春夢

メランコリック

春夢

 人と喧嘩する勇気がないから自分を殴って、そうすると殴ってきた自分のことが嫌いになるからまた自分を殴って。そういうことを繰り返す内、青空と海、自己と他者といった、境界や区別は曖昧になってゆきました。

 分別は髪の毛の如く容易に切り落とされてゆきます。玄関の敷居をまたがないままに社会的活動を行った気になり、鏡を見かけては先生や上司に相対するかの如くへつらう様になった頃、親族の者が呆れ顔で を引っ張ってゆき療養という運びになりました。

  が廃人の烙印を押されているという実感は厳然と存在しているのですが、過程の方は一つの枝に桜と紅葉が同居をしているといった具合の曖昧さであります。校舎だの会社だので、面前でヘラヘラとしては書類に頭を打ちつけて落涙し。丸い一つの自己を少しずつ切り取って、誰かに差し出している内にとうとう、といった風なのでした。

 しかし、まぁ胎内の様な小部屋で喜怒哀楽のトラウマを回想してみたってしようがないのです。いまや、 の分別は壊れてしまっているのですから。過去現在の濁流があらゆるところから流れ込み泳ぎきれそうにもないのですから。

 そのようにして、面積としては狭くとも存外足の踏み場はある「世間」で数日だか数十年だか過ごし、流石に陽を見上げた時のフワフワとした眩みが恋しくなりました。

 私は家の者と顔を合わせた時の第一声を口の中で練習しつつ、おっかなびっくり自室を這い出てリビングへ向かったのですが皆留守のようでした。とうとう私を見限り出ていってしまったのしれませんがそれはそれで気楽でもありました。なんといっても家の者は、私の各種の不始末の後処理に散々苦労していたからです。極めて自分本位ではありますが、その様子を芋虫の立ち位置から察するのは耐えきれるものではありませんでした。また更に悪辣な内心を吐露すると、家の者を見る度に私は自らの性質に通っている血を呪わざるを得ず、一切を流血しきりたい衝動に襲われるのも苦悩の種でありました。ですので、もし絶縁という形になったのならありがたいことだと不謹慎にも思っておりました。

 顔を洗おうと洗面所へ向かい鏡を見つめると、異常なことに、私にとっては奇天烈なことに、だらしのない想像通りの私が映っておりました。自らの顔を抓ったり引っ張ったりしてみると、あまり質の良くないパーツ(元より)がグネグネと動き、私はほんの少し正気に対しての自信が戻ってきたことを感じました。

 仕度を終えて、玄関の扉のガチャという景気の良い音を聴き境界の外へと足を踏み出しました。私は先程ほんの少し取り戻した自信を返上せざるを得ませんでした。自宅以外のあらゆる物は瓦礫と化し、人の呼気感ずるところもなく、呆然と果てしない道のみが広がっていたからです。おまけに、時計を参考にすると今の時間、陽は玄関を出て左手にあるはずなのですが右手の方で晴れやかに輝いております(もっとも極度の方向音痴ではありますが)。

 私は整合のとれぬ現状に、まずもって自身の分別を疑いましたが恐らく、元来狂ってはいるもののそれでも正常の範囲のようでした。私は私で物理的には皮膚までであると認識出来ておりますから。

 それならばいよいよ認識している異常が現実である訳ではありますが、まぁそれはそれで良いとも思いました。責任に対する催促の電話も、人と人とが相対する互いの気まずさも感じずに済むからです。

 そのようなことを思考しつつ私は以前みっともないと評された当てのない歩行を続けてゆきました。まだ太陽の位置にさして変化のないばかりの時間で海に出ました。海は真っ赤に染まっておりました。プランクトンによる赤潮というのは存じているのですが、それよりもより濃く直感的に何かしら定義したくなるようなものでしたので、流血であろうと独り合点しました。七つの海は血で埋め尽くされてしまったのかもしれません。

 しばらく、血の海を眺めていると、いつだったかの異性の知人を思い出しました。その人もやはり生き死にがまるっきり逆転しているような人でしたが、言っておりました。流血で涜しきって自殺すると。私はなんとなく現実の不都合と不整合に理解を示した気になりました。

 

 道の遠い所に桜が咲いております。咲き誇るだけでも美しく、散ってゆく花びら一枚神経質に認識しようものなら狂ってしまうかもしれません。神経質さを神経質に注意して春の境界を探っております。 

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春夢 メランコリック @suicide232

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