第24話 不器用な人々
最後の旋律が、ゆっくりと静寂に溶けていった。
それにあわせるように、露木くんの指がそっと鍵盤を離れていく。
私はその余韻に身を委ねながら、まるで引き寄せられるように、彼を見つめ続けていた。
胸の奥がじんわりと熱くなって、言葉が見つからない。
露木くんはうつむいたまま、ひとつ深く息を吐くと、ゆっくりとこちらを振り向く。
「……これが、俺の秘密」
私と目が合った彼は、肩をすくめて、ふっと力の抜けたような笑みを浮かべた。
あれほど隠し通そうとしていた露木くんの秘密を目の前にした後藤くんは、ずっと黙ったまま、窓から差し込む光に反射した自分の影を睨みつけている。
その表情からは、何を考えているのか読み取れなかった。
彼の背中には、いまだ一筋の黒い影糸がしがみつくように残っている。
けれどそれは、さっきまでよりも、ほんの少しだけ柔らかく揺れている気がした。
『ル・リアン』も、ついさっきまでは彼の影糸に呼応するように空気をざわつかせていたけれど、今は嘘のように静まり返っている。
その変化に、私はほんの少しだけ、ほっと胸を撫で下ろした。
その中で、後藤くんが、ゆっくりと立ち上がった。
そして、少し俯いたまま、しばらく黙っていた彼が、ぽつりと呟く。
「……ごめん」
急に謝ってきた彼に、私と露木くんは思わず瞬きを繰り返す。
理由はさっきの怒鳴り声のことだろうと、そう思っていた。だけど、次に続いた言葉に、私は思わず首を傾げる。
「なぁ、ここってさ、隠し事なんてできるような町じゃないんだよ。田舎って、そういうとこ……ほんと、不便だよな」
意味は、よくわからなかった。
でも、彼が言っているのは、ただ露木くんがピアノを弾いたというだけではない。そんな気がして、胸の奥が少しざわついた。
露木くんにはその意味がわかったらしく、驚いたように目を見開き、長い指をそっと口元に当て「……まさか」と小さく呟いた。
「お前がこっちに来た時には、もう大人たちの間で噂が広まってた。お前が——誰の子なのかってこと。」
『誰の子』という言葉に、露木くんの肩が、あきらかにぴくりと震えた。
その先に、まだ触れられたくない何かがある。
そう、私は悟った。
「中学生の時、合唱コンクールで伴奏したの覚えてるか?あの時の演奏さ、伴奏っていうより、なんかもう、一人だけ別の舞台にいるみたいだった。ちょっと場違いなくらい上手くて、それで、いつの間にか学生の間にも噂が広がってた」
ぽつぽつと語るその声は、どこか遠い記憶をたどるようだった。
「でも……」
後藤くんは、どこか遠くを見つめるような目で、ぽつりと続けた。
「お前のお祖父ちゃんがさ、ずっと噂が広まらないように、止めてたんだよ。お前が傷つかないように」
「……じいちゃんが?」
露木くんは、まるで信じられないことを聞いたかのように、目を大きく見開いた。
私も小さく驚く。なんせ初めて会った露木くんの祖父は、威圧感が印象的な人だったから。
だけど、夜道を女性一人で歩かせようとしなかった、その不器用な優しさを思い出し、すぐ納得する。
「お前、気づいてなかっただろ」
後藤くんが小さく笑った。
でもその笑みには、少しだけ寂しさが混じっていた。
「俺、ずっと羨ましかったんだ。お前には、ちゃんと心配してくれる人がいるんだなって、思ってさ」
「そんな……。俺にはそういうこと一言も……」
露木くんは俯いたまま困惑している様子だった。
「まあ、そう言うことで、俺は全部知っておきながら、あんなことを言った。お前の口から聞いたほうが、友達だって認められた気がして」
苦笑しながらそう言った後藤くんは、どこかすっきりした顔をしていた。
その背に絡みついた影糸は、手放されるのをためらうように、淡く揺れている。
(あと少し……)
彼の影糸が、ほんとうの意味で色を取り戻すには、もう一歩足りない。
そんな気がした。
「後藤くんのお父さんは、不器用な人なんじゃないかな」
自分でも、なぜそんなことを言ったのかは、よくわからない。
だけど、『風見庵』から響いた怒鳴り声と、すべてを諦めたように、悔しそうに、小さく震えていた後藤くんが、目の前で重なって揺れている。
彼が夢を語ったとき、お父さんは「そんなことで食っていけると思ってるのか」と言った。
その言葉に、私はどうしようもない苛立ちを感じた。
子どもの話を聞こうともしない、その姿が、母と重なったから。
でも今、露木くんの祖父のことを思い出して、ふと思った。
あの人もまた、不器用で、言葉より先に態度が出てしまう人に見えた。
だから、もしかしたら、後藤くんのお父さんも、同じなのかもしれない。
本当は彼のことをちゃんと考えていて、ただ、伝え方を間違えたまま、ずっと間違い続けているだけで。
(……それでも、子どもを殴っていいとは思わないけど)
そして私も、お母さんも、もしかすると、同じように『わからなさ』の中で立ちすくんでいるのかもしれない。
「後藤くんのお父さんも、露木くんのお祖父ちゃんも……不器用にしか愛し方を知らない人なのかもね」
無自覚のまま口からこぼれてしまった言葉に、二人の視線が私に集まっていることに気づいて、はっ、と我に返る。
なんて偉そうなことを口にしたのかと、焦りながら両手をぶんぶんと振った。
「ご、ごめん! ただ自分の考えを言っただけで、その……!」
自分でも何を言っているのか分からないまま、私は必死に言葉を重ねる。
「……ぷっ」
吹き出したのは、露木くんだった。
「別に変なこと言ってないからそんなに慌てなくていいよ」
目を細めて笑うその顔に、私は少しだけ肩の力が抜けた。
そして、彼は後藤くんの方を振り向く。
いや、その視線は彼の背にまとわりついた、影糸を見ているようだった。
「そうかもな。大人だって、人間で、間違いをおこすのかも。……実際、俺の親もそうだったから」
知っているだろ?とでも言いたげに、露木くんが肩を竦めた。
その話についていけないながら、私はただ彼らを見守る。
後藤くんは黙ったまま、じっと前を見つめていた。
その目はどこか空虚で、でも、奥底に言葉にならない何かが渦を巻いているように見える。
私は迷わず、口を開いた。
「私は、後藤くんの夢を応援するよ」
その一言が、風のように、そっと彼に届くことを願いながら。
「俺も、応援してる。悠真のゲームの話、聞くの楽しいし。だから……」
少し照れくさそうに笑って、けれどまっすぐに言葉を続けた。
「悠真が作ったゲーム、プレイするの楽しみにしているよ」
露木くんの本心がどう届いたのか、次の瞬間、後藤くんがこらえきれないように「ぷはっ!」と吹き出した。
「お前ら、いいコンビすぎ」
そう笑った彼が、やがて、ゆっくりと視線を落とす。
そして、小さく、本当に小さく、頷いた気がした。
私は、ある変化に気づいた。
彼の背に絡みついていた影糸の色が、ゆっくりと変わっていく。
漆黒だった糸の表面が、微かに黄金色へと滲み始める。
まるで、濁った水の底から、そっと光が浮かび上がってくるように。
それは小春ちゃんのときのように、眩しいほどの光ではなくて、もっと静かで、やわらかく、胸の奥にじんと沁みるような色だった。
彼と親の【縁の糸】は、まだすべてが綺麗になったわけではない。
けれど、たしかにそこには、【呪い】とは違う温もりがあった。
その様子を見ていたら、不思議と、私のほうが救われたような気がした。
露木くんもまた、その姿に息を飲み込んでいる。
「……俺、諦めないよ。マジでゲーム好きだから」
その声は決して大きくなかったが、言葉の芯には、今までにない確かな熱が宿っていた。
「親父に、最後まで理解されなくても、な」
そう言って、後藤くんがぐっと背伸びをした。
まるで、自分の中の重たいものを押し上げるように。
そして、不意にくるりと背を向けて、『ル・リアン』の出口へと歩き出す。
次に振り向いたとき、そこにいたのは——
いつも通りの、少し生意気で、どこか憎めない後藤悠真だった。
「ってか、お前ら、学校行かなくていいのかよ。もうすぐ昼だぞ」
「「えっ!?」」
嘘だろ、とスマホを慌てて取り出して、画面をのぞき込む。
そこに表示されていたのは、数本の留守電と、十一時三十五分という現実だった。
ここに来たのは、たしか朝の七時ごろだったはずなのに。
いつの間に、こんなにも時間が過ぎていたんだろう。
「小谷野はしらねーが、愛斗は結構心配されてるんじゃないか?つか、お前、学校休むの今日が初めてだろ?」
「あ、やば」
露木くんもスマホの画面をのぞき込んだかと思うと、すぐに顔をしかめて、無言のままそれをポケットにしまった。
「しゃーないから、一緒に怒られてやるよ」とニヤッとする、いつもの調子に戻った後藤くんの背中を、露木くんはふざけて叩いた。
「それは俺のセリフだろ」
そう言って、自然に隣に並ぶ。
その後ろ姿を見ながら、私はそっと笑った。
彼の悩みがすべて解決したわけじゃない。
けれど、お互いを少しだけでも理解できた彼らは、たしかに前に進んでいた気がする。
私を呼ぶ露木くんの声に背中を押されて、私もまた、その背を追うように歩き出した。
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