第25話 『誰の子』
後藤くんが言っていた、露木くんが『誰の子』なのか。
その意味を知るのは、そう時間がかからなかった。
「ふぅ……」
手に持っている
初めてここに訪れた時の、物が散乱していた風景はもうどこにもなかった。
その姿に満足気な笑みを浮かべる。
そして、店の一番奥。サンルームのピアノの前には露木くんが座って、優しいBGMを流してくれている。
彼の背中は、いつもよりも少しだけ柔らかく見えた。
音を紡ぐ指先は、まるで何かを大切に撫でているようで、月光を浴びているその姿は、まるで、夜に溶けてしまいそうな、儚い
音楽には詳しくないけれど、最初の頃はどこか儚くて悲しい旋律ばかりだったのに、最近は少しだけ、温かい音も混じってきた気がする。
彼は、後藤くんのことがあってから、ほぼ毎日のようにここを訪れて、ピアノを弾いていた。
後藤くんは、お父さんにまだ夢のことを認められていないけど、諦めないと言う。
その姿に、露木くんは静かに影響を受けているようだった。
言葉ではなく、感情を旋律に託す彼だからこそ、その想いは、紡がれる一音一音に滲んでいる。
お茶を淹れた二つのコップを手に、カウンターの前に座り、一口飲み込む。
(変わったのは私も、か)
昨日の夜、お母さんに、久しぶりに自分から連絡をしたのだ。
会話はやっぱり噛み合わなくて、学校に遅れたことも軽く叱られて「まあ、そうなるよね」なんて苦笑いしてしまった。
それでも、電話を切ったあとは、不思議と気持ちが少しだけ、軽くなっていた。
あれほど私は誰とも関わりたくなくて、絡まりきった【縁の糸】を全て断ち切って、独りになりたいと、ただそれだけを願っていた。
そんな私が、いじめのことを自分の口から語り、一生わかり合えないと思っていたお母さんに、電話をかけるなんて。
あの日の私は、きっとそんな未来を想像することさえできなかった。
「小谷野さん、掃除終わった?」
気づけば、ピアノを弾き終えた露木くんが目の前に立っていて、不意を突かれたように心臓が跳ねた。
声も出せずに瞬きを繰り返す私に、彼は少し笑って「おつかれ」と一言。そして、ごく自然に、私の隣に腰を下ろした。
私はようやく「うん」と頷くのが精一杯だった。
私が淹れたお茶を飲む彼の横顔を、そっと盗み見る。
一つだけ、胸に引っかかっている疑問がある。
後藤くんの【影糸】になった縁の糸を見たあの後、彼は何も言わなかった。
私にも、それが見えていると知っていたはずなのに。
私なんて、自分の影糸を初めて見たとき、取り乱すほど動揺して、アンを責めてしまったというのに。
それから、アンのことも。
どうして露木くんが糸を見られるようになったのか、聞きたかった。
けれど彼女は、それを察していたかのように、姿を見せようとしなかった。
「あ、雪」
不意に響いた彼の声に、私ははっと顔を上げる。
見れば、窓の向こうに、白い粒が静かに降り始めていた。
「予報では今日の夜遅く降る予定だったのにね……」
そう言いながら、私たちはしばらくのあいだ、窓の向こうをじっと見つめていた。
言葉を交わさなくても、不思議と気まずさはなかった。
ぱちぱちと
沈黙を破ったのは、露木くんのほうだった。
「積もる前に送るよ」
最近、彼が家まで送ってくれるのが当たり前みたいになっていて、そのことをふと意識すると、なんだかくすぐったくなる。
私たちは片付けを終え、鞄を持って外へ出るために出入り口へ向かった。
そして、私が扉に手をかけた。
けれど、力を入れたわけでもないのに、扉は小さな鈴の音とともに、ふわりと開いてしまった。
驚いて顔を上げると、そこには一人の中年の男性が立っていた。
その顔を見た瞬間、私は思わず立ち止まる。
どこかで見たことがある。そう思ったのは一瞬で、すぐに記憶がざわめき始めた。
テレビで何度も見たことがある。
『天才ピアニスト』と呼ばれ、私たち世代では『イケおじ』と騒がれていたあの人。
こんな田舎の、ひっそりとしたこの店に来るはずのない人。
でも、目の前に立っているのは、まぎれもなく———柊だった。
その瞬間。
「……父、さん……?」
隣から聞こえた、露木くんのかすれた声。
私は、息を呑んだ。
彼はまるで世界の終わりでも目にしたような、酷く歪んだ表情を浮かべていた。
その顔を見た瞬間、胸の奥で積み上げてきた何かが、音もなく崩れていく気がした。
だけど柊は、そんな彼の様子などおかまいなしに、雪で濡れた靴のまま、泥を引きずってずかずかと店に入り込んできた。
そして、容赦なく露木くんの肩をつかみ、狂気じみた歓喜の声を上げる。
「愛斗! そうか、今のはお前が弾いてたのか!」
じりじりと、彼の肩を掴む手に、ますます力がこもっていくのがわかる。
「そうだよな……。あんな繊細な音、普通の人間に出せるわけがない……!」
その言葉には、歓喜とも、支配ともつかない、ひどくねじれた執着が滲んでいた。
「俺の子だからできたんだよ、愛斗……!」
あまりの異常さに、全身が強張る。指一本、動かすこともできなかった。
(……怖い!)
露木くんは、視線を宙にさまよわせたまま、言葉を失っていた。
唇をきつく噛みしめた跡には、うっすらと血が滲んでいる。
尋常ではない姿に、柊を止めなきゃと思った。
「や、やめてください!」
その言葉に反応したのか、柊の動きがぴたりと止まった。
だが、それはほんの一瞬の沈黙にすぎなかった。
「なあ、愛斗。お前、ピアノいつ習ったんだよ。驚いたじゃんか!」
私の声なんて、最初から聞こえていないかのようだった。
まるで私は、そこにいない透明人間みたいで。
彼の興味は、露木くんに向いているわけでも、私に向いているわけでもなかった。
ただ、露木くんが弾いていた『ピアノ』そのものに、狂ったように吸い寄せられているようだった。
「やめて!」
私は大きな声で叫びながら、柊さんに手を伸ばした。
その手が届くより早く、強い衝撃が走る。
次の瞬間、私は床に倒れ込んでいた。
何が起きたのかわからない。
ただ、瞬きを繰り返すことしかできなかった。
「っ、小谷野さん!」
露木くんに名前を呼ばれたことで、ようやく気づく。
柊さんが、私を振り払ったのだ。
当の本人は、微笑すら浮かべながら、事もなげに言った。
「さっきから、ずいぶん騒がしいなあ。……ねえ、君、誰?」
わざとらしく首をかしげながら、続ける。
「今は家族会議の真っ最中なんだ。もう少し静かにしてもらえるかな?」
優しげに見えて、どこか残酷な言い方。
何も言い返せず、私はただ、ぐっと拳を握ることしかできなかった。
「……やめてよ」
それは露木くんの声だった。
低く、けれど確かな意志を孕んだ一言。
その直後、抑えきれなくなった感情が爆発する。
「やめろよ!家族会議?勝手なこと言うな!」
こんなふうに感情をあらわにする露木くんを見るのは、私にとって初めてで、私はただ、彼を見つめることしかできなかった。
「俺たちが、いつ家族だったんだよ」
その声には、長い孤独を呑み込んできた者にしか出せないような、静かな痛みが滲んでいた。
「俺の家族は、ばあちゃんとじいちゃんしかいない」
そう言った彼の口元に、信じられないような皮肉めいた笑みが浮かんだ。
その表情のまま、吐き捨てるように言葉が落ちる。
「あんたが俺を家に置いて、帰ってこなかった日からずっと」
その言葉を聞いて、他人の私ですら自然と眉間に皺が寄ったというのに、柊はただ、肩を軽くすくめてみせるだけだった。
「固いこと言うなよ、愛斗~。ちゃんと養育費送ってただろ?」
その軽薄な笑みと声に、露木くんは「は……」と空気を吐き出すように笑う。
そして、ゆっくりと前髪をかき上げた。
「俺さ、あの時、小学一年生で、十五キロしかなかったんだよ」
「は?」
唐突な話に、柊さんが眉をひそめる。
「母親って人は、他の男に会うのに忙しくて、何ヶ月も帰ってこない。父親も、ピアノと自分の自由ばっかりで、結局は家になんか戻ってこない。小さい子どもができることなんて、空腹に耐えて、親が帰ってくるのを待つことくらいしかなかったよ」
声を荒らげてはいない。
けれど、その一言一言は、静かに、確かに胸をえぐるようだった。
彼は私の手を取って立ち上がらせ、制服についた埃を、指先で丁寧に払ってくれる。
そして迷いのない手つきで、私の手を引いた。
「やっと……やっと家族を手に入れたんだ。やっと、誰かに愛されてるって思えた。だから……お願いだ。もう、二度と来ないでくれ」
柊の叫びが、凍てつく空気を震わせた。
「その才能、無駄にする気か!」
それでも、露木くんは一度も振り返ることなく、黙って歩き続けた。
足跡だけが、白い雪の上に、真っすぐに伸びていく。
遠くから、にゃあ、と猫の鳴き声が響いたとたん、目の奥がじんわりと熱を帯びた。
露木くんの手首に、黒く揺れる糸が一本、月明かりに照らされていた。
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