第28話 言葉の刃





息が苦しい。



走ったせいで冬の夜風が肺いっぱいに流れ込み、げほげほと咳が漏れる。

頬は凍傷でもしたかのようにひりひりと痛んだ。

それでも足は止まらない。

嫌な予感に背中を押されるように、昨日の雪で凍りついた道を必死に駆け抜ける。

何度も滑りそうになりながら辿り着いたのは、黒い瓦屋根の古びた家。『露木』の表札がかかった、その場所だった。

雪道に足を取られ、思った以上に時間がかかってしまった。

それだけじゃない。まるで誰かが、私をここへ辿り着かせまいとしているかのような、そんな不気味な力さえ感じられた。

だから、玄関に立ったときにはもう、家の中で怒鳴り声が響き渡っていた。


「二度とこの家に来るな!!」


それと同時にガタン、と玄関の戸が乱暴に開かれ、誰かが地面に倒れる。


「いってぇ〜」


倒れた尻を擦りながら顔を上げたのは、先ほどまで一緒にいた柊だった。

そのすぐ後ろから、もう一人の影が現れる。露木くんの祖父だ。

彼は前に会ったときも近づきがたい雰囲気を纏っていた。しかし今は、怒りに満ちたその気配が空気さえ張りつめさせる。

自分に向けられた怒声ではないのに、気づけば体が硬直してしまっていた。


「愛斗にピアノをさせるだと?ふざけるんじゃない!」


低く響く怒声が、玄関先を震わせる。


「自由気ままに家族を捨てたお前みたいな人間に育てられるつもりはない。ましてや男がピアノだなんて。恥を知れ!」


その言葉に、耐えがたい痛みが走った。

柊への憎しみと、男がピアノを弾くことへの軽蔑。

そのどちらも、露木くんにとっては耐え難い重さになると、想像するだけで息が詰まった。


「じいちゃん!」


慌てて現れた声に、思わず顔を上げる。

玄関の奥から、露木くんが飛び出してきた。

必死に二人の間に割り込むように立ちふさがる。


「俺、ピアノなんて弾かないよ!」


掠れた声が、危うく震える。

まるで自分に言い聞かせるように、もう一度繰り返した。


「弾かないから」


その言葉で、彼は自らに終止符を打った。そして、振り向きざまに柊を鋭く睨みつけた。


「だから、もう二度と来ないでくれ。もうじいちゃんに何も言うな」


祖父に嫌われることを恐れて震えている幼い子供のような脆さが、その声の奥に滲んでいるような気がした。

ようやく私に気づいた露木くんと目が合う。

彼は驚いたように目を見開き、次の瞬間には顔をそむけてしまう。

その横で、柊は尻を叩きながら服についた埃を払い、重たい溜息を漏らした。


「親父、そいつは天才なんだ。俺ぐらい、いや、もしかしたら俺以上になるかもしれない」


柊の言葉に、祖父の目がさらに険しさを増す。


「それがなんだっていうんだ!!!」


あまりの大声に耳がキーンとなり、余韻が冬の夜空にまで響き渡った。

柊は髪をかき上げながら、重たい溜息を漏らした。その姿が悔しくも露木くんと重なって、小さく頭を振る。


「親父、またそうやって、愛斗の将来まで奪っていくのか?」

「なんだと?」


低く唸るような声が玄関先を震わせる。

互いを睨み合う隙間に、露木くんが必死に滑り込んだ。


「もういいから、じいちゃん。中に入ろうよ」


けれど、その必死の言葉は届かない。

祖父も柊も、露木くんを視界に入れもしないまま、一歩も引かない。


「俺に才能があるって知った時だって、男がピアノなんて許せないって言っただろ?」


その時の光景を思い出しているのか、柊の口元が嘲笑うように吊り上がった。

次の瞬間、自分の胸に手を当て「でも!」と自分を見ろとでも言うように声を張り上げる。


「今の俺を見てみろ!俺の演奏に、誰もが圧倒される!こんな田舎でも、露木柊を知らない人間は少ないくらいだ!」


歓喜に浮かされた顔を見せながら、柊は言葉を止めなかった。


「俺は、俺が好きな音を演奏して、この手で自分の音が一番だってこの世に叩きつけた!最高の気分だった!親父は、愛斗のそういう未来まで壊すつもりなのかよ!」

「やめろ!」


これ以上聞きたくないと、柊を止める露木くんを助けたいと思った。

けれど、二人の間に立ち入れる隙間なんてどこにも見当たらなかった。


「それでお前は愛斗を、自分の子をどうした。ほっぽかして、ふ……!」


祖父は言葉を途切れさせ、ちらりと露木くんを伺った。

そして、ぐっと喉の奥で飲み込むように口をつぐんだ。その沈黙を、柊がすかさず埋めるように口を開いた。


「それはまあ、悪いと思ってる。その時はこいつの才能に気付かなかっただけだって」


軽々しく言い放つ声に、場の空気がさらに凍りついた。

まるで「才能さえあれば愛せる」とでも言わんばかりの態度に、私は息を詰める。

祖父の眉間に深い皺が刻まれた。


「ふざけるな!!自分の子供を道具扱いするんじゃない!」


柊が鼻で笑いながら応じる。


「それ、親父が言える立場か?元軍人だからって、ずっと俺を従わせようとしたくせに」

「なに……!」


祖父の拳が固く握られ、堪えきれぬ怒りに震える。

その瞬間、「いい加減にしてくれ!」と叫ぶ声が、二人の間に鋭く響き渡った。

ようやく、二人の視線が露木くんに向けられる。


「じいちゃん、俺は……ピアノなんて弾かない。中学の時、約束したとおりにだよ」


その直後、柊の乾いた笑いが玄関先に響く。


「嘘だよ、親父。そいつは隠れて弾いてる。ピアノに渇望してるんだよ」

「違う!!」


震える声で祖父の腕を掴んだのは露木くんで、その手は小刻みに揺れており、力強さよりも必死さばかりが伝わってきた。


「違うよ、じいちゃん……! そんなんじゃなくて……」


違う、違うと繰り返しながら、もう自分でも何を言っているのか分からないように、言葉が空回りしていく。


「違わないさ!愛斗、それは俺たちみたいな人間には、自然な成り立ちなんだ」

「うるさい!!」


露木くんの絶叫が玄関先に響き渡る。


「一緒に来いよ、愛斗。お前の中には俺の血が流れてる。抗ったって無駄なんだ」


呪いのような言葉を吐き、柊はすっと手を差し伸べた。

その手を見つめる露木くんの瞳は、拒絶と恐怖と、抗えない引力に揺さぶられていた。

そして次の瞬間、彼は意を決して、その手を叩き落とした。

乾いた衝撃音が冬の静けさを裂き、それが答えだと言うように、露木くんは低く告げた。


「俺は行かない。この町から離れるつもりはないから」


じいちゃん入ろう、そう言って祖父の背中を押し、家の中へと入っていく。

その手前でふと振り向いた彼と、私の目が合った。

酷く、寂しそうな瞳をした彼は、何を言うわけでもなく、そのまま扉を閉めた。


「あーくそ。ここは頭が固い人しかいないなぁ。だからこんな田舎から出たんだけどよ」


柊はポケットから煙草を取り出した。

ライターに火をつけようとするが、冬の夜風にあおられてなかなか炎が安定しない。

舌打ちをして手で覆い、ようやく火を移す。

寒空に吐き出された煙は、白く揺れながら夜気に溶けていった。


「そうは思わないか、嬢ちゃん」


私たちの視線がぶつかり、逃げ場を失ったように息を呑む。

やはり、彼も私がこの場に居たのを気づいていたのだ。

恐る恐る一歩を踏み出し、彼に近づいた。

そんな怯えた私を見て、柊はふっと笑い「別に取って喰ったりしねーよ」と口にした。

けれど、『le lien ル・リアン』での彼の姿、そして今さっきまでのやり取りを思い返せば、足がすくむのも無理はなかった。


「ひどいよなあ。ここは俺ん家でもあるというのによ」


わざとらしく肩を竦める柊に、私は乾いた唇をためらうように開いた。


「どうして、こんなことするんですか」

「どうして?」


柊はもう一度煙草の煙を吐き出した。

その横顔は、自分の言動がどれほど露木くんを苦しめているのか少しも分かっていないようで、頭に熱が一気にのぼり、理性がかき消されそうになった。


「露木くんは! ずっと断っていたはずです。 なのに、どうしてわざわざ……!」


『ル・リアン』でピアノを弾いていたことまでばらすなんて。

あれだけ、露木くんが一番耳にしてほしくなかった人に。


「だからだろ?」


ふぅ、と吐き出された煙がわざと私の方へ流れてくる。

喉を焼くような苦さに、思わずゲホゲホと咳き込んでしまった。


「あいつに大事なのは家族。それが親父なら、そこから離れさせるのが一番の近道なんだから」


彼は、露木くんが一番傷つくと知っていて、なおあんなことを口にしたんだ。


「ひどい……」

「ひどい?家族だの世間体だの、くだらないもんに縛られて才能が潰れるほうが、よっぽど残酷だろ?」


本当に、この人の中には露木くんの気持ちなんて欠片も存在しない。

どこかで父親としての思いが残っているのではと願っていたけれど、今ので完全に打ち砕かれた。


「あーでも、これであいつが潰れるなら結局は水の泡か?」


そう言って急に私の方へと歩いてきた彼は、私の目の前で立ち止まった。

そして、まるで何かを考え込むように視線を落とす。


「やっぱり、お前ら付き合ってるのか?あの変な店から俺を追いかけてきたぐらいだし」


その瞳は、まだ私が使えるのかどうか、もう一度測っているようにも見えた。


「違います。私たちは……」


言葉に詰まり、思わず口をつぐむ。

私たちは一体どういう関係なのだろう。彼の力になりたいと願う、この気持ちをどう呼べばいいのか。

いつの間にか、『ル・リアン』で二人で過ごす時間さえ、心地いいと感じていた。

彼もまた、同じように感じてくれていたらと願ってしまう。

けれど、それをいちいちこの人に伝える必要はない。


「……ただのクラスメイト、です」

「ぷっ!」


あははは!と柊の大きな笑い声が夜に響き渡る。

手に持っていた煙草を地面に捨てて火を消した彼は、面白いものでも見つけたかのようだった。


「普通、ただの『クラスメイト』はここまでしないと思うけどな」


今の自分がどんな表情をしているのか。

彼は私を見て笑い、そのまま歩き出して闇の中に消えて行った。



残された胸のざらつきだけが、いつまでも消えなかった。

それでも、抗えない思いを抱えたまま、アンを探そう、そう思った。


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