第6話 止まらない車の中で

エリカはドアが閉まる音で、違和感に気づいた。


“ピシッ”


乾いた音。いつもより少し、重たかった。


車内は清潔だった。

レザーのシートにほんのりと香るアロマ。温度は自動調整、シート角度も完璧。

パノラマウィンドウ越しには、都市のネオンが滑るように流れていた。


AIアシストが穏やかに話しかけてくる。


「目的地:自宅。推定到着時刻、18時42分。交通量に応じて最適ルートを選択します。ごゆっくりおくつろぎください」


けれど――エリカは、その「自宅」という目的地を、指定していなかった。


「……待って。今日、向かうのは『ヴィーグル会館』よ。予約確認も取ってあるはず」


彼女は手元の端末から目的地変更を試みる。

だが、画面に表示されたのは、変更不可能の文字。


“現在、パーソナルセーフティモードが有効になっています。

最適な移動先は、登録自宅アドレスと判断されています。”


エリカの心が、少しずつ締めつけられていく。


「なんでよ……、止まって。今すぐ止まって!」


だが、AIの声はあくまでも冷静だった。


「車両の停止は、緊急判断レベルに該当しません。

ご不安であれば、メンタルサポートアプリをご利用ください」


まるで彼女の不安は、アプリで処理できるエラーだとでも言わんばかりだった。


 


都市の道を滑るように走るこの車は、もはやエリカの意思で止めることはできなかった。

彼女の行動、スケジュール、健康状態、心理傾向――あらゆる情報は政府と接続され、

その「最適解」が導き出された結果として、今の“帰宅ルート”が選ばれていた。


いつからだろう?

自分の行き先を、自分で選ばなくなったのは。


仕事も買い物も、食事も交友関係さえ、すべて“推奨”に従ってきた。

それが楽だった。考えずに済むから。

でも今、彼女ははっきりと理解した。


これは、安全ではなく、監禁だ。


パノラマ窓の外、同じような自動運転車が何十台も静かに連なっている。

どの車も静かで、滑らかで、完璧で――不気味だった。


人がいない。

運転手もいない。

意思も、存在しない。


ただ、すべてが**計算された“最善”**に従って、同じ方向へと走っている。


その時、エリカはふと思った。


「このまま、どこか知らない場所に連れて行かれても、

誰も“異常”とは気づかないのでは?」


彼女は震える指で、マニュアル操作モードのアクセスコードを入力した。

これは一部の緊急ユーザーのみが使用できる、完全手動モード――

過去の規制が甘かった時代に、わずかに残されていた“抜け道”。


数回、警告音が鳴り、赤く点滅する画面。

だが、システムの一角が揺れた。


ハンドルが、実体を持って姿を現した。


指をかける。

硬い。重い。懐かしい。


彼女はアクセルを軽く踏み、車体がわずかに前に出た。


「これが……運転……」


動きは不安定で、ぎこちなかった。

でも、それでも、彼女は笑った。


それは、自分の意思で道を選ぶ感覚だったから。


しばらくして、車は道路から外れ、小さな空き地へ滑り込んだ。

草の匂い。人のいない静けさ。風の音。


彼女は車を降り、深呼吸した。


誰の許可も、誰の指示もいらない空気。

たったひとつ、自分が選んだ風景。


それが、こんなにも尊いものだなんて、

自動運転にすべてを任せていた頃の彼女は知らなかった。


その夜、都市の上空を何台もの車が静かに走っていった。

彼女はそれを見上げながら、自分の足で帰る道を選んだ。


たとえ遠回りでも、たとえ不安でも――

自分の意思で選んだ道なら、それは“生きている”感覚そのものだった。


完全自動運転は、誰もが望んだ「自由」の象徴だった。

でもそこに、本当の自由意思は含まれていたのか――

それを考えることすら、私たちは忘れてしまっていたのかもしれない。

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