#38 託す
空には鼠色が広がり、ポツポツと雨粒が落ちてきた。
芦屋家の陰陽師たちが形代を構える。
雷明は川人のことを睨みつけながら、そっと明親の耳元に口を近づけた。
「桔梗だけでもどうにか逃がしてくれないか」
「……わかった」
次の瞬間、陰陽師たちは大蛇を呼び寄せた。数十匹の大蛇が雷明たちに飛びかかってくる。
「朱雀!!」
雷明は懐から形代を取り出すと、最上位クラスの式神——朱雀を呼び寄せた。朱雀が大蛇たちを蹴散らしていく。それの様子を見た陰陽師たちは慌てふためいていた。
「青龍」
川人が形代を取り出して朱雀と同じく最上位の式神——青龍を呼び寄せた。青龍はその長く太い体を朱雀に巻き付ける。
「慌てるな。落ち着いて対処すれば、こーんなの屁でもないんだから」
川人が雷明を睨みつける。雷明は地面に伏して「はあ、はあ」息を荒げていた。彼は最上位の式神を呼び寄せることができたものの、今までの疲労に加え、それだけで残っていたほとんどの体力を消費するほどであった。
「あれ、橘の娘は? どーこに行ったのかな? おーーい。明親ちゃん?」
桔梗の姿が見えないと、川人はキョロキョロと辺りを見渡した後に、息の荒くなっている明親を睨みつけた。
「さあ、知らないな」
明親も川人のことを睨み返す。
川人は同じ質問を部下たちにも投げかけたが、皆知らぬ存ぜぬで少しざわめきが起きただけだった。
「全く、してやられちゃったようね。まあいい。二人を拘束して陰陽寮に連れ帰るぞ」
雷明と明親の二人は、芦屋家の陰陽師たちに拘束された。
桔梗と彼女に抱かれた正道は、明親が呼び寄せた白虎の背中に乗り、ひたすらに逃げていた。
あの時、桔梗は雷明が自らを犠牲にして自分を逃がそうとしていると悟っていた。雷明と離れ離れになる際、本当はとても心苦しかった。本当は思いっきり叫びたかった。でも、声を押し殺した。彼の思いが無駄になってしまうから。
雷明はきっと私たちの元に帰ってきてくれる。そう信じて、桔梗は白虎の背中で目をぎゅっと瞑りながらじっとしていた。
どのくらい逃げていただろうか。急に白虎が止まると、桔梗のことを降ろして白虎は姿を消した。使役できる時間が過ぎてしまったのだろう。
桔梗は歩いた。ふらふらと宛てもなく。ここが何処なのかもわからない。それでも歩き続けた。陰陽師たちに見つからないように、町奉行たちに見つからないように。
川の上に架けられたアーチ状の橋の下で、桔梗は歩みを止めた。正道が泣き始めたからだ。
「お腹が空いたのか? 待ってろ、今、乳をやるからな」
「桔梗? 桔梗!」
桔梗は突然聞こえてきた懐かしい声に振り向いた。そこには、美しくて長い黒髪の持ち主である実の姉、橘
「桜……桜……」
桔梗は目に涙を浮かべて、桜に近づいた。そして、彼女の胸に頭を埋める。
「なんでこんなところにいるの! すっごく、すっごく探したのよ! お父さん、カンカンに怒ってるよ。穢れた血の一族と駆け落ちするなんてって……っていうかその子……!」
桜はタオルに包まれて泣きじゃくる正道のことを見て、目を見開いた。
「ねえ、その子ってもしかして……」
「何も聞くな。……頼む、なにも聞かないでくれ」
桔梗はそう言いながら、ぐいっと正道のことを桜に向かって突き出した。桜はそのまま、訳もわからずに正道のこと抱き寄せる。正道の泣く声がさらに大きくなる。
「この子をしばらくお願いしてもいいか? 私の大切な子なんだ」
「でっ……でも、この子…………」
「桜ならわかってくれるだろ。この子にはなんの罪もない。ただ、生きるために懸命に声を荒げているだけだ。ただそれだけなんだ。穢れた血なんて混じってない、普通の元気な男の子だ。だから……だから、頼むよ」
桔梗の震える声を聞いて、桜は静かに目を瞑った。そして、静かに、優しい声で「この子の名前は?」と桔梗に問いかけた。
「正道。……正しい道をまっすぐに進めるように」
「正道……。うん。いい名前だね。……それで桔梗、あなたはどうするつもりなの?」
「私はあの人のところに行く。それで熱りが冷めたら、正道を迎えに行くから。私が子供を産んだことは、まだ桜と陰陽師の明親って人しか知らないはず。その人も多分信用できる人だから」
「だめよ! 陰陽師のところになんて行ったら、あなた何されるかわからないわよ! まずは家に帰ってお父さんに謝らないと」
「それでも! それでも彼と一緒じゃなきゃだめなんだ。それに……この子が陰陽師との間にできた子だとお父さんに知れれば、この子が何をされるか」
桔梗はそう言いながら桜の肩を力強く掴んだ。正道が、「おぎゃあ、おぎゃあ」と泣き声を上げ続ける。
「…………あなた、昔から一度決めたことは絶対に曲げないものね。わかった。でも、絶対にこの子を迎えにくるのよ。それまで、お父さんにもこの子があなたの子だってバレないように、なんとかするから」
「ありがとう桜。……ありがとう」
それから、桔梗は正道にほとんど出ない乳をやると桜と別れて走り出した。桜には京の方角も教えてもらった。その方角目指して、桔梗は走り続けた。
そして、陰陽寮に辿り着いた彼女が見たものは、愛するひとの生首だった——
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