第3話 またね
珍しく朝早くからパチッと目が覚めた。
いつもならぐうたら二度寝を決め込んだり、まどろみながらゴロゴロしているような時間だ。
いつもより薄暗い部屋の中や天井を、いつもより低い位置からしばらく眺めた。
静かで落ち着いた寝息が聞こえてくる。なんだか新鮮だな。
どうやらユキはまだ眠っているらしい。
起こさないようそっと部屋の中を歩いていると、ロボットたちがロボット専用の部屋で出勤準備をしていた。準備といっても、バッテリーの確認やスケジュールのチェック、システムのセルフメンテナンスをするくらいで、必要な道具はすべて職場で揃うから持ち物は特にない。
そっか、今日は朝からお仕事なんだ、この子たち。
私がロボットたちにしなければならないのは、せいぜい機体のメンテナンスくらいだ。それはだいたい帰宅時に済ませているので、出かける時は何もしなくて済むようにやりくりしている。
ドローン、配膳ロボット、掃除ロボットが列をなして玄関の方へ進んでいく。
ブレーメンへ行こう。
思わず口ずさみそうになる、可愛らしいほのぼのした光景に頬が緩む。ロボットって本当に可愛い。
「いってらっしゃい」
ロボットたちは私の言葉に「イッテキマス」と返し、ランプをチカチカさせて出かけていった。本当に可愛くてたまらない。
ふと、今の声や音でユキが目を覚ましてしまうのではないかと心配になり、ベッドの方へ視線を向けた。
疲れが溜まっていたのか、彼女はぐっすり眠っていて起きる気配もない。
起こさずに済んで良かった。
ほっと胸を撫で下ろしていると、二度寝したくなった。でも、なんだかそわそわして落ち着けなかった。
いつもなら来客があってもすぐに追い返し、二度とここへ来られないようにしてきたから、慣れていないのだろう。
今まで出会った人たちとの嫌な出来事が頭に浮かんだが、なんとか押し流してそっと耳に手を当てた。
温かかった。
胸の奥がじんわりと温かくなってくる。
多分、それだけじゃない。
思い返すと顔が熱くなる。初めてだった。こんなに無邪気で無垢に接してもらえて、優しくされたのは。
それに、本を読んだり土いじりをしたり、ロボットと暮らすだけでは知らないことをユキは教えてくれた。嫌味や意地悪な言い方ではなく、思いやりを込めた優しい口調で。おまけに、なんだか可愛らしかった。
胸がぎゅっと締め付けられる。
このまま一緒に暮らせたら、きっと楽しくて幸せだろう。でも、それで本当にいいのだろうか?
遠い昔の記憶が頭に浮かび、躊躇する自分がいた。また同じことが起きるのが怖い。
また置いていかれたら、また捨てられたら。
「ユキなら大丈夫」と頭に浮かんだが、急いでかき消した。それは自分勝手に相手に押し付ける期待だ。思い込みだ。重荷で、勝手なイメージの押し付けだ。
なるようになる。ここを出たいと言ったら送り出せばいい。ただ、他の人たちと同じように処理をする。ここのことを話されないように、二度と来られないようにするつもりだけど。
でも、ユキにはそんなことしなくていい。その言葉だけは頭から消えなかった。
また遊びに来てほしいと思える子だったから……だろうか。
布団に潜り込んで、ぼーっと天井を眺める。
別の意味で寝付けなくなった。
浮かれていたのに、急にずーんと沈んでいく。
ユキはこれからどうしたいと言うのだろう。
先のことばかり考えてしまう中、ベッドで起き上がる気配がした。
「……おはよう?」
起きたのかわからなかったので、静かに、尋ねるように挨拶してみた。
ユキは寝起きの眠たそうな声で「おはよう」と返してくれた。
可愛いなあ。
心の底からじんわりと温かくなってくる。ずっとこんな気持ちでいられたら、どれほど幸せだろう。
顔には出さないようにして、その温かな幸せをかみしめた。
「本当に泊まって良かったのかな? ベッドまで借りちゃって……」
泊まったことやベッドを借りたことをすごく気にしていた。
「よく眠れたなら……」
それで十分嬉しいんだけどな。
後半は言葉にしなかった。照れ臭かったし、気に障る言葉だったらどうしようという疑問が浮かんで、やめた方がいいかなと思い直したからだ。
ユキはとても嬉しそうに、でも申し訳なさそうにお礼を言ってくれた。
どうすれば、そんなに遠慮させたり気を遣わせたりせずに済むだろう? そもそも、なぜそんなに気を遣うのだろう?
今まで見てきた人間は図々しかった。とても不快なほどに。遠慮のかけらもなく距離感も近く、良い人かと思えばロボットや食料、人の財産を盗もうとしたり欲しがったりする人がほとんどだった。油断も隙もなく、狡猾で残忍な発想を持つ、関わりたくないような人ばかりだった。
だからなのか、こんなに遠慮されると逆に気になってしまった。
なぜだろう?
まず、その理由がとても気になった。次に、どんな育ち方をしてきたのかが気になり、その次に、私が何か気を遣わせるような雰囲気や態度を取っているのかが気になった。
気になる。
いや、気になるというより……もっとあなたを知りたい。今まで見てきたどんな人とも違うあなたを、もっと知りたくてたまらなくなった。
でも、どうやって人のことを知っていくのか、私にはさっぱりわからなかった。
考え込んでいると、ユキがまた窓の外を見ていることに気づいた。
そうだ、なぜここに迷い込んだのか聞いてみればいいのでは?
「そういえば、どうしてこんな秘境に?」
ここは山の中にある私有地だ。山自体が私の財産で、周辺には立ち入り禁止の看板が立ててあり、ロープでわかりやすく囲ってある。
ロボットたちは専用の道を通って下山しているから、普通に入ってくるなら登山以外に道はない。
だからだろうか。ならず者みたいな輩が迷い込んでくることが多いのは。
まさか、こんな雰囲気と性格と接し方なのに、もしかしてユキも?
心が少し曇りながらも尋ねてみると、ユキは困ったような顔で笑い、両目をぎゅっと閉じて手を合わせて謝ってきた。
「ごめんなさい。立ち入り禁止って見えてたんだけど、ちょっと色々あって……」
その後は「どう話したらいいか」と、本当に困った様子で考え込んでいた。
この反応も今まで見てきた人と違うけど、なぜ考え込んでいるのだろう。
疑り深くて警戒心の強い自分が心底嫌だった。本当ならこんなに疑わず、「ゆっくり説明してくれればいいよ」とか優しい言葉をかけたいのに。お茶でも飲みながら「ゆっくりどうぞ」って。
そうだ、寝起きでこんなに質問されても困るよな。
「お茶出すよ」
ユキは少し驚きながら「悪いからいいよ」と遠慮していた。
遠慮の塊め。
断られたけど、じゃんけんを持ちかけたら乗ってくれて、お茶を出す権利を勝ち取った。
ユキは不服そうに抗議してきたけど、勝ちは勝ちだから言うことを聞いてもらうことに。
今回の様子を見ると、そのうちじゃんけんすら断られそうだから、対策を考えとかないとな。いや、そのうちどころか、次からは乗ってくれないだろう。
そんなことを考えながらお茶を出すと、遠慮していたユキも少しずつ飲んでくれた。
少し落ち着いたのか、どこから話すか目途が立ったのか、ユキはゆっくり話し始めた。
「実は助けたい人がいて、一人で頑張ってたら追われることになっちゃって……」
その後、ユキが一瞬無表情になり一点を見つめていたのを見逃さなかった。
辛い思いをしたんだな。
なんとなくそう思わせる表情だったけど、すぐにまた笑みを浮かべて続きを話した。
「空回りしちゃった! 立ち入り禁止って書いてあったけど、この先なら追いかけられないかなって思って」
それでボロボロになりながらここまで登ってきたのか。
色々と納得のいく話だった。
「それで、差し支えなければそのトラブルってのは?」
聞いてみると、いじめられている子をかばおうとしたらしい。
かばおうとしたけど、多勢に無勢で、いじめられている子も意気消沈してどうしようもない状態だった。
ユキはいじめていた人たちから「死ね」と言われ、責任を取れと言われたけど、ここまで必死に逃げてきたそうだ。
黙って聞きながら、「立ち向かうだけじゃなく、時には逃げることも大事だからそれで良かった」と肯定しながら頷いて相槌を打った。
生き延びてくれて本当に嬉しい。
口には出さなかったけど、心からそう思った。
知り合ったばかりだけど、人が命を落とすところなんて見たくないし、知りたくもない。無事に逃げ延びて生きていてくれるほど嬉しいことはないだろう。
「生きててくれて本当に良かった」と口にする代わりに、「もしここに魔法の鏡があって、この世で一番美しい人は誰かと尋ねたら、きっとあなたのことを映すでしょう」と言ってしまっていた。
逆だ!
口にしたかったことと、心に留めておきたかったことが逆に出てきてしまい、思わずお茶を持ってきたときのお盆で勢いよく顔を隠そうとしたら、そのまま顔を叩いてしまった。
恥ずかしすぎる。
ガツンというものすごい音が響き、ユキは笑うどころか心配して声をかけてくれた。
「えっ!? 大丈夫!?」
まだ人の社会に紛れて生きていた頃、照れ隠しや何やらで勢いよくおかしなことをすると、よく笑われたものだ。
でもユキは笑ったりせず、心底心配そうにしてくれた。
恥ずかしい……けど、少しだけ嬉しかった。
人に笑ってもらうのは嬉しいけど、馬鹿にされるのは嫌だった。
真剣に心配してもらえたことなんてあまりなくて、どう反応していいか困ってしまったけど、この人の性格や今までの態度から、大切に思ってくれている気がして、心の底が少し温かくなった。
心配されることを喜んでいたら、心配ばかりかける人間になってしまう!
自分に鞭を打ち、心配してもらえて嬉しい気持ちに蓋をした。
ただ、この人の綺麗な心に惹かれ、尊敬し、歩み寄りたいという気持ちにだけは蓋をしなかった。
……好きだ。
鼻と額を特に強く打ったのでジンジンと痛み、目が潤んできたけど、不思議とそこまで痛みを感じなかった。
痛いけど、痛くない。
体が痛みを訴えるのに反して、心の中では小さな春を見つけて踊っているような心地だった。
自然と歌でも歌いたくなるような、心がひとりでに踊り出す素敵な気持ち。
もしかしたら表情に出ているかもしれない。顔がお盆で打った以外の理由で真っ赤になっているだろう。
そんな理由からお盆で顔を隠していると、ユキがとても心配そうにしているので、目元までお盆を下げながら「大丈夫」とだけ口にした。
目元まで下げたはいいが、ユキの方を全く見られなくなった。
ユキは何かをしようと真剣に心配しながら聞いてくれたけど、私にはこういう時どうしたらいいか全くわからなかった!
気まずい。どうしたらいいんだろう。笑われたことしかなかったのに、こんなに真剣に心配してくれて……。
心底困ってしまった。
そ、そうだ。名前の話に持っていこう。
「そういえば、私やロボット、精霊たちの名前を考えてくれるって言ってたけど」
目を伏せ、ユキの方を見ないまま話題を振ってしまった。
失礼なのはわかっている。でも、どうしても見られない。目を伏せたまましか喋れなかった。
聞いてから少し照れくさくなってくるのがわかった。話題が自分に移ってしまって、照れくさすぎて死ぬかもしれない。
自滅した!
顔がどんどん熱くなってくる。
「でも……名前より、本当に大丈夫だった? ものすごい音だったよ? お盆を外さないのって血が出てるからじゃないの?」
ユキが真剣な顔で顔を覗き込もうとしてくるから、思わずお盆をつけたまま顔を逸らしてしまった。
嫌だったわけじゃないんだよ!? あまりに照れくさくて……。
とても真剣に心配そうな顔でこちらを見ているのが、見ていなくてもわかった。
恥ずかしくなりながら一生懸命表情を取り繕い、お盆をゆっくり下ろしていく。
顔から血が出ていないこと、腫れたり変な方向に曲がっていないことを確認して安心したのか、ユキの表情が少し緩み、いつもの笑みを浮かべていた。
「怪我してなくて良かった。心配したよ」
くっ、殺せ。
笑顔が本当に優しくて穏やかで……天使みたい。
すぐ目を伏せてしまうほど直視できない眩しさをたたえた笑みに、心臓が握り潰される寸前かと思うほど激しく脈打っている。
お日様みたいだ。
ユキについてあれこれ考えているうちに、ユキがまた少し真剣な顔を浮かべたかと思えば、「鏡とかどう?」と提案してくれた。
ん? なんで鏡?
戸惑っていると、ユキは優しい笑顔のままこう言った。
「昨日、リンゴとか名前の候補をいろいろ挙げたと思うんだけど、今日はあなたが鏡の話をしたでしょ。私はユキって名前だから……白雪姫みたいでいいんじゃないかなって。自分で白雪姫の話をするのは変っていうか、ちょっとあれだけど。リンゴだとウチがあなたに殺されることになっちゃうから、それならカガミの方がいいかなって。カガミは白雪姫のことを選んでたわけだし」
ユキはそう言ってはにかんでくれた。
眩しすぎて見られないほど素敵な笑みで、目の奥がズキズキするくらい見つめてしまった。
「嬉しい。そういう風に物を見られて、そういう風に言ってもらえるのがすごく嬉しい。カガミか」
今日から私は鏡のカガミだ!
名前をもらえた嬉しさに舞い上がりながらも、ユキは童話が好きなのか気になった。いや、もしかして白雪姫が好きなのかな?
「もしかして、童話が好きなの? それとも白雪姫が好きなの?」
聞くか悩んだが、もっとユキを知りたくて聞いてみることにした。
心にかかっていた鍵が外れ、ゆっくり扉が開いていくような不思議な気持ちに包まれながら、聞きたいことが次々と口から溢れ、止めるのが難しかった。
「うーん。白雪姫が好きというより、童話が好きなのかも。桃太郎とかも好きかな」
「そうなんだ。実はいろんな本があるよ。童話も揃えてて」
ユキを手招きし、書斎に案内した。
記憶にはないけど、家族と暮らしていた頃によく読み聞かせてもらったらしい童話の絵本や、一人で暮らすようになってから読んだ本。
ほとんどが物語の本だけど、図鑑もあるし、とにかくいろんな本を揃えてある。
「わあ、すごいね」
ユキが嬉しそうな顔でそう言っているのを見るのが、なんだかとても嬉しくてたまらなかった。
「ユキさんは本をたくさん読んだりするの?」
童話以外に好きな本があるなら聞いてみたいな。
そんなつもりで質問したけど、ユキは一瞬表情が消えて暗い目をしたかと思えば、また笑みを浮かべてこう言った。
「実はそんなに読まないんだよね。童話なら小さい頃たくさん読んだけどさ。うち貧乏だから……帰らないと親も心配すると思うし、帰ろうかな」
胸が少しチクリとした。
一瞬見せた表情もそうだけど、帰らないでほしいと思った。それに、追われていて「死ね」と言われ、下手すると殺される可能性もあるのに、家に帰ろうとする発想が私にはわからなかった。
「帰ると殺されるかもしれないのに?」
言うべきじゃないと思ったけど、口をついて出てしまった。
人の意思決定に口を出すなんて、やるべきじゃないのに。
言ってから少し後悔したが、ユキは「そこなんだよな~」と困った顔をした。
「でも、帰らないとみんな心配すると思う」
「みんなって、どのみんな?」
命より大事なものなんてあるもんか。
少しムキになりながら、「心配するみんなって誰のこと?」と問い詰めそうになるのを抑え、なるべく普通の口調で聞いてみると、ユキはグー状にした手を目の前に持ってきて、「お母さんに、お父さん、お兄ちゃんに、学校の友達……」と言いながら指を一本ずつ立てて数えた。数え終わると、「大事な家族に心配をかけるべきじゃない」と、また優しい笑みを浮かべていた。
家族ってそんなにいいものなの? 待ち伏せされてたら殺されるかもしれないのに、危険を冒してまで帰りたくなる場所なの?
私にはさっぱりわからなかった。わからなくて、でも、どう聞くべきか考えてしまって……。
でも、一つだけ言えることがあった。
「命より大事なものはないよ」
これ以上なんて言えばいいかわからなかった。
私には家族がわからない。だから否定も肯定もできない。
ただ、死ぬかもしれない危険を冒してほしくなかった。
ユキは寂しそうな笑みを浮かべながら、「そうだね」と頷いてくれた。
何か他に手はないかな……。
命が大切なのは言うまでもないけど、それ以上に一緒にいたいという本音があった。
自分の欲のために相手の自由な選択を奪うなんて、あっていいものだろうか?
もっと一緒にいたい。ずっと一緒にいたい。行かないでほしい。
どれも口に出さなかった。ユキのことが好きでたまらなかったから、相手の意思を尊重すべきだと思って言えなかった。
わがままで自分勝手な気持ちだ……。
ただ、どうか死なないでほしいと、無事に家に帰らせる方法を考える自分がいた。
ユキが無事に帰れて、命の危険にさらされずいつも通りの生活を送れるようにする手段はないだろうか。
一番手っ取り早いのは、ユキを脅していじめている奴らを消すことだけど、命を大事にする私のポリシーに反する。
では、どうすべきか……。
しばらく考えて行き着いたのは、追いかけてくる奴らに、山に不法侵入した輩と同じ処理を施すことだった。
「一ついい考えがあるんだけど……」
ユキは不思議そうにしながらも、優しい表情を崩さずこちらを見た。
この優しい笑みを守りたい。
「私のことを嫌いになるかもしれないし、手荒な真似だと非難するかもしれないけど……追いかけてきてる奴らの記憶を消したら、無事に帰れるかな?」
ユキは一瞬驚いた顔をした後、「あはは」と笑ってくれた。
「魔法みたいだね! 水の精がいるんだから魔法もあるってこと?」
魔法なんて信じられないから笑われて当然だ。でもここはファンタジーの世界。だからこそ、子供に夢を持たせるときみたいに、信じてもらえない前提で、「そうだよー。魔法はあるんだ。チチンプイ!ってやったらあら不思議!ってね」と、少し茶化す感じで話した。
ユキはまた少し寂しそうな顔で、「本当にあったらいいなあ」とつぶやいていた。
本当に魔法があると言ったら、本当に使えると見せたら、ユキはどんな反応をするんだろう?
気になったけど、冗談で物語として終わらせておこうと思った。
「山の下までロボットたちの通勤経路を使わせてあげるよ。そしたら安全に帰れるからね」
ユキは嬉しそうな顔をしてから、「迷惑じゃないなら……」と言って、送らせてくれることになった。
大事な命だからね。
命に優劣や価値の違いを悪い意味で感じられなかったけど、ユキが特別大事に思えてきてしまい、「命に価値の違いはない」と自分に言い聞かせるために頭を振った。
だったら処理を……記憶を消さないといけない。
でも、そうしたくなかった。それとこれは別の問題だ。
命の価値は平等だけど、特別大事な人が存在するんだ。
不公平は良くないと思ったけど、ユキは私の特別な存在になった。
うまく言葉にできない何かに見舞われながら、ユキを送る前に魔法を使うことにした。
「忘れ物がないように、ここで待っててね」
ユキは笑顔で頷いたけど、服のことを慌てて言い出したので、私も大慌てだった。
「あっ! 忘れてた」
うっかりやらかしてしまい、頭の後ろに手を回して「あはは」と笑っていると、ユキも一緒になって大笑いしてくれた。
実は服をロボットに託していたんだけど、洗濯も乾燥もきちんと終わり、綺麗に畳んでくれていた。
ユキのところへ戻る時に持っていけばいいね。
確認を終えてから外に出て、太陽に祈りを捧げた。魔法の祈りだ。
ユキが無事に帰れるように、追いかけている人たちからユキやいじめられている子に関する記憶が消えるように祈った。
太陽が輝きを増す。多分、聞き届けてくれたんだな。
よし、ユキのところへ戻ろう。うまくいったかわからないから、家まで私がそばについていけばきっと大丈夫……。
護衛用の小さなロボットを日傘の持ち手に擬態させ、ユキのところへ服を持って戻った。
「今着てる服はあげるからね」
ユキはまた遠慮したけど、「着替えてる間に親御さんがますます心配しちゃうよ」と汚いやり方で遠慮をやめさせた。
我ながら嫌なやり方をしたな。
心の中でモヤっとしたものが渦巻いたけど、ユキは「悔しい」と口にしながら笑顔を向けてくれた。
本当に天使みたいだ。見たことないけど。
ユキを連れて、山にある小さなエレベーターを紹介した。
「ここから山の麓にある小屋まで行けるんだ。小屋のドアはロボットについているチップがないと開閉できないようにしてある」
ユキは目を輝かせながらエレベーターに乗り、「ウチに教えても大丈夫だったの?」と心配そうに聞いてきた。
その質問に思わず笑ってしまった。
「ふふっ」
あなたがどれだけ善良な人間か……。
口には出さなかったけど、ユキへの褒め言葉ばかりが頭に浮かんでぐるぐる回った。いっそ送るまでの間に褒めちぎりたいくらい、言葉が溢れてパンクしそうだった。
私が笑っただけで何も言わないから、ユキは「何で笑ったの!?」と言っていたけど、「ひーみーつ」とはぐらかすしかできなかった。
言ってるこっちが照れくさくて死にそうなくらい、ユキには良いところしかなかった。遠慮しすぎて自己卑下するところ以外は。
エレベーターは最初は下に、途中から斜めに進み、いったん止まってからまた上に向かって移動し、小屋に到着した。
小屋から外に出て周りを確認したが、誰もウロついていないのでひとまず安心だ。
「ユキさん、ここから家までの道はわかる?」
ユキは周りを見て目印を探していたようだったが、残念そうに首を振った。
「ウチ、頭悪いから……」
自己卑下しそうになっているのを見て、肩を数回ポンポンと優しく叩き、手を置いて人差し指を頬に向けた。
ユキがこちらに顔を向けた瞬間、人差し指で頬をつく形になり、ユキは顔を赤く染めながら笑ってくれた。
「こ、こらーっ!」
私も一緒になって笑っていると、ユキは少し照れながらも、怒ってる言葉だけど楽しそうな口調で反応してくれた。
「えへへ」
えへへなんて笑い方、ずっとしたことなかったな。それこそ、覚えのない幼少期にしかしたことがないと思う。
「今度から自己卑下したらイタズラするからね」
言ってて照れくさくなったけど、ユキはそれを聞いて顔を逸らした後、またいつものように笑ってくれた。
「ありがとう、かがみん。あ、かがみんっていうのは、鏡って呼ぶより砕けてて可愛く呼べるかなって思って。馴れ馴れしかったかな?」
「気にしすぎだよ。かがみん、良いね」
ユキの言い訳が可愛くて自然と笑ってしまった。
愛しい私の宝……。
自己卑下も阻止できたし、木に道を尋ねてみることにした。
ユキを見かけた木がどこかにあるはずなので、目の前の木に語りかけ、他の木にバケツリレーのように伝言を飛ばしてもらった。
森が少しだけ騒がしくなる。
海辺で波が満ち引くように、木々のざわめきがざあーっと広がり、音がこちらに返ってきた。
ユキを見たことのある木々は、ここから影と逆の方向、太陽の向きにあると教えてくれた。
「ユキさんが来た道がわかったよ」
ユキはやはり申し訳なさそうにしながらお礼を言った。
誰だって、見知らぬ土地で見知らぬ景色から家までの道を聞かれても答えられないだろうに……。
ユキが「ごめんねー」と申し訳なさそうに言うたびに、何とも言えない気持ちになってしまう。
そんなに歩かないうちに、ユキが見覚えのある場所にたどり着けた。
「ここからならわかるよー。ありがとうね。もう大丈夫だから」
そう言って一人で帰ろうとするユキを引き留めた。
「念のために送るよ」
ユキはまた遠慮の塊で、大丈夫だと言って聞かなかったけど、「一人でいるときに追いかけてた人たちと出くわしたらどうするの?」と聞いてみたら黙って答えられなかったので、そのまま同行させてもらえることになった。
「悔しいー」
悔しがる様子もすごく可愛かった。思わず頬をつつきたくなるくらい可愛い。つつかないけど。
家に送るまでの間、ユキは自分が読んでいる漫画について、「興味あるかわからないけど……」という前置きで教えてくれた。
どんな作品なのか、どういうところが好きなのか、どんなキャラクターがいて、どのキャラクターが好きなのか……。
たくさん、たくさん話しているうちに、あっという間に家に着いてしまった。集合住宅だった。
もうお別れなんだね。
ここまでの道で、ユキを追い回していた人なんていないんじゃないかと思うほど何事もなく帰ってこれた。
ユキのことを忘れてくれたのか、運よく鉢合わせしなかっただけなのか……。
そうだ、連絡先を交換してもらえるだろうか。
もしまた何かあったら助けになりたい。
「あの」
「あの」
話しかけようとすると、ユキと言葉が被った。
「どうぞ」
「いや、どうぞ!」
お互い譲り合いが発生し、一緒に笑ってから、今度は大人しく譲られた。
いつもじゃんけんや言いくるめで思い通りにしてきたから、今度は私が折れる番だと言われてしまい、反論できなかったからだ。
「じゃあ、ありがたく……。ユキさんの連絡先を教えてもらっても?」
ユキは笑顔でスマートフォンを取り出した。
良かった。私も持ってるやつだ。
山で引きこもりながらも設備を整えてきたけど、いつの間にか見知らぬ機材が主流になってないか少し心配だった。
お互い連絡先を交換し、また会えることを願った。
「またね。ここまで送ってくれて、本当にどうお礼を言えばいいか」
「気にしすぎ。またね。何かあったら遠慮しないで相談してね。命ほど大切なものはないよ。私とのことはみんなに秘密にしてほしい。それに……」
言うか躊躇ったけど、ユキがあまりに自己卑下するから心配で、勇気を出して言うことにした。
「今まで何人も山に迷い込んできたけど、他のどんな誰とも違って、ユキさんは特別素敵な人だったよ。たった一人と言っていいくらい」
言ってると照れくさくて顔から火が出そうだったけど、ユキも照れくさそうにしながら小さい声で「ありがとう」と言って、建物の中へ走っていってしまった。
家に帰るまでの間、少しぼんやりしながら歩いていた。
ほんの少ししか一緒にいられなかったけど、ユキと過ごした時間はかけがえなくて、温かくて、思い返すだけで幸せな気持ちになれた。
家に着くと、ロボットたちと鉢合わせし、一緒にお風呂に入って楽しく騒いで上がった後、なんとも言えない寂しさに気づいた。
初めてだった。あんなに楽しく人と過ごせたのは。
スマートフォンには、ユキから丁寧な文章でお礼を綴ったメッセージが届いていた。
私も丁寧に返事をし、何かあったらすぐに連絡するよう念を押しておいた。
そんなに心配なら一緒に暮らせば良かったのでは?
いろいろ考えたけど、自由を奪うのが嫌だったから、自分のわがままな気持ちはそっと胸の奥にしまっておいた。
また生きていれば話せて、一緒に遊べて……。
胸がぎゅっと苦しくなった。
またっていつ?
私はわがままだ。わがままなんだ。これ以上望むべきじゃない。
布団に潜って枕をぎゅっと抱きしめ、丸まってその夜を過ごした。
幸せな気分と、わがままな自分の気持ちとの葛藤に苛まれながらも、ユキと過ごしたかけがえのない時間が心に温かく灯りをともしてくれていた。
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