第3話:町の記憶
翌朝、ひかりは祖母がよく通っていたという喫茶店を訪れた。家から歩いて十数分、駅前通りから少し外れた場所にひっそりと佇むその店は、「珈琲ことり」という名前だった。
木製のドアを開けると、懐かしい豆の香りが鼻をくすぐる。年季の入ったカウンター、レトロなガラスのランプ、壁には古いレコードジャケットが飾られている。
「いらっしゃいませ。あら……ひかりちゃん?」
カウンターの奥から声をかけてきたのは、店主の渡辺さんだった。祖母の代から続く付き合いで、ひかりも子どもの頃に何度かこの店に来たことがある。
「お久しぶりです。突然すみません、おばあちゃんのことで……少し、お話を伺えたらと思って」
事情を簡単に話すと、渡辺さんはゆっくりと頷き、コーヒーを淹れながら言った。
「カツエさんねえ、毎週水曜日になると必ず来てたのよ。いつも同じ席に座って、文庫本と手紙を広げてさ。コーヒーは、うちの“深煎りことりブレンド”がお気に入りだった」
そして、少し目を細めて続けた。
「昔の話になるけど……カツエさんには文通相手がいたんだって。戦後すぐの頃。お相手の名前までは聞かなかったけど、若いころに一度だけ“会う約束”をしたらしいの。でもね、結局その日は来なかったって」
「来なかった……?」
「うん。駅のベンチでずっと待ってたんだって。でも相手は現れなかった。手紙も、それを最後に来なくなったらしいよ」
ひかりは、昨日読んだ祖母の手紙の一節を思い出した。
——『あのとき、もしも——という気持ちは、いまだに消えません』
「その文通相手……もしかして、“Y.K”っていう人だったかもしれません」
ひかりがそう告げると、渡辺さんは驚いたように目を丸くした。
「手紙が、今も届いてるの?」
「はい。家のポストに、毎週水曜日に」
渡辺さんは少しだけ口をつぐみ、やがてぽつりと呟いた。
「もしかして、カツエさんは……返事を書いていたのかもしれないわね。届かないと知っていても。——それでも、書かずにはいられなかったんじゃないかしら」
その言葉に、ひかりは何も言い返せなかった。
その足で向かったのは、祖母が長年働いていた町の郵便局だった。
今ではもう新しい建物に建て替えられていたが、奥の休憩室には昔の写真が掲示されていた。そこに、小さなモノクロ写真が一枚だけあった。
若き日の祖母と、もう一人の若い男性。制服を着て、肩を並べて笑っている。
写真の下に書かれた名前——
——安西カツエ、横田健一。
「……Y.K」
その瞬間、胸の奥で何かが繋がった気がした。
祖母の手紙の相手、「Y.K」。
若き日の郵便局員、横田健一。
二人が交わした手紙の数々。
届かないまま、想いだけが時を超えて残されていた。
けれど——
今も、返事は届いている。
風が吹き抜ける帰り道、ひかりは祖母の家のポストを見やった。
その赤いポストは、今も変わらず、静かに佇んでいる。
「……もしかしたら、“届いていた”のかもしれない」
時間は戻らない。けれど、想いは、言葉は、たとえ遠回りでもどこかに辿り着くのかもしれない。
そんな気がして、ひかりは初めて、祖母の“書かなかった手紙”を一通手に取った。
読み始めたその言葉たちは、まるで自分の心にも語りかけてくるようだった。
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