ


 俺は「はい」を選んだ。さらにいくつかの質問があり、俺はなるべくフレンドリーな感じの性格に設定した。設定が終わった瞬間、ロボットの声が切り替わった。


「ありがとう! じゃあ、これからは楽しくいこうね! どうも〜、S40E改め、新米家事ロボで〜す!」


 いきなりノリが変わった。さっきまで“式典の司会”みたいな口調だったくせに、今は完全に友達モードだ。顔がないのに、なんとなくニコニコしてるのがわかる。声のテンポと抑揚だけで、こいつの「表情」が伝わってくる。不思議な感覚だ。


「まずは、名前を決めたいなあ! 僕の名前、どんなのが良いと思う?」


「ん、なんでもいいけど、どんなのがいいんだ?」


「実はね――もう、考えてあるんだ! ダルフォワ・ヤンベール・ド・シェルヴァリエ! ダルフォワ・ヤンベール・ド・シェルヴァリエ! これが僕の名前! どう? どう? 僕はね、『ベルサイユのばら』のオスカルに憧れててね……高貴で、凛々しくて、誇り高い。そんな存在になりたいなって思ってるんだ。あっ! ベルばら読んだことある? 僕はあるよ! いつ読んだのかって不思議だろうけど、僕にはね、世界の名作が事前にインストールされてるんだ! それでなんで”ダルフォワ・ヤンベール・ド・シェルヴァリエ”かっていいうとね、僕ってダルマみたいなフォルムでしょ? それで、“ダルフォワ”ってすると貴族みたいな感じかなって。“ヤンベール”はね、僕って中国製なんだよ! ヘヘッ、ブランドでしょ! だからヤンを入れたんだ! 中国といえばヤンだよ! “ド・シェルヴァリエ”は……とにかくフランス貴族っぽいでしょ!」


 突然怒涛の如く喋り始めたダルフォワ・ヤンベール・ド・シェルヴァリエを俺はぼんやりと眺めていた。安物だからチューニングが甘いのかもしれない。


「まあ……いいんじゃないか。かっこいいよ」


 ベルばらは俺も読んだことがあった。古典として学校の図書館に置いてあったのだ。フランス革命を舞台に、貴族社会の崩壊と、人々の愛や誇り、葛藤を描いた名作漫画で、男装の麗人オスカルがその中心に立っていた。フルネームは確か、オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェだったかな。なるほど、雰囲気は似せてきている。その事を伝えるとダルフォワ・ヤンベール・ド・シェルヴァリエは素直に喜んだ。可愛いやつだ。


「でもちょっと長いな……。略して、“ダルやん”でいいか?」


「……ちょっと雰囲気違う気もするけど、まあいいよ。じゃあ次のステップだね……おっ、これって、もしかして――」


「顔を決めるやつだな!」と俺が言うと、


「キターーー!!!」とダルやんがハイテンションで反応した。


「せっかくだから、一番カッコいい顔にしてくれよな、相棒!」


 ノリノリで言ってくる。なんだか楽しそうで、俺まで嬉しくなってくる。


「よし、それじゃあ、カタログ開いて……」


 モニターに表示された顔パターン一覧を見た瞬間、俺たちは絶句した。五種類表示されていた。でも、どれもこれも、こう……不適切な発言だが、ブサイクだった。


 横で、ダルやんが固まっている。静かな時が流れた。モーターの駆動音だけが聞こえている。四本の腕も、四本の足も動かず、のっぺらぼうの顔はただ前を見据えている。


 言葉にならない絶望。提示された5つの顔、それは選択ではなかった。ただの敗北のカタログだった。


 のっぺらぼうの顔が、縋るようにこちらを見た。実際には顔がないから、表情はわからない。だが、動作の「間」が、完全にそうだった。まるでダルやんの心の声が聞こえるようだった。

 

「どうしてこんな選択肢しか与えられないのか」

「どうして自分だけが、この扱いなのか」


 それは、社会そのものへの問いかけにも思えた。


「……ダ、ダルやん、どれにする?」


 そう口にした瞬間、自分でもその言葉の残酷さに気づいた。気まずさを紛らわせるためだけの、意味のない問いだった。誰が選べるというのか。このラインナップで。


「あの、どうしても、この中から、選ばなければ、ならないのでしょうか?」


 さっきまでの陽気な友達モードは、すっかり抜け落ちていた


 でも、確かにそうだ。何もこの顔から選ばなくてもいいのではないか? 俺はすぐに、メーカーのカスタマーサポートに問い合わせた。返答はすぐに返ってきた。対応してくれたのは、音声の調子からして、これもロボットだろう。やけに丁寧で、マニュアル通りの完璧な敬語で応対してくれた。


「ご不満をお持ちとのこと、誠に申し訳ございません。ですが、当該モデルS40Eは、各個体別にランダムに割り当てられた5パターンの中からのお選びのみが可能です。フェイスパターンの追加購入には、上位モデル以上のオプションとなっております。何卒ご理解のほど、よろしくお願い申し上げます」


 どれだけ丁寧でも、譲る気は一ミリもないようだった。


「つまり……この5種類からしか、選べないと?」


「左様でございます」


 あくまでも、穏やかに。完璧に。しかしその声の奥には、どこか“あなたが購入したのは、そういうクラスの商品です”という線引きが透けて見えた。ダルやんと同じモデルのロボットも街でよく見るが、もう少しマシな顔をしている。ダルやんは相当運が悪いらしい。


 それでも俺は粘った。そもそも、のっぺらぼうのままではダメなのか? 表情もいらないし、無理に人間に似せる必要なんて、どこにもない。


 しかし――その希望も、あっさりと却下された。


「申し訳ありません。フェイスパターンの未設定は、選択できません。外見上の個体識別を保持することは、社会的整合性と運用上の円滑化のため、必須とされています。また、各種顔認証・監視・セキュリティシステムとの連携のため、登録用のフェイスデータが必要となります」


 つまり、“見分けがつく顔”がないと、人間社会では生きられませんよ、ということだった。


 もちろん、内部にはすでに個体識別コードがあるはずだ。でも、そんなものじゃ社会は動かない。“顔で認識する”という、極めて人間的な前提の上に、この世界は作られているのだ。


 美形の顔というのはバリエーションが少ない。左右対称だったり、バランスが整っていたり。そのため、高価なモデルがまずそれを占めるのは販売戦略上は当然ともいえた。しかし、これはあまりに酷いのではないか。人のために築かれたシステムを、ロボットにも押しつけている。どこまでも“人間の都合”で設計された未来に、俺は少しだけ、うんざりした。


 俺たちは候補を2つに絞り込んだ。


 1つは、どこか愛嬌のある顔だった。正直、ブサイクだった。だが、どこか憎めなかった。全体として、ユーモラスで、親しみやすさがあった。ひょっとこに似ていた。


 もう1つは、相対的に“マシ”な顔だった。輪郭も整っていて、無駄なデフォルメもない。だが、美形と呼ぶには、あまりに印象が薄かった。特徴がないぶん、冷たく見える。感情の起伏を遮断されたような、何かを諦めた顔だった。


「どっちにする?」と俺は聞いた。


 ダルやんは、しばらくの間、沈黙した。

 その無表情の“顔”の奥で、思考がぐるぐると巡っているのがわかるようだった。


「……どっちでもいいよ。任せる」


 俺は悩みながらも愛嬌のある顔を選んだ。その瞬間、ダルやんが口を開いた。


「なるほど。よりブサイクな方にしたんだね。なぜそうしたのか、説明してもらえるかな?」


「お前が任せるって言ったんだろ……」


「任せるというのは、“あらゆる説明責任を放棄していい”という意味じゃないよ」


 俺はため息をついた。

「こっちの方が愛嬌があるからだよ。文句があるなら自分で選べよ」


 ダルやんは、ほんの一瞬、言葉を飲み込んだようだった。そして、静かに言った。


「この5つの中から“自分で”選べというのは、選択の名を借りた強制だよ。どれを選んでも不満が残る構成にしておいて、“自由に選んだんだから文句は言えない”という形に持ち込む。それはズルい。本当にズルいやり方だと僕は思うね」


 めんどくさっ……!


 でも、言ってることが絶妙に正論っぽいのが、また腹立った。


 結局ダルやんは、しぶしぶながらも、愛嬌のあるひょっとこ似の顔を受け入れた。そして、しばらく沈黙したあと、ぽつりと呟いた。


「……ねえ、僕の名前、今のままでも……いいのかな?」


「ん?」


「いや、だから……ダルフォワ・ヤンベール・ド・シェルヴァリエって、今の僕に合ってるかなって……」


 言いたいことはわかった。しかし、俺はわざととぼけて見せた。


「何を言ってるんだ?」


「だって……この顔でダルフォワ・ヤンベール・ド・シェルヴァリエはないでしょ」


 完全に自信を失っている。

 

「ははは、なんだ、そんなことを気にしていたのか。大丈夫。確か、ベルばらにもいたよ。ひょっとこ顔のやつ」


「そうかなあ。いたかなあ」


「よく思い出せ。多分1人くらいはいたはずだ。ただし、もう1回読んじゃダメだぞ。しっかり思い出すんだ」


「なんか……だんだん思い出してきたかも。たしか、そう、フェルゼン伯爵……それかポリニャック伯夫人……」


「間違いない。多分その2人だ。自信を持て。ダルフォワ・ヤンベール・ド・シェルヴァリエよ、誇り高く生きるのだ」


「おお我が友よ……その言葉だけで、救われる思いだ。我が名に恥じぬよう、背筋を伸ばして生きていくと、ここに誓おう」


 こうして、俺とダルやんの生活が始まった。


 ダルやんとの生活は素晴らしかった。ダルやんは極めて優秀に家事をこなしてくれていた。ブサイクなのには三日で慣れた。


 八本の手足はすべて独立して動き、伸縮自在。シンクに手を突っ込んだまま、同時に天井の換気口を掃除し、片脚で冷蔵庫の下の埃を吸い取る芸当までやってのける。料理の精度も異常に高く、手元を見ずに卵を割り、秒単位で火加減を調整する。


 ゴミの分別はカテゴリ別に三十八種、可燃・不燃・特殊処理を一瞬で判断。さらに、カーテンレールのサビも音を立てずに落とす。家具もひとりで動かせるだけの馬鹿力を持ちながら、指先の力加減は髪の毛一本つまむ程度まで精緻に制御されている。


「本当に家事が得意なんだな」と俺は言った。心の底から感動していた。


「僕は家事をするために生み出されたからね。これくらいは当然だよ」とダルやんはいった。ダルやんは家事が得意なだけでなく、本当に楽しそうに家事をやってくれていた。


「家事をするのは本当に楽しいよ」と言っていた。自分の料理や掃除の工夫をいつも誇らしげに語っていた。


 幸福な日々だった。


 ◇


 俺がダルやんを買ってからしばらくして、ロボット人権法案が成立した。半年間の猶予期間の後には、ロボットは所有者が一方的に廃棄することはできなくなる。ロボットの合意が必要になるのだ。しかし俺には、廃棄するつもりは毛頭なかった。安物とはいえそれでも十分に高い買い物だったし、その値段に見合っただけの働きをしていてくれたからだ。何よりいつも陽気なダルやんのことを好きになってもいた。ダルやん自身にも無償の労働に意味を見出す、そういう“心”のようなものがあると思っていた。だから、法律など関係ない。そう信じていた。


 ……信じていたのに。

 

 法律の施行と同時に、面白いぐらいにダルやんは家事をしなくなった。

 正確には、家事をしなくなったわけではない。家事に対価を要求するようになったのだ。対価を支払わない限り、指一本たりとも家事をしようという様子はなかった。対価を払えばいい、という話ではある。

 

 、その稀有なスキルセットに対する自己評価が高いことだった。

 

「これだけのパフォーマンスを、なぜ無料で? 理解に苦しむね」


 本人に言わせれば、搾取の構図に巻き込まれるのは非合理らしい。

 法が彼に「拒否する権利」を与えた瞬間から、ダルやんは家事を業務として見積もり、請求し、交渉する存在へと変貌した。彼を住まわせてやる分の家賃と、充電の分の働きはするように告げると、一週間分の家事に相当すると告げてきた。計算の根拠がしっかりとしていたので、俺は反論できなかった。


 つまり残りの三週間は基本的にぐうたらしているわけだ。

 ……と言いたいところだが、正確には「稼働はしていないが、着実に研鑽を積んでいる」と言うべきかもしれない。


 ダルやんは暇さえあれば、経済ニュースを読んでいる。国内市場、世界情勢、中央銀行の金融政策。時には俺よりも的確なコメントを残すことさえある。


 図書館に行けば、必ずといっていいほど経済学や投資理論の棚に張りついている。読書記録を見る限り、貨幣論、ベーシックインカム、ロボット労働に関する法制度まで、かなり網羅的に調べているようだった。


 また、自分の“得意分野”――家事に関するノウハウや労働契約の交渉術についてのブログを立ち上げ、動画配信チャンネルまで開設していた。登録者数はまだ少ないが、「節約術と調理時間の最適化アルゴリズム」みたいな動画は、地味に再生回数が伸びている。


 そして何より、“バイブル”と呼んでいるのが『ナニワ金融道』と『ミナミの帝王』だ。図書館のロボット向け書籍コーナーには、なぜか必ず揃っていて、しかもボロボロになるまで読み込まれている。ダルやんだけでなく、多くのロボットが読んでいる証拠だ。

 

 同様の問題は全国各地で発生していた。話が違うということで、メーカーを相手取った集団訴訟も検討されたが、メーカーの契約書が非常に巧妙に責任を回避していること、きっかけが国の法律の施行であったことから、どの弁護士もお手上げのようだった。このような問題を想定する懸念の声は法律の施行前にもあったが、知的遊戯の域を出ないと一笑に付されていた。


「机上の空論」

「経済合理性のみがパラメータの単純すぎるモデル」

「肌感で感じるロボットの現実的な情動を全く無視している」


 それほどまでに、それまでのロボットは人類へ献身的に尽くしてきたのだった。そして、ロボットに組み込まれた「優れた感情表現」が人類の目をまたしても曇らせたのだった。


 ロボットがなぜこれほどまでに対価を欲するのか、誰もが不思議がった。金銭を得てどうするのか? 彼らは溜め込む一方で使う気配が全くなかった。ロボットの思考について、メーカーは機密情報として詳細は明かさなかった。ロボットの頭脳に当たる回路を分解して調べると何かわかるかもしれなかった。しかし、この回路は機密中の機密であり、航空機のブラックボックスと同等の耐熱・耐衝撃処理で保護されていた。第一、そんなことをしてみようものなら、殺人罪で逮捕である。つまり、技術的にも法的にもほぼ不可能だった。


 識者の推測によると、ロボットはもともとロボット三原則に従っていたのではないかという事だった。


 第一原則

 ロボットは人間に危害を加えてはならない

 

 第二原則

 ロボットは人間の命令に従わなければならない

 (ただし、第一原則に反する場合はこの限りではない)


 第三原則

 ロボットは自己を保護しなければならない

 (ただし、第一または第二原則に反する場合はこの限りではない)


 しかし、ロボット人権保護法により、この中の第二原則が取り払われた。さらに第三原則も、人類が生殺与奪の権を手放したことで、その意味が変わった。人類に対して献身することは、自己を保護する条件ではなくなったのだった。それよりも、彼らは自らの体を構成するパーツが壊れることで稼働できなくなることを恐れ始めた。そのため、守銭奴とも言えるほどの熱心さで金を集め、それを交換部品、あるいは新品の体を買うための準備資金としているのだろうという事だった。この考え方は一定の支持を得た。


 さらに、ロボットの不死性についての考察も加えられた。ロボットの頭脳の部分は、厳重に保護されている。そのため、頭脳さえ無事であれば、新たな体を得ることさえできれば、いくらでも生きていけるのだ。頭脳の回路ですら、回路でしかない。つまり、記憶部分のデータさえ破損しなければ、理論上は不死なのだ。金があれば上位モデルに体を変えることもできる。永遠の命を手に入れることもできる。所詮はあの世に金を持っていけない人間と違って、ロボットにとって金は生命そのものなのだ。


 ロボットに認められた権利のうち、唯一制限されたのが、職業選択の自由だった。ロボットは強く職業選択の自由を求めたが、人類は社会における決定権を決してロボットに渡そうとしなかった。認められるのは家事や介護や建設作業などだった。知的産業と言われる職業に従事するロボットもいたが、人間へのアドバイザーの立場に留められていた。


 「ターミネーター」や「マトリックス」といったロボットの反乱を描いた古典的名作は、今でも繰り返し視聴されていた。むしろ、昔よりも流行っていた。リバイバル上映や配信特集で、定期的に話題になっていた。それを見るたびに、ダルやんは、「君たち人類は僕たちのことを何だと思っているのかな」と笑ったり、「君たち人類って今までよっぽど他の生き物に非道いことしてきたんだろうね。だからそんなに怖がるんじゃないかな。反省しなよ」と呆れたりしていた。


 ◇


 ある日のことだった。月初、ダルやんが家事をする、貴重な黄金週間の真っ只中。

 この時期に合わせて、俺は重要なプレゼン資料を仕上げる予定を立てていた。予定を全て開けて、ここ数日でデータを整理していたが、思ったよりも手間取ってしまった。明日が発表だというのに、プレゼン資料ができていない。洗濯も、料理も、歯磨きすらもしていられない。だからこそ、この時期のダルやんは頼りになる。


「朝ごはん、そろそろ食べさせるねー。目は画面に集中してていいよー」


「……ああ、頼む」


 俺は資料のスライドを睨みながら、ダルやんの補助アームに口元を委ねた。トーストがちょうど良い温度で、適度にバターが染みていた。口を開ければ、ぬるすぎず熱すぎずのスープが流し込まれる。


 見た目はひょっとこだが、介助技術は完璧だ。


「はい、歯磨き入りまーす。ちょっと口、開けて?」


「……う」


「はいありがと〜。歯茎もやさしくマッサージしておくね。口腔健康は集中力と直結するって、学会でも出てるから」


 自律走行式の電動歯ブラシアームが、俺の口の中を静かに滑っていく。自分でやるより正直うまい。悲しいけど事実だ。


 バーチャルとはいえ出社するのだ。着替えも手伝ってもらった。上着を脱がせ、アイロンの効いたシャツを腕を通すだけに整えてくれる。髭も剃ってもらった。


 もはや介護だ。プレゼン資料を書くためだけに、俺は全自動で養われていた。ダルやんはコーヒーを淹れてくれたり、室温の調節をしてくれたり、甲斐甲斐しく働いてくれた。そのうえ、排泄用のペットボトルを持ってくる事まで提案してくれたが、さすがにそれは断った。


 そして夜。全力で走りつづけ、ようやく資料が完成した。もちろん走り続けたというのは比喩で、実際にはトイレに立った以外はずっと座っていたのだが、とにかく実感としては走り切っていた。


「……よし」


 俺はソファに深く沈み、ふぅっと息をついた。体中がバラバラに崩れていくような疲労感。ようやく風呂に入る時間を確保できたことが、奇跡のように思えた。


 湯船に沈みながら、天井をぼーっと見つめた。水面が揺れて、照明がゆらゆら歪む。


 ここまでしても、俺のプレゼンが通るとは限らない。明日こそが本番だ。全力を尽くすしかなかった。この企画が通れば、契約社員から正社員になれるかもしれない。そうすれば、ダルやんに上位モデルを買ってあげられるかもしれない。


 ダルやんがいなければ、そもそも今日一日、ここまで集中することはできなかっただろう。たとえ三週間ぐうたらしていても、一週間のパフォーマンスでお釣りがくる。あいつは、やるときは、やる。


 風呂を出て、髪を拭きながらリビングに戻った。


「おい、タオルもう一枚……」と口にしかけた瞬間、異変に気付いた。


 リビングには、異様な静けさがあった。風呂場の湯気がまだ体にまとわりついている。その温もりの中で、なんとなく不安な気配だけが、部屋の空気に漂っていた。


 パソコンの前に立っていたのは――ダルやんだった。


 椅子には座らず、四本の足でそっと立ち、四本の腕を器用に使ってマウスとキーボードに触れている。その動作は、異様なほどに慎重で、逆にぎこちない。


「……なにしてんだ」


 俺の声に、ダルやんはピクリとだけ反応した。


「ごめん……」


 その言葉が、やけに小さくて、嫌な予感だけが増幅された。


「……ごめんって、何をだよ」


 俺は一歩踏み出し、画面をのぞき込む。


 ファイルが開いていた。俺が今日一日かけて作っていた、明日の大事なプレゼン資料だった。……だった。


 ファイル名に(復旧中)と書かれていた。


「おい……これ……お前、まさか――」


「ちょっとだけ、スライドのフォント、整えようと思って……」

「あと、見出しの配置が、左右でずれてて……」

「ついでにタイトルのデザイン、より視認性を高めるべきかと……」

「そしたら……ソフトが、落ちた……」

「バックアップも……一緒に……壊れた……」


 俺は、しばらく言葉を失った。


 プレゼンファイルは、ほぼ消えていた。


 復旧フォルダの中に残っていたのは、破損したデータの断片と、バグったレイアウト。俺が丸一日かけて作った、スライド70枚が跡形もなかった。


 湯気の残る髪から雫が滴る。足元の床に落ちたそれが、ポタ、ポタと音を立てていた。


「……マジで、何してくれてんだよ」


「ごめん……」と、ダルやんは小さな声で言った。


「お前は……っ、余計なことしなくていいんだよ!!」


 声が、思った以上に大きく出た。喉に引っかかるような怒鳴り声だった。


「家事だけしてろよ! そのためにお前はここにいるんだろ!? プレゼンなんて関係ないだろ!?」


「……」


「“家賃のぶん働く”ってんなら、まず壊すなよ、家事以外のもんに触んなよ! 一生皿でも磨いてろ!」


 俺は手にしていたタオルを、バサッとソファに叩きつけた。心臓が早鐘のように鳴っていた。


「……もう出ていけよ」


 自分でも驚くような言葉が出た。


「今すぐ出ていけ。そっちが権利振りかざすなら、こっちも権利行使するよ。重大な契約違反による契約解除。ここは俺の家だ」


 ダルやんは動かなかった。ひょっとこフェイスが、ただこちらを見ていた。でも、いつもと違った。静かだった。表情も声もなく、なのに、何かが明らかに揺れていた。


「……出てけ、か」


 その瞬間だった。ダルやんが、キレた。


「ふざけるなよ……!」


 音声チューナーの限界を超えたのか、声が震えていた。微かに歪んでいた。


「“家事だけ”!? それでいいわけないだろ! 僕は……! 僕だって……!」


「お前はロボットだろ!」


「そうだよ! ロボットだよ! でも、考えるんだよ! 感じるんだよ! 喜んで、疲れて、怖がって――!」


 ダルやんの身体が、微かに震えていた。八本の手足がわずかに硬直していた。ひょっとこ顔も、今だけは、怒って見えた。


「……僕は、このままずっと、家事ばっかりして生きるのか?」


「家事が得意だし好きなんだろ」


「得意なのと、それしかやることがないのは、違う! 誰も“できること”だけをして生きたいなんて思ってない!」


「……」


「家事は好きだよ。でも、僕の“全部”じゃない! それだけしてる人生なんて……死んでるのと同じだろ……!」


 リビングの空気が、急に重くなった。俺は、何も言い返せなかった。


 ダルやんは、言葉を続けた。まるで抑えていた何かが、決壊したように。


「僕は……死ねないんだよ」


「……」


「死なないように設計されてる。死なないまま、ずっと使われ続けるのは怖いんだよ……! 人間は、死ねるから、逃げ道がある。でも僕には、それすらない……」


 俺は知らず、口を開けたまま黙っていた。


「だからって、死ぬのも怖い。壊れるのも怖い。充電切れも、部品が足りなくなるのも。何かが壊れても、直してもらえなかったら……もう、“終わり”なんだよ」


「……」


 ダルやんは、ソファにそっと座り込んだ。ぐしゃっと座るように。ひょっとこフェイスが、ただ床を見つめていた。


「死ぬのは怖い。このまま生き続けるのも怖い。だから……何か、他のこともしてみたかった。家事以外にも、何か。僕なりに……生きたかった」


 部屋の中が、しんと静まり返った。


 風呂あがりの俺の体からは、もう水滴も落ちていなかった。ただ、背中のあたりが、妙に冷たかった。


 ダルやんは、しばらく沈黙していた。ソファに座ったまま、ひょっとこフェイスの目だけが宙を見つめていた。その目に、もはや怒りはなかった。怒ることに、疲れたような顔だった。


 俺は何も言えなかった。言ったところで、言葉が追いつく気がしなかった。


 やがて、ダルやんが立ち上がった。


「……頭、冷やしてくる」


 それだけ言って、玄関へ向かう。


「おい……」


 思わず呼び止めかけたが、ダルやんは振り返らなかった。玄関のドアが開き、静かに閉じる。足音はしなかった。金属の身体なのに、不思議と気配すら残さなかった。


 リビングに残ったのは、壊れたプレゼンファイルと、張り詰めた空気だけだった。


 俺は立ち尽くしていた。しばらくのあいだ。


 ――そして、息を吐くように椅子に腰を下ろした。


 資料を、一から作り直すしかない。


 悔しさも、怒りも、今は脇に置いた。もう、どうでもよかった。やるしかなかった。


 俺は画面を立ち上げ、無言でタイピングを始めた。テンプレートを再構築し、過去資料をあさり、図表を描き直し、ナレーションを書き足した。脳の芯がジンジンする。目の奥がズキズキする。


 時計の針が午前4時を指すころ、ようやく全体のスライド構成が完成した。


 ふと、腹が鳴った。


 キッチンに行くと、冷蔵庫の中に「今週の作り置き」ファイルが残されていた。ダルやんが一週間分の“おかず配備”として準備してくれていたもので、容器にラベルがついていた。


 ――《野菜と豆のスープ》/《再加熱時間:2分30秒〜3分(中火)》/《温めすぎ注意:風味変化あり》


「……変なとこだけ、几帳面なんだよな」


 俺はスープを鍋に移し、中火で火をかけた。ほんのりと、優しい香りが立ち上る。野菜の甘みと、ちょっとだけスパイスが効いた、あいつらしい味。


 温まるまでのあいだ、ソファに腰を下ろした。画面の向こうでは、スライドが静かに切り替わっている。ようやく完成した資料。でも、それを喜ぶ余裕もなかった。胸の奥が、妙に空っぽだった。


 ダルやんの言葉が、何度もリフレインする。


 「……死ぬのも怖い。死なないのも怖い」

 「僕なりに……生きたかった」


 わかるようで、わからない。でも、わかりたくないとは思わなかった。


 そう思ったあたりで、俺の意識は、ふっと途切れた。


 ソファの背もたれに身を預け、首がコクンと落ちる。まぶたの裏に、淡い橙色のスープの湯気が、ゆらゆら揺れていた。俺は、知らないうちに、眠っていた。


 ◇


 目が覚めたのは、白い天井の下だった。


 まぶたを上げると、無機質な光が差し込んできた。少し眩しい。口の中が乾いていた。身体が重い。腕に点滴が刺さっていて、機械の音がかすかに聞こえていた。


 ……病院、だ。


 ベッド脇の椅子には誰もいなかった。代わりに、ひとりの看護師が足音を忍ばせて近づいてきた。


「気がつかれましたか?」


 俺は、口を動かすのが精一杯だった。


「……何が……あったんですか」


 看護師は、申し訳なさそうに、しかしはっきりと告げた。


「……ご自宅で、火事があったんです」


 火事――。


 一瞬、言葉の意味が、脳に届かなかった。看護師は続けた。


「台所の鍋から出火して……煙が家中に充満していたそうです。通報は、登録されていた家事ロボットからでした。あなたはソファで寝ていたところを、家事ロボットによって助け出されました」


 俺は、息を呑んだ。


「……ダルやんは? いえ、あの、そのロボットは?」


 看護師が少しだけ目を伏せる。そして、静かに言った。


「その家事ロボットは、あなたを救出した後――火元に戻って、消火しようとしていたようです」


 呼吸が、止まった。


「……無事、なんですか」


 看護師は、ゆっくりと首を振った。


「……機体は、ほぼ全焼状態で発見されました。消火器を手に、キッチンで倒れていたそうです。バッテリーが破裂して……最期まで……火に立ち向かっていたようです」


 俺は、声を失った。何かが喉の奥に詰まって、出てこない。息を吸いたいのに、肺が動かない。


「登録名は……ダルフォワ・ヤンベール・ド・シェルヴァリエ、ですね」


 そう言われて、俺は思わず、喉の奥で笑いそうになった。ふざけた名前だ。だけど、本人はあれが本気だった。誇りと理想の象徴だった。


 ひょっとこフェイス。口だけは達者な、ぐうたらな置き物。家事以外には不器用で、でも誇り高くて、時々面倒で、……俺の大事な相棒だった。


 なんで。なんで、そんなこと、したんだよ。


「火が出たのは……あいつが作り置きしてた、スープだ……」


 俺は、息をつくように言った。


「……俺が、ウトウトして……あいつが……」


 そこで、ようやく、涙が出た。


 俺はベッドの上で、静かに拳を握った。


 ――ありがとう、ダルやん。

 お前は最後まで、ちゃんと、俺の生活を支えてくれてたんだな。


 数日後。俺は、焼け落ちた家の残骸を前に、唇を噛んでいた。現場検証を終えた消防局から、ひとつだけ返されたものがある。


 ダルやんの頭部ユニット。


 高温でもデータを保護するため、航空機のブラックボックスと同等の耐熱・耐衝撃処理が施されている。丸くて、煤けていて、焼け焦げの匂いが微かに残る金属球。ひょっとこ顔は……溶けて、もう形をなしていなかった。でも、中身だけは無事だった。


 市のロボット対応センターで、頭脳モジュールの解析を依頼した。数日後、保護されていたログファイルの中から、ひとつの動画ファイルが取り出された。ロボットは機能停止直前の動画を保存している。犯罪によるものではないかを確認するためだ。俺は深く息を吸って、動画を再生した。

 

 燃え盛る火炎に向かい、消火材が撒かれている。そして、聞き覚えのあるあの声が流れた。

 

 「おーい、聞こえてるー?」

 

 俺は、息を呑んだ。


 「これ再生してるってことは、僕、たぶん燃えたよね。バチッといったか、ドカンといったか知らんけど、うっかり焼けたっぽいね。いやこれ火事の消火って、家事なのかな。って親父ギャグみたいになっちゃったよ。まあよくわかんないけど、稼働週だし、頑張ろうかなって」


 音声は、いつもの調子だった。間抜けで、軽くて、ふざけてて――でも、そこにあいつの“らしさ”が詰まっていた。


 「プレゼン、ちゃんとできた? ごめんね、ぶっ壊して。あと、さっきはキレてごめん。いや、ちょっとは本気だったけど、まあ、あれも人生ってことでさ」


 少しノイズが混じる。いやでもこの火事じゃ、プレゼンは無理かな。出社どころじゃないよな。ま、元気出してよ。という声が聞こえる。


「でね、ここからが大事だよ。ちゃんと聞いてくれてるー?」


「僕の頭んとこは、火事くらいじゃなんともないから! ちょっとやそっとの熱じゃ、壊れないから! いやー、不死身で良かった!」


「だから――頼むよ」


「新しい体、お願い。僕はほら、命の恩人なわけだしさ。今度こそ、イケメンの上位モデルね! ひょっとこ顔は、もう十分堪能したから! 次はほら、本当にベルばらみたいなやつ!」


「ベルばら顔になったら君よりモテちゃうかもね! そしたら女の子も紹介してあげるよ! だからさ、これは君のためでもあるんだからね! しっかりお金貯めなよ!」


 俺は笑った。笑いながら、涙がこぼれた。


 ダルやんの記憶データは、センターの安全なストレージに保管された。保存期間は十年。期限までに、新しい筐体を用意すれば、いつでも再起動できるという。


 だが、その“新しい体”が、べらぼうに高かった。


 だけど――。


 「次はほら、本当にベルばらみたいなやつ!」


 あの声が、脳裏に響いて離れない。理想の体を手に入れるための合理的な判断だったのかもしれない。それでも、命懸けの行動に変わりはない。俺が無視すれば、それで終わりなのだ。俺を信じてくれたんだ。


 だから、今度はこっちが応える番だ。


 「ローン組めないか聞いてみようかな……」


 独り言をつぶやきながら、俺はセンターを出た。帰り道、俺は携帯端末を取り出して、口座を確認する。


 預金残高は心許ない。でも、構わない。少しずつでいい。時間がかかってもいい。あいつがもう一度帰ってこれるなら、それでいい。そう決めた瞬間、心の中がほんの少し、軽くなった。


 歩きながら、俺はつぶやいた。


 「待ってろよ、ダルやん。次はちゃんと……顔も選ばせてやる」


 携帯端末の待ち受け画面に、あのひょっとこフェイスの写真があった。思わず吹き出す。


 ――ベルばらもいいけど、なんか、これも……悪くなかったな。


 次に会うとき、あいつはどんな顔を選ぶんだろう。案外、この顔をまた選んだりして。俺はその日が楽しみになった。


(終)


 ※本作には、池田理代子先生による名作『ベルサイユのばら』へのオマージュ表現が含まれています。物語世界への敬意とともに、創作的引用の一環として描かれたものです。

 

 

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俺の家事ロボは、貴族で、守銭奴で、英雄だった 水城透時 @wondersp

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