烏金の使者
noll -ナル-
烏金の使者
「おぉぉおおおおぉぉおお!」
私の背後で背筋を湧きたたせるような雄叫びにも近い呻き声が上がる。
夜の空が不気味なほどに赤黒い月食の日、私は彷徨うように、いや逃げるように走っていた。頬を撫でる風が生温く、纏わりついてくる髪の毛に嫌気が差すもそれを冷静に直している暇は私には毛頭なかった。それ程までに私には余裕が無かった。
ただの仕事帰りだった筈なのに、どうしてこうなってしまったのか。どうしていつもの家路がまるで迷路のように感じるのか。幾ら自問した所で一向に自答が出ることは無かった。ただ気付いたら私は後ろに気配を感じ、それに逃げるように走り出していた。何に追われているのか、後ろを確認しようにも恐怖で振り返る余裕など私には無かった。しかし呻き声は到底人間のものだとは思えず、私は不気味なナニカに追われている。それだけが唯一理解できた。けれど何故? どうして?
ただ繰り返すように何故、どうして、という叫びにも近い謎と恐怖が私の全身を駆け巡っていく。恐怖のあまりか、はたまた疲れなのか走る足の感覚が覚束なくなっていくのを覚え始め…………駄目だ、そう思った矢先の事だ。
私の足が何かに躓き、縺れるようにして地面に倒れこんでしまった。
「あっ!」
上手く受け身を取ることが出来ず、片頬に僅かな痛みが走る。だがそれも直ぐに気にならなくなった。きっと私の中で痛みよりも恐怖が勝っているからに違いない。私は急いで立ち上がり走り出そうとした。……が、しかし。
「え?! 嘘、動かない……!!」
まるで地面に縫い付けられたかのように震えて動かない脚に私は戸惑い、声を荒げた。必死に笑っている脚を掴み立たせようとするも全く持ち上がらない。
可笑しい、そう確信めいた考えが浮かんだ。こんなこと絶対にありえない! そうだ、コレはきっと夢だ!! そうに違いない!!
夢だと思えば何も可笑しくはない。私は胸の奥にあるモヤモヤや気味悪く思う気持ちが少し軽くなった気がした。そうとなれば後ろを振り返った所できっと夢は終わる。私は漠然とそんな考えが過った。私は意気揚々と後ろを振り返った。
そして後ろの雄叫びを上げる存在に目を向けた。
――それは酷く生々しい吐息から始まった。何処か興奮めいた生暖かく、そして腐った臭いが私の触覚と嗅覚を襲った。卵が腐った様な臭いだった。私が何でこんな臭いまで現実味があるんだ……と一人気を落とした。私はあまりの臭さに呼吸を最小限にとどめながらさらに上を見上げた。その時、私の頬に何かがボトリ、と落ちて来た。そして私は頭上を見上げ「ひっ!」と悲鳴を上げた。
そこに居たのは所々に肉片や皮が残った人間であった。左目がくり抜かれ、その中から湧いている蛆虫の姿に私は自分の頬に落下して来た存在に途轍もない嫌悪感を感じる。私は自分の頬に落ちて来た不気味な存在に畏怖し薙ぎ払うように頬を拭った。柔らかい何かが頬を靡く感触に言いようの知れない不快感が私を襲う。
「うわああぁあああぁあ!!!」
私は堪らず声を上げ動かない脚を必死に動かそうと躍起になった。けれど脚は一向に動かず、私は動かない脚を見捨てて地面を這いずるようにしてソイツから距離を取ろうと藻掻きだす。私はハッとした。
夢じゃ……ない? 嘘、本当に?
「あ、アハハ……そ、そんな、嘘」
私は到底受け止めきれない現実に乾いた笑いが溢れる。なんで、どうして? 再び蘇ってくる自問がこの上なく惨めに感じる。
私がいったい何をした? いつものように朝起きて仕事をして、ご飯を食べていた。そこに何か可笑しな点があっただろうか? 学生時代にだって馬鹿なことをした覚えはないはずだ! …………もしかしてこの間の発表で失敗をしてしまったから?!
もはや私の中ではこの状況の原因を知るよりも自らの行いを振り返り始めていた。
「あぁぁあぁあおぉおおおおぉおお!」
不気味な存在が雄叫びを上げる。私は何がなんなのか分からず目を閉じて全てから目を逸らそうとした。
その瞬間、何かがギギィ、という金属が擦れたような嫌な音が聞こえた。そして続くように声が聞こえた。
「あ、思わず手が出ちゃった」
人の言葉であった。私は「――え?」と呟きパッと固く閉じていた目を開け、何が起きたのかと後ろを振り返った。そして目に飛び込んで来たのはキラキラと輝くように靡く銀色の髪であった。
誰、と問いかけを口にする前に銀色の長い存在はこちらを振り返った。見えた姿は痩せこけた虚ろな人であった。男のような女のような中性的な顔立ちにより性別の判別が付きづらいその人物は、暗い瞳で私に語り始めた。
「でも、喰われちゃったら元も子もないし結果オーライってことでいっか。ねえ、助けて欲しい?」
「へ?」
突然の申し出に私は訳が分からなかった。しかし向こうはそんな私に一瞥する事無く話を続けた。……もしかしたら聞こえていなかったのかもしれない。
「助けて欲しいなら助けてあげるよ」
「た、」
「でもそれには対価が必要」
「対価?」
「そう。対価、つまりは報酬だね。うん」
私が出そうとした声を阻み、何でも無いように吐き出された言葉に私は一度躊躇した。……けれどすぐにこの状況を打破できるなら何でもいい! 私の考えは一つに絞られた。私は半ばヤケクソのように、怒鳴るような形になって叫んだ。
「払う! 払うわ!!」
「
歌うように放たれた言葉を最後に、その人は私を見るのを止め目の前にいる不気味な存在と対峙した。何かが弾かれ、私はそこで初めてその人が長い刀を握っていたのだと理解した。不思議な刀であった。刀身が赤く染まり、まるで幾人も切りつけた結果、血が刀身から落ちなくなったようだ。赤い刀を持ったその人は嬉しそうな声で「久し振りに腹いっぱい飯が食える」と言った。
え、飯? 私はその人の言葉に目を丸くする。
「餓者髑髏、運が悪かったな。恨むならお前の運の悪さを恨むんだな?」
その人は楽しそうにそう口にすると、刀を大きく振り上げ――そして、勢いよく振り落とした。
途端、初めに聞こえて来たのはまるで電車の車輪と線路の金属が激しくこすれ合うような嫌な音であった。続いて聞こえて来たのはガラガラという何かが崩れ落ちる音であった。言葉にもならない呻き声が追いかけるように聞こえて来て、私はもはや限界であった。
私の意識は暗転した。
*
「……夢?」
目が覚めると私は自室のベッドにいた。随分と臨場感のある夢だと感じながら私は身を起こし時計を見る。時刻はまだ五時になったばかり、まだ寝ていても問題は無かった。しかしあんな夢を見てしまっては二度寝をする気分など到底起きるはずもなく、私は安堵のため息を吐きながらベッドから出た。
そして洗面所に行こうとした矢先であった。
「おはよう」
「うえぇえ?!!」
ぬぅ、と現れた人影と声に私は女とは思えない声をあげてしまった。その声にその人も驚いたのかなんなのか怪訝そうに顔を歪めて私を咎めるように声をあげたが私にはそんなことどうでも良かった。
「なに?」
「あ、あああああなた、どうして!?」
アレは夢じゃなかったのか! 私が夢で片付けようとした矢先に突きつけられた現実に目を白黒とさせていると、何を考えているか分からない恩人は「ねえ、ご飯は?」と私に訴えてきた。え、ご飯?
「お礼……忘れたの?」
「お礼…………、あぁ!」
そういえばそんなこと言っていたのを思い出し、私は再び声を上げる。
「まさか約束を違えないよね?」
徐に刀へと手を伸ばすその人に私は首がもげるのでは、と思えるほどに首を左右に振る。私の態度にホッと安堵しながら刀から手を離すその人を見て私も心からホッとする。
「じゃあ早くしてね。――仕事してもうお腹ペコペコだから」
――
烏金の使者 noll -ナル- @mlxg
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