第2話 鎖に似た椅子の座り方
アナウンスが降りる駅に近づいたことを告げる。狼貴の右腕をそっと叩いて起こす。ほんの十五分くらいの乗車時間なのに、熟睡していたのか目を覚ますのが遅かった。
「もう……?」
不満気な声に頷きだけ返して、立ち上がる。狼貴ものろのろと立ち上がり、電車を降りた。朝と同じように冷え切った風がホームに吹き付けている。夜九時を回っているせいか、ホームの人影は誰もが浮腫んだような気怠さを漂わせていた。さっきまであれほど饒舌だった狼貴も無言のままだ。多分、眠いんだろう。今日も一コマ全部起きていられた授業のほうが少ないくらいなのに、何でこんなに眠そうなんだろう? やっぱり……
「夜は寝れてないの?」
「まあ……母さん看病するうちに夜はあんまり寝られなくなって、そのまま」
おばさん、最期は家で家族と過ごしたいって亡くなる二ヶ月くらい前から家に戻ってたもんね。というより、君が元から夜型なのも大きいと思うけど。
「遊んでいるわけじゃないぞ」
「分かってるよ」
改札を通りながらそんなふうに釘を刺される。別に責めてないって。心配なだけ。心配と言えばもう一つ。
「さっき言ってた実習生から手紙もらったって話だけどさ、それ先生に言った? 不味いよね?」
「何言ってるんだよ? 先生に言ったら母さんに伝わる。病気の母さんにそんな心配かけられないだろ?」
病気の母さんに心配かけられない? ということは。
「手紙って今年の実習生だったの?」
「そうだけど?」
僕らのクラスに教育実習生が来たのは十月だった。ふやけたような笑顔を浮かべた、ひょろりとした美術の教員だった。僕は音楽を選択していたから朝と帰りのHRくらいしか顔を見てない。特に思い出も無くて、お別れにクラス全員の寄せ書きを贈ろうとなった時、何も書くことが無くて困ったことを覚えている。でも、まさか、そんなことをする人だったとは……
「美術の授業は熱心だったよ。デッサンも上手かったし美術部にもよく来てた。実習終わった後にも実習日誌を受け取りに来たからって部活に顔出して顧問がいない隙に『美術部の皆のお陰で楽しかったから特別に』って全員に菓子の詰め合わせ配ったんだよ」
嘲るように狼貴が言う。
「ご丁寧に『本当はいけないからお家で開けてね。他の先生には内緒にね』って念押ししてさ。で、家に帰って開けてみたら手紙が入っていたんだよ」
狼貴が嘲笑っているのは、悍ましい実習生だろうか? それとも気づけなかった自分自身だろうか? 僕は何て言えばいいか分からない。分からないから、黙って聞いているしかない。
「母さんのいるところで開けなくて良かったよ。余計な心配かけなくて済んだ」
そりゃそうなんだろうけど……何でだろう? ものすごく納得できない。だって。
「実習生は、じゃあ何にも無し? 生徒にそんなことしておいて?」
仕方ないだろ? と狼貴は呆れたような顔で言った。下らない駄々を捏ねている幼児を見る目だった。
「教員になる気は無い、馬鹿で下手くそな子どもに絵を教えるなんてもううんざりだ、これからイタリアに留学して絵を学んで来るって書いてあったから生徒に手を出す心配も無いし、向こうで恋人を作るだろうよ」
僕が言いたいのはそういうことじゃないんだ。
「君はそれでいいの? そんな酷いことされて黙っているなんて」
「もう終わったことなんだよ、尊。手紙も捨てたし、あいつは今頃イタリアだ」
幼児を諭すような言い方で狼貴が言う。さっきまでの嘲るような口調より僕は辛くなる。だって何も解決してないじゃないか。
「先生に言おう。手紙が無くても話だけでも聞いてもらおうよ。そうすれば」
「尊」
遮るような狼貴の声にハッとなる。しまった、言い過ぎた。狼貴が怒り出して不味いことになる。そう思った。でも、そうはならなかった。むしろ、諭すような態度で僕は自分が思いの外、一人で熱くなっていたことに気づいて恥ずかしくなった。
「大丈夫だよ、尊。でも、尊が僕の力になることはできないんだよ」
その通りなのだ。今更「教育実習生から個人的な手紙をもらいました」と言ったところで先生だってどうにもできないだろう。実物が無い以上、白を切られて終わりになるのがオチだろう。何より、それに対処しなければならないのは僕じゃなくて狼貴なのだ。そこまで考えて、それでも気が治らない自分がいる。
(ずるい)
何でさっきからずっとこの言葉が頭から離れないんだろう?
(ずるい)
それは多分……
「尊? ……あのさ、電車の中だけどさ」
電車の中、という言葉で一瞬にして血の気が引いた。バレた、の一語が頭を占領した。どんな辛辣な言葉が狼貴の口から出て来るか、そう思うと身体が凍りついた。
「ありがとうな、寝かしてくれて」
「え……あ、それ?」
勝手に手を重ねていたことじゃないのか、と拍子抜けする。助かった、という気持ちと自分のことだけ、という自己嫌悪が同量で湧き上がる。
「うん……短い時間でも寝られて乗り過ごすこともないから助かる」
「それなら良かった」
それでも喜んでしまうのだ。バレてないことも、狼貴に喜ばれることも、彼が寝られることも。僕はやっぱり君の……
「遅刻しそうになれば起こしに来てくれるし、僕の友達がこんなに優しいとは思わなかったよ」
(友達)
急に笑みが顔に張り付くような、石化するような感じがした。そうか、僕は「友達」か。当たり前のことなのに、どうしてこんなに心が冷えるんだろう?
「明日は朝練で起こしにいけないからね」
友達なら今朝だって普通はしなくていいことのはずだけど、僕はしたんだけどな。それは、つまり。
「自分で起きるさ」
狼貴は少し笑って言った。
※
子猫の鳴き声のような、掴み所の無い声が響いている。そうか、やっぱり今日もか。いつものように放っておこうか、とも思うけれど、鬱陶しいのとどうせ寝られないのだしと投げやりな気持ちが膨らむ。結局、パジャマの上にジャージを羽織ってそっと自分の部屋から抜け出す。母さんの寝室だった部屋に近づくに連れて「鳴き声」が「泣き声」になっていく。なるべく静かにドアを開ける。
「姉さん、変わるよ」
「え……狼貴、起きたの?」
腹違いの姉さんは二十歳を過ぎたらすぐに結婚してさっさと子どもを産んだ。産んだと思ったらまた孕った。動物みたいだ、と思わなかったと言えば嘘になる。
「なかなか寝ないわよ。抱っこして歩いてないと泣き止んでもすぐ起きるし落とさないでよ……」
そう言いながらも赤ん坊を渡してくるのは心配より眠気が勝るのだろう。部屋の奥を見やると義兄がぐっすりと眠っていた。
「義兄さんは起きないんだね」
「仕方ないわよ。今日はあんたより帰り遅かったし」
面倒見ないくせに子作りはするなんて動物だな、という本音は飲み込んでおく。抱き渡された赤ん坊は構うことなく泣き声を上げ続ける。こっちもこっちで動物だな、とも思う。
「本当にいいの? おむつ変えてもお乳あげても泣いているから」
「いいよ、どうせ寝られないし」
寝られないってあんた……という姉の言葉は最後まで聞かず部屋を出てドアを閉める。それ以上の追求をしてこないのは、やはり眠気に勝てなかったのだろう。特に目的も無いまま居間へ向かう。暖房を落としたとはいえ、人が過ごしていた部屋は廊下に比べれば多少は暖かい。一年生の頃に家庭科で習ったことを思い出して、首を固定して軽く揺らしながら居間を行ったり来たりする。赤ん坊は気が済んだのか、ただ疲れたのか、少しずつ泣き声が小さくなっていく。
(あれも居間だったな)
赤ん坊、という存在は何なのか。自分にはよく分からない。家庭科の授業で保育の単元をやった時、保健の授業で生殖や出生を扱った時、どうにも居心地の悪い気がした。自分が戸惑っている横で、姉は何も迷わず子どもを産み、孕んでいる。別に憎いとも嫌だとも思わない。でも……
(これが産まれるにはあれが……)
赤ん坊を見ると必ず浮かぶ光景がある。随分と昔のことなはずなのに、どうしても忘れることができない。
(あれは……)
今の家に引っ越す前に住んでいた家だったか、それともその一つ前に住んでいた家かも分からない。父さんの転勤のせいで何回か引っ越したから。当然、父さんがまだ生きていた頃だ。家の中はどうだったろう? 黄色い小さい鞄や帽子があったような気がするから、幼稚園の頃だったのか? 居間に続くドアも、寝室のドアも開け放してあったのは、初夏か晩夏だったからだろうか? 季節すらも曖昧で、霧がかかったように思い出せない。
父さんの帰りが遅くなるから、と母さんと同じ布団で寝たのは覚えている。甘えていると父さんに怒られるから、母さんと同じ布団で寝られるのは父さんがいない夜だけだった。怖い父さんがいないから母さんに思いきり甘えて寝たんだろう。そして、夜中に目を覚ましたら母さんがいなかった。どうして急に起きたりしたのか……そして、泣きもせず母さんを探しに行こうと思ったのか、これも思い出せない。でも、探しに行った先の居間で見たものだけは覚えている。
(どうして忘れられないのか)
電灯は点いていなかったと思う。カーテンの隙間から差し込む月明かりか街灯か、それとも居間の続きにあった台所の明かりだったのか……薄暗い部屋の中で、それが浮かび上がるように見えた。
母さんが父さんに怒られている――そう恐ろしくなって、その場で動けなくなった。見えたのは、裸の母さんに覆い被さっている父さんだった。ズボンに包まれた父さんの下半身が前後に動く様子と、母さんの乳房を鷲掴みにしている手と、苦しげな母さんの顔と、それら全てが怒った父さんが母さんに襲いかかっているように見えた。全身が凍りついて、眼球に全神経が集中した。目を逸らすともっと怖いこと――父さんが母さんを殺してしまう――が起きる。そんな予感に支配されていた。
父さんの下半身の動きが少しずつ早くなっていくのも、母さんが一層苦しげな表情になるのも、ずっとそのまま見ていた。一瞬のことだったのかもしれないし、長い時間が流れていたのかもしれない。時間の感覚そのものが曖昧な、幼児の自分の記憶だ。不思議なことに両親の声や音の記憶も一切ない。何も聞こえなかったはずは無いのに覚えているのは、父さんと母さんの動きと表情、それだけ。
どれくらいの時間が経ったかは分からない。父さんが母さんの背中に急に手を回して抱き上げた。父さんと母さんが向き合うような体勢になった時に、それまできつく目を閉じていた母さんが目を開いた。その時の母さんの瞳の色――濁ったような、微睡むような、今まで家族の誰にも向けたことのない色合い――その色の目が廊下の片隅で立ちすくんでいる自分を捉えた。その瞬間、凄まじい恐怖が押し寄せてきた。最初に折り重なっている両親を見た時よりも強い、というよりもっと異質な恐怖感だった。
母さんは僕に見られたことに気づいたのかもしれない。瞳の色合いがすぐに普段の母さんのものに戻った。その後は分からない。異質な恐怖感が襲って来ると同時に身体が動くようになった僕は、そのまま寝室に戻ったからだ。
でも、それは我に返った、とか正気が戻ったとか言われるようなものでは決してない。一目散に逃げ去る、なんて幼児らしいことをしなかったのがその現れだと思っている。何故か、父さんと母さんに気づかれないように、とそっと足音を立てずに寝室まで息を殺して戻った。そして、自分の布団に入りたいのを我慢して、母さんの布団に潜り込んだ。そのまま寝たふりをしなければ、と思ったのも覚えている。でも、そこまでしか思い出せない。
(何でもないって今なら分かるけど)
中学の保健の授業で、僕が見たのは両親の性交だと知った。それまでにも薄々勘づいてはいたから「やっぱり」という感が強く、授業の内容についてエッチだのヤバいだの無意味にわあわあと騒いでいる同級生が本当に馬鹿らしかった。それより、自分も妹も、世界中の人間全てがその行為の果てに生まれてきたということの方が受け止めきれない気がした。人間が生まれる、というのは力が強い方が弱い方を苦しめることの果てにあるのか……そして、弱い方がそれをあんな瞳をして受け入れることなのか……いや、子どもを授かるため、というならまだ分かる。そういうわけでもないのに、何故あんなことをするのか……どうしても、それを受け止められなかった。
(それは多分)
次の記憶は翌日の昼下がりに飛んでいる。いつものように画用紙に絵を描いていた。父さんは仕事だったのか。姉さんの姿が無かったのは小学校か、それとも友人の家にでも遊びに行っていたのか。これも思い出せない。
「あのね、狼貴」
画用紙を覗き込むようにして声をかけてきた母さんは、いつも通りのようで何かが違っていた。
「今日のおやつね……ホットケーキを焼こうか? 好きでしょう? 甘いの」
その声音にも笑顔にも、何故か妙に腹が立った。ホットケーキは大好物で、母さんがそう言ってくれるならいつも大喜びしていた。でも、その時の母さんはそれを全て見越して言っていると何となく気づいて、それが面白くなかった。
「いらないよ」
そう言ってクレヨンを手に取った時、母さんが息を呑む気配がした。それも僕は気づかないふりをした。
「そう……そうなのね」
泣きそうな、怖がるような顔で母さんはそう言って台所へ去った。それ以来、僕が母さんの布団で一緒に寝ることは無くなった。
母さんだって困っていたんだ、と今なら分かる。父さんは横暴だったから拒むことができたとは思えない。寝室ではなく居間だったのは僕への精一杯の配慮だったんだと思う。そこまでしても夫との性交を幼い息子に見られて、それを説明することも、何事も無かったように振る舞うこともできなかったんだろう。説明するには僕が幼かったし、何事も無いふりをするには僕が育ちすぎていた。頭ではそう理解してはいる。でも……どうしても受け入れられない自分もいる。あの時の瞳の色も、翌日の声音や笑顔も。後にも先にも、あんなに恐ろしい母さんも、あんなに醜い母さんも見たことは無い。
いつも優しくて美しかった母さんを――人をあんなにまで変えてしまう行為が、僕は怖い。それに。
(昨日もそれのせいで)
「せめて手紙だけでも読んで」と縋りついてきた女子を振り向きざまに払い除けた。「お母様を亡くされて辛いあなたの力になりたい」なんて母さんが死んだことすら利用するような言い草に目の前が赤くなった。怒りで我を忘れたところに、急に身体を触られてわけが分からなくなるほどの悪寒が走った。もう力加減も抑制もできないまま、細身の女子の体を振り払っていた。押し付けられた箱と手紙を握りつぶして、怒鳴りつけたのは流石にやりすぎだ、とは思う。それでも、気持ちの遣り場がそれ以外には無かった。どうしてなのかは分からないが、人に身体を触られるのが本当に嫌なのだ。
ずしりと赤ん坊が重くなったような気がした。ふえふえと輪郭の定まらない、小さい声は寝言なのだろうか? 疲れが押し寄せて眠気が襲って来る。どうせまた泣くだろうと思うと、姉さんに返すのも面倒で何となく壁に寄りかかって座り込んだ。
(赤ん坊を抱くのは嫌でないのに)
いつの頃から始まったのか、自分でも分からない。幼稚園や小学校のイベントで手を繋ぐように言われるのが嫌だと思った覚えがあるから、かなり昔からではあるんだろう。同級生にふざけて抱きつかれたり肩を組んだりされる度に、身体を強張らせてそっと彼らの手を外していた。親愛の表現だと言われても、身体が強張るのも怖気が走るのも止められない。両親の性交を見たせいなのか分からないが、その「親愛の表現」の先には……あまり考えたくない、あれがある、と思わずにはいられない。唯一例外があるとすれば、それは。
(本当は分かっている)
尊の柔らかな表情と電車の中で重ねられた、温かくて湿った手の感触を思い出す。赤ん坊に似た温度と湿度だった。市立図書館に尊を呼び出したのは、本当は電車の中で許可も無く手を重ねていることを詰るためだった。母さんが死んだことまで利用して告白する女子に途方も無く怒り狂って学校を飛び出した。駅に向かううちに、何も気付かれていないと思っている尊にまで怒りが飛び火した。
もうずっと前から気付いている。尊は、友達とは別の意味で僕が好きだ。本人が気付いているかどうかは知らない。それでも、やっていることは告白だのプレゼントだの、身勝手に好きを押し付けてくる連中と同じだった。それを詰って、いつも人の良さそうな顔でへらへらと笑っている尊がどうなるか見てやりたいと残酷な気持ちが昂った。
何もかもが嫌だった。母さんが死んだことも、義兄が我が物顔で家に上がり込むようになったことも、姉さんがそれを当たり前のようにしていることも、妹がただおろおろとしているのも、よく知らない先生や同級生から「大丈夫?」と聞かれるのも、母さんが死んだ途端に親切ごかしで告白してくる女子も、純愛を装った欲望を語る男も、母さんと父さんの性交を見てしまった過去も、人に触られることも、気付かれていないと思って何も気付いていない尊も、それらを受け入れられないくせに尊だけは受け入れてしまう自分も……全てへの嫌悪感と怒りとがごちゃ混ぜになって涙になって溢れて来た。尊を呼び出した市立図書館の前で一人で泣いた。
(それでも)
部活の後に来てくれた尊をどうしても詰ることができなかった。泣いていたことに気付かないはずが無いのに、そこには何も触れないでくれた。「来てくれた」「触れないでくれた」と思ってしまうと何も言えなくなった。それで、尊の代わりに告白してきた連中を詰った。尊が傷ついた顔をしたのは分かったし、予想もしていた。多分、電車の中のことを言われないか危ぶんでいたんだろう。実際、その後に乗った電車の中では、尊は手を重ねてこなかった。やっぱりな、と思うと同時に言わなければ良かったと後悔している自分もいた。
「気付いてはいるけど尊だけは特別だ」とでも言えば、喜ばせることもできただろう。それでも、それは言えないのだ。そんなことを言えば、必ずその先を求められてしまう。できない、と言えば「どうして?」と聞かれるだろう。求められることにも、その質問にも自分は応えられないし、答えられない。だからこそ、尊を失わないためにはずっと友達にしておくしかない。
(僕の友達がこんなに優しいとは思わなかったよ)
別れ際に言った時に、尊の顔が固まったのも見た。残酷なことをしている自覚はある。それでも、気付かないふりをしていくしかない。自分は、抱き抱えている小さな生き物に繋がる行為には、相手の性別問わず関われない。
……そのまま水に沈むように眠り込んでしまった。翌朝、起きた時に目の前にあったのは「こんなところで赤ん坊を寝かせて風邪を引かせる気か」と怒っている義兄の顔だった。
※
――ねえ、彼と友達なんでしょ? 今度連れて来てよ。
どうして僕が大事な友達をお前なんかに紹介しないといけないの?
――彼のことが好きなんです。だから、この手紙を渡してください。
彼の隣にいる僕がどうしてお前に場所を譲ると思ったの?
――何であんな偏屈な子と友達なの? 振り回されてない?
じゃあ、あなたはどうして演奏は大して上手くない、数学は赤点のクラリネットパートの男と付き合っているんです? 面倒見きれないんじゃないですか?
――モテるのに誰とも付き合わないとか、アイツどっかおかしいんじゃね?
先々代の彼女はチア部のツインテール、先代の彼女は医学系クラスの眼鏡、今の彼女は野球部のマネージャーって三ヶ月毎に取っ替え引っ替えの君の方がおかしいと思うよ。
――二人は本当に良い友達なんだな。
先生はいつも男女が一緒に歩いているだけで「新郎新婦」って揶揄うのに、どうして僕らは友達なんです?
――私がいなくなっても、息子にとって良いお友達のままでいてね。この子はもう一人ぼっちになってしまうのだから……
言い返そうとした言葉が浮かぶ前に身体が痙攣したように震えて、ベッドの中で目が覚めた。嫌な汗が額に浮かんでいた。
(夢か……良かった……)
スマホを取り上げて見ると深夜二時半を回っていた。嫌な夢だ。でも、言われた言葉には全部心当たりがある。狼貴を好きになった女の子に踏み台にされた時、狼貴に渡る橋にされた時、部活の先輩から大きなお世話で心配された時、女癖の悪いクラスメイトに悪口を持ちかけられた時、無神経な先生に感心された時……夢の中の声は全部実際に言われた言葉で、その時には曖昧な笑いと適当な話に隠しておいた本音を相手にぶつけていた。そして最後のは……思い出したくないけれど忘れることもできない、狼貴のお母さんからの言葉だった。
二学期の終業式の日のことだ。学校が終わった後に狼貴の家まで行った。狼貴のお母さんは危篤状態で、狼貴も一週間前くらいから学校を休んでいた。成績表とか配布物とか届けます、と担任の先生に提案したら「昭和じゃないんだから個人情報を生徒に渡せないよ」と呆れられ手ぶらで狼貴の家まで行くことになった。赤点を取って瀕死の母さんを心配させたくないと狼貴が期末考査を頑張っていたのも、その甲斐あって全科目で赤点どころか今までで一番良い点数を出していたのも知っていた。だから、残念だな、おばさんに成績表を見せたかったと思った。空には鉛色の雲が重たげに立ち込めていて、雪が降りそうだと思った。
玄関のドアを開けてくれたのは狼貴の妹だった。その半泣きの顔を見た時に、いよいよなんだと実感した。おばさんの病室になっていた部屋に入った時、狼貴はおばさんの背中をさすっていたけど、目が合うとそっと片手を上げて帰るように合図した。気持ちは分かったから、そのまま帰ろうとした時に、おばさんが手を差し伸べて僕を引き留めた。枕元まで寄っておばさんの口元に耳を寄せると、おばさんが消え入りそうな声で僕に伝えた。
――私がいなくなっても、息子にとって良いお友達のままでいてね。この子はもう一人ぼっちになってしまうのだから……
おばさんは何も悪くない。むしろ、優しくて、遊びに行く度に歓迎してくれた。狼貴は友達らしい友達がいなかったから、おばさんは息子が珍しく意気投合した友達として僕を本当に大切にしてくれた。僕だって、おばさんを喜ばせたいといつも思っていた。だから本来なら喜んで、その旨に添いたいとだけ思うはずだった。それなのに。
また「友達」……黙って死ねよ、クソババア。
目に涙を浮かべながら親友の母親に「良いお友達」でいることを約束する僕の中に、別の僕がいるような、身体の内側が真っ黒に染まっていくような、そんな感じがした。
おばさんが亡くなったのはその日の夜だった。
お通夜やお葬式の間中、優しかったおばさんがいなくなったことが悲しかったし、狼貴が心配なのも嘘じゃなかった。でも、それ以上に怖かった。瀕死のおばさんにあんなことを思ってしまったことも、狼貴に思っていたことが何かの弾みに伝わることも、自分の本当の気持ちも、全部……だから、ずっと心の中でおばさんに謝っていた。何度も何度も謝って、約束を守って「良いお友達」でいます、と繰り返した。でも、たった一ヶ月でその約束がもう危うい。
女子が狼貴に告白するのはまだ我慢できる。狼貴が本当に恋愛に興味を持たないから、どうせ振られると高を括っている。そもそも狼貴が好きなタイプって自分の性転換した姿だと思うし。でも、男が彼に告白するのは……いや、誰であろうと……
(ずるい)
やっぱり我慢できない。ずっと隣にいる僕はいつも狼貴に近づくための踏み台か橋扱いか、せいぜいがせいぜい「良いお友達」……男も女も、狼貴のお母さんまで、誰も僕を狼貴の特別な存在とは見做さない。誰も彼も友達、友達、友達と……男女が二人でいればすぐに恋人認定されて、恋人だと言えばどんなに出来の悪い相手でも「そこが魅力」で済むのに、男二人はいつまでも友達で、一緒にいる理由を聞かれ続けて、納得のいく回答を用意しないといけなくて、オマケに簡単に他人が入り込んで来る。
僕はいつもそう扱われていた。でも、仕方ない。仕方ないんだ。仕方ない? 他の連中は身勝手に好きを押し付けるのに? 弱みに漬け込むような告白で振られても「かわいそう」、大人で教師の見習いなのに言い寄ってもお咎め無し……狼貴が好きの押し付けを嫌がるって知っている僕が沈黙して彼を守っている間に、誰も彼もが勝手に……好きと……
(ずるい)
いや、違う。本当に言いたいのは、これじゃなくて……寝返りを打って枕に顔を沈める。誰が見ているわけでもないのに、そうせずにはいられない。誰よりも自分が直視できない、これは……
(もう、だめだ……僕は完全に)
親友に、恋をしてしまった。
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