第27話 執着




温かなお茶が入ったコップを手に、もう二時間以上入口の扉を睨んでいた。


今日の学校でのことを思い出す。

露木くんは柊の噂が飛び交っても、ざわめく人たちの中で、平気そうに笑っていた。

まるで、いつも通りの露木愛斗を演じるかのように。

みんなに優しく、誰にも愛される存在で居ようと。

でも、私にはわかった。

笑顔の奥で、ほんの一瞬だけ視線を逸らしたこと。

箸を持つ手が、かすかに止まったこと。

だから、きっと彼は『ル・リアン』に来る。そう思って、私はここで待っている。

けれど、二時間が経っても、扉は一度も開かなかった。


「はあ……」


重たい溜息が零れる。

最近は毎日のように通っていた彼が、今日に限って来ないなんて。


「アンはどこにいったのよ。もう……」


姿を消してしまった、自称・縁の神様の猫。

彼女の企みにだって、きっと露木くんが関わっているのに、肝心な時にはいつもいない。


チリン——。


唐突に鈴の音が鳴って、心臓が跳ねる。

ついに来たのかと思って、私は勢いよく顔を上げた。

けれど、現れたのは彼ではなかった。扉の前に立っていたのは、見覚えのある男。


「やあ、嬢ちゃん。また会ったな」


飄々とした声に、背筋がぞくりとする。


露木柊。


露木くんの父親であり、私が今、最も会いたくなかった相手。

驚いて固まっている間に、柊は軽い笑みを浮かべながら、まるで当然のように私の隣、露木くんの指定席へ腰を下ろした。


「前から気になってたけど、ここって店なのか?ガラクタ置き場かと思ったよ」


不思議そうに店を眺めながらそう言う柊は、まるで昨日のことなど気にもしない様子だ。


「そんな怖い顔すんなって。ちょっと話をしに来ただけだよ」

「話すこと、ですか?」

「そうそう。君なら、あいつにちゃんと伝えられるんじゃないかと思ってね」


柊はさらりと付け加えた。


「その前に、何か飲み物でもくれるか」


足を組み、椅子に深く腰を預けるその態度に戸惑いながら、私はお茶を淹れるために立ち上がった。

彼のあまりのマイペースさに調子が狂い、どうしてか逆らえず、言いなりになってしまう。

湯気の立つ湯飲みを差し出すと、柊は満足げに頷き、一口啜った。


「まあ、どこにもあるようなお茶だな」


せっかく入れてあげたのに、なんていう言い方なんだろうと呆れてしまう。


「なあ、えっと、名前なんていうんだっけ」

「小谷野、柚葉ですけど……」

「そう、柚葉ちゃん。お願いがあるんだけど」


彼は湯飲みを机に置き、何でもないことのように続けた。


「ほら、あいつさ。愛斗に、ピアノを弾けって言ってやってくれよ」


突拍子もない言葉に、思わず息が詰まる。

なんで彼は、会ったばかりの私にこんなことを頼むのだろう。


「……どうして、私にそんなことを」


思わず問い返すと、胸の奥がざわつき、指先がかすかに震えた。

柊は湯飲みを軽く回しながら、平然と笑った。


「簡単なことだよ。俺の言うことなんか、あいつは聞かない。けど、君の言葉なら届くかもしれないだろ?」


柊は手に顎を載せ、じっと私を見つめた。


「ほら、なんか仲良さそうだったしな」


もしかして付き合ってる?と、ニヤつきながらこちらを覗き込む彼に、思わず目を伏せた。

露木くんが彼をどれほど憎んでいるのか、彼はまるで分かっていないみたいだった。


「露木くんは」


勇気を振り絞り、声を震わせながらも言葉を口にする。


「露木くんは、私がなんて言おうとピアノは弾かないと思います。あなたに似たくないから。家族が、大事だから」


両手をぎゅっと握りしめ、睨むように柊を見据えた。

柊は一瞬ぽかんとした後、ふっと吹き出した。


「ははっ、またそれか。」


湯飲みに口をつけるその仕草は相変わらず余裕に満ちていて、胸の奥を不気味にざわつかせた。

けれど、次の瞬間。

鋭い光を宿した目がこちらを射抜いた。


「……っ」


胸の奥がひやりと凍りつき、全身が固まる。

背筋を氷の刃でなぞられたように冷え、喉が渇いて声が出てこない。

心臓だけがやけに大きな音を立て、逃げ出したいのに足が動かなかった。

その目は、軽口ばかり叩いていた男のものではない。


「それでも、あいつはピアノを弾く運命だ」


言葉と同時に、その瞳がぎらりと光る。

理性の奥で何かが外れてしまったような、狂気の炎が揺らめいていた。


「お前も聞いただろ? あいつの才能を!」


声を荒げ、柊は身を乗り出す。


「もちろん基礎も習ってないからおかしいところはある。だが、それでも本物だ。間違いなく才能がある。それを捨てるには勿体なさ過ぎるだろ?」


この人は異常だ。

前に会ったときと同じで、露木くんのことを何一つわかっていない。

その態度に、私はぐっと拳を握りしめた。


「露木くんは、今がすごく幸せなんです」


柊は首を傾げ、口の端を皮肉げに吊り上げた。


「幸せ? 本当にそう思ってるのか?」


その問いに、喉がきゅっと締めつけられる。

「はい」と即答できず、言葉を失ったまま固まってしまう。

そんな私を見て、柊の口元がじわりと歪んだ。


「あの音を聴いてそういうなら、ばかじゃないのか?」

「なっ……!」


怒りと悔しさが一気に胸に込み上げ、言葉にならなかった。

彼はふいに立ち上がり、サンルームの方へ歩いていく。

木目調のピアノの前で立ち止まると、ゆっくりと蓋を開け、ためらいもなく鍵盤に指を置いた。

の途端、空気を切り裂くように響き出したのは、露木くんが、柊が来る前に弾いていたあの曲だった。

自分で作ったと露木くんが言っていたはずの曲を、どうして一度聴いただけで、ここまで正確に再現できるのか。

だけど、耳に届く旋律は確かに同じなのに、その響きはまるで別物だった。

露木くんの音が繊細で、一音ごとに感情が滲むなら、柊の音は力強く、舞台に立ち慣れた演奏家の圧をまとっていた。

一音ごとに積み重ねられる音の壁が、こちらの息を奪っていく。技巧ぎこうも迫力も桁違いで、まるで聴衆ちょうしゅうを跪かせるための演奏のようだった。

けれどそこには、彼の音に宿る温もりは、感じられない。

柊は楽しげに鍵盤を叩きながら、こちらを一瞥した。


「この曲を聴いて……それでも幸せだと言えるのか?」


私は、露木くんがこれまで奏でてきた旋律を思い返す。

最近になってようやく、音のなかにかすかな温かさが混じるようになってきた。

けれど、それ以前はどれも切なくて、胸を締めつけるような旋律ばかりだったのだ。


「あの頑固おやじが、俺と同じでピアノを弾いているなんて、見ていられるわけがないだろ。それなのに、わざわざこんな街はずれで、こそこそ隠れて弾くくらい、未練たらたらってやつだ」


彼は真っ直ぐ私を射抜く。

お前なんぞあいつの何も知らない、と言われているみたいで、みぞおちを殴られたみたいに苦しかった。

それでも、黙ってはいられなかった。


「あなたは、露木くん自身には興味がなくて、ピアノにしか関心がないんじゃないですか?」


柊は肩を揺らして嘲笑した。


「俺にはピアノ以外、何の価値もない。だから、あいつの音がどう変わっていくのか、気になって仕方ない」


柊はふっと鍵盤から手を離し、わざとらしく肩をすくめた。


「さっき、学校に行って愛斗に会ってきたんだ。『ピアノを弾け』って言ったら、逃げるように走って行っちまったけどな」


軽やかな口調の裏側に、押し殺した執念めいた響きが潜んでいた。


「だから君に手伝って欲しいんだよ。君の言葉なら、もしかしたら耳を傾けるかもしれないだろ?」


露木くんの気持ちを何ひとつ見ようとしないその態度に、息が詰まるほどの悔しさを覚えた。


「私は……絶対にしないです」


彼と初めて出会ったのも、この『ル・リアン』だった。

サンルームに差し込む月明かりの下で見た、あの恐怖を宿した瞳を、私はきっと一生忘れられないだろう。

二度とあんな表情は見たくない。


「露木くんが嫌がることは、絶対にしません」


決意を込めて彼を見据える。

柊は無表情のまま、何を考えているのか全くわからなかった。

だが次の瞬間、ふんと肩をすくめ、まるでこれまでの熱に浮かされた様子などなかったかのように「そっか」とだけ言い、歩き出す。

私の横を通り過ぎていくその背中を、息を殺して見送る。


「それじゃ、勝手にしますか」


彼はひらひらと手を振ったまま、振り返りもしない。

まるで「役に立たないお前には用はない」とでも言いたげに、軽い足取りで店を後にした。


彼が去ったあと、嵐の後の静けさのように全身から力が抜け、私はその場に座り込んだ。

荒く息を吐きながら思う。

アンとはまた別で、柊は、何かがおかしい。

私には到底理解できない人だ。

あの狂気じみた眼差しの残像が、まだ胸の奥をざわつかせている。

その影が、これ以上ここに留まってはいけないと急き立てた。


(露木くんに、会いに行かなきゃ)


気づけば私は立ち上がり、『ル・リアン』を飛び出して行った。

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