1.桜の誘い -咲-

四月。

桜の花満開に咲き誇った季節。


中学まで公立ばかり通っていた私が、

世の中でお嬢様学校と呼ばれている

聖フローシア学院高等部へと入学した。




お祖父ちゃんと二人暮らしで、

中学を卒業したら、働こうと思ってた私。



だけどお祖父ちゃんが、それを許すはずもなく

負担をかけたくない私が

辿り着いたのは、スポーツ推薦で学費が免除になる

この学院のみが、私に残された受験の選択だった。



入学前の春休みから、

体験入部と称して、

ずっとテニス部のメンバーと同じ練習メニューを

頑張ってきた。


部活の朝練・授業・放課後の部活練習。


そして……慣れない独特の風習を持つ

学院生活にもようやく、慣れてきた五月末。



朝、いつものように

目覚ましの音に不快感を

覚えながら、ベッドから這い出す。



百均で幾つも買った

壊れてもOKの目覚まし時計。



寝ぼけながら、

目覚まし時計を

放り投げて壊す程度には寝起きが悪い

私は今日も枕元の目覚ましを投げて目が覚めた。





さき、何をしておる」





階下から聞こえる、

お祖父ちゃんの声。




ヤバっ。




こんなことしてる場合じゃない。

朝の時間は有効に使わなくちゃ。




まだ起ききらない体を

何とかベッドから起こすと、

ハンガーに吊るした制服に

素早く袖を通し学生鞄とエプロンを掴んで

一階へと駆け降りる。






「おはよう、お祖父ちゃん」





山の中にひっそりと建つ

二階建ての大きな日本家屋。



その大きな家に住むのは

私と母方の祖父。




「咲、朝から騒々しい。


 もっと早起きして、

 ゆとりある時間配分を……」



「ごっ、ごめんなさい。


 目覚まし、

 一応なったんだけどなー。


 なっても起きれなくて。


 今から朝ご飯作るね」




二階から持って降りてきた鞄を

玄関脇に置くと、

制服の上からエプロンをつけて

キッチンへと立つ。



この春、私のリクエスト通りの

システムキッチンへと改築してくれた祖父。



使い勝手がかなり良くなった

キッチンに立って手早く朝ご飯。



夜の間にセットにして

美味しく炊き上がったご飯。



ご飯をボールに移して、

青紫蘇をパパっと切って、

ちりめんじゃことあえて、

錦糸卵をチラした混ぜご飯。



同時にグリルで魚を焼いて、

コンロでは味噌汁を作る。



同時進行で、準備をして

15分くらいで朝食をしたく終えると

テーブルへと並べる。




いつものようにお祖父ちゃんと

食事を勧めて、食べ終わると

食器だけを食器洗い乾燥機へとセットして

学校へ行く準備をする。





「あっ、ヤバっ。


 お祖父ちゃん、行ってくるね」




玄関の鞄をひっつかんで、

駆けだしていく山道。



その山道を駆けあがると

祖父の神社がある。



神社の御神木である、

大きな桜の木の前で鞄を置いて、

いつものように幹に手を触れる。




*



『行ってきます。


 今日も1日、見守ってください』



*







朝の日課を終えると、

一気に逆側の斜面をくだっていく。




登下校の山道は、

かなり厳しいけど私の家は、

結構不便な場所に建ってる。




学校と最寄駅の中間の

山の頂上に建つ我が家。





駅から電車で通学しようと思うと、

逆側の坂を延々と下って最寄駅へ。



学校まで、

最寄駅から二駅。




そしてもう一つの徒歩は、

逆側の斜面の山道を延々に下っていく。



そうやって下って辿り着く場所は、

学校前のコンビニの裏山。




最寄駅から電車で行く方が、

回り道になってしまう私は、

運動がてら、

いつも山越えで徒歩通学を強行する。





枝を避けながら、

獣道のような細い道を駆け降りて、

ようやく見えた下界。




コンビニの裏で、

スカートを払い、

靴下を新しいものと履き替えて、

長い黒髪を軽くブラッシング。




制服のリボンの角度を調整すると、

所定の位置に鞄を固定して、

おしとやかに学院の門の方へと歩いていく。




さすがお嬢様学校というべきか、

運転手に車で送迎っていう生徒が多い中、

一部の生徒は、自分で通学してる。



私の場合も、数少ない自力通学生徒組になるんだけど

こうやって山越えで

通学してるとは親友以外は知らないはず。




「ごきげんよう。

 咲さま」


「ごきげんよう。

 奈津子なつこさま」





校門の前、擦れ違うクラスメイトと

挨拶を交わしながら

親友のつかさを門の前で待つ。



ゆっくりと大きな真っ黒の車が

校門前のロータリーへと滑り込んできて

運転手がすかさず降りて後部座席を開けると

司と、その姉である高校三年生の一花いちか先輩が

ゆっくりと姿を見せる。



「あっ、おはよう。

 司」



門の前、姿を見せた司に向かって

いつものように声をあげて、

手を振る私に、

背後からシスターの咳払いが聞こえる。



あっ、

やっちゃった。



「ごきげんよう、

 シスター」



司は、何事もなかったように

姉である一花さまと共に

シスターに朝の挨拶をして

門の中へと入っていく。



「失礼致しました。

 シスター、以後気を付けます」



口早に告げると

逃げるように司の後を追って

校舎の中へと入る。



司の肩にようやく追いついた時、

親友の無情な一言。



「おはよう、咲。


 ったく、アンタ朝から何してるのよ。


 シスターの前で乱れた言葉使って

 どうするの?


 『譲原さん、大和撫子らしく美しくですよ』」




なんて、いつもの調子で、

ひそひそと声を紡いだ後の極めつけは

シスターの声真似。




なんで司は……

シスターのお小言を食らわないかなー?


シスターの知らないところでなら、

司のほうが結構、

大和撫子らしくない行動してると思うんだけど。


なんて思いつつも、

素直に謝罪する。



「ごめん。


 随分とマシにはなったと思うんだけどね。

 慣れたつもりでも、まだまだだね」




段々小さくなっていく声に、

一花先輩が立ち止まって

にっこりと微笑みかける。




「咲、可愛いvv」



スキンシップが激しい、

一花先輩に、ギューっと抱きつかれて

身動きがとれない私。




「ねぇ、司。


 この一花先輩の濃いすぎるスキンシップ。

 これはいいわけ?」



「あぁ、一花の場合は

 言っても無駄だから」



そんな無情な一言で、

バッサリと終わった。




「さて、それではまた後で。

 ごきげんよう」



司の一言で、それぞれの朝練の場所へと別れる

分岐点についたことを知る。



「ごきげんよう、咲」


「ごきげんよう。

 練習、頑張ってくださいね」



マーチングバンド部の主将を務める

一花先輩を見送り、サッカー部の期待の星、司を見送って

私もテニス部の練習場所へと向かった。



制服から、部活用の練習体操服に袖を通して

二年生、三年生の先輩たちが練習している

テニスコートへと近づくと、球拾いをやりつつ

素振りや、壁打ちで自分の練習をこなしていく。



やがてチャイムの音が校内に響き、

私たち部員は朝練を終えて、

練習着から制服へと着替え

それぞれの教室へと向かった。



教室に辿り着いた頃には、

サッカー部の朝練を終えた司が

座席に座りながら、私に手を振った。



その五分後には、

朝のホームルーム、朝のお祈り。


そして一時間目の授業が続いていく。





私、譲原咲ゆずりはら さきルビを入力…





世間でいう超お嬢様学校

聖フローシア学院 高等部一年生 スポーツ特待生。



中学までは中学までは

普通の公立に通ってワイワイガヤガヤしていた私が

飛び込んだ未知の空間は女子校。



お祖父ちゃんに学費の負担をかけたくなくて

中学の担任と必死に考えて辿り着いた進学先が、

『スポーツ特待生は学費免除』を謳い文句にしていた

この学校だった。


運動神経にだけは自身があったし、

中学の部活動でも、好成績をテニス部で残していたから

部活ということで行けば、問題はなし。


まぁ、学業っていう面ではなかなか危なかったところもあるんだけど、

それでも中学の担任や、親友の司、そして一花先輩のおかげで

合格ラインを越えて、入学が許された。



入学早々から


『ごきげんよう』

『ごきげんよう』っと


にっこりと微笑んで交わされる、

この学院独特の挨拶にドン引きして

顔が引きつったのは言うまでもない。



そして対面する相手の名前を

優雅に【さま】付で呼び合う習慣。


呼びなれた司ですら、

学院のシスターの前では『司さま』って、

にっこり微笑みながら名を紡ぐ。


考えた当初は寒気が……。


だけど……私には、

この道しか選択肢はないんだ。



入学できたからには、

スポーツ特待生として成績を残して

三年間、学費免除の恩恵に縋って

無事に卒業すると、強く心に決めた。



それが……お祖父ちゃんと二人暮らしの私が

乗り越えないといけない道だから。



私が幼稚園の時に離婚した両親。


原因なんて小さすぎてわからなかったけど、

気が付いたら、

お父さんもお母さんもいつも喧嘩してた。



お母さんはお父さんの

浮気が原因だって言ったし、

お父さんもお母さんの

浮気が原因だって言ってた。




どっちにしても、

変わらないのは、両親が離婚したと言う事実。




両親の離婚後は、

お母さんに引き取られて

その日からお父さんに会うことはなくなった。



それでも小学校5年生までは幸せだった。



そりゃ、仕事が忙しくて一人の時間が多かったし

欲しいものも、なかなか買って貰えないって言う

寂しさはあったけど……私にはまだお母さんが居てくれるって

思えたから。



そんな温もりすら失ったのは

小学校五年生の夏。



母と二人で住んでいた

その家を出て私はお祖父ちゃんが住む

この町に引っ越ししてきた。



そして辿り着いた

お祖父ちゃんの家で私は捨てられた。



*



『咲ちゃん、お話があるの。


 咲ちゃんに

 とっても大切なお話よ……。



 ママ再婚することに決めたわ。


 ママ、新しいパパと幸せになるから、

 咲ちゃんは、

 お祖父ちゃんと暮らしてね』』




*



お母さんは……ゆっくりと、顔に笑みを浮かべながら

残酷な言葉を続けた。


その日を最後に、お母さんとも

会うことがなくなって、

お祖父ちゃんと二人だけの生活が始まった。




住み慣れた一菊いちぎくの地をを

離れて電車で二時間。



お祖父ちゃんと住む

この町は、塚本つかもとと言う場所が

私の居場所になった。



親友の司とは、

この塚本に来てからの付き合い。


公立の小学校に、

五年生の二学期から転校した私に

司は、とても優しかった。


塚本で昔から続く、

老舗デパートの会長の孫。



それが司こと、

射辺司いのべ つかさ



そして司を通して、

別の学校にずっと聖フローシアに通い続けていた

一花先輩とも親しくなった。



司が公立の小学校を選択していなかったら、

繋がらなかったえにし



神様は……嫌なことも沢山するけど、

それでも……司って言う大切な友達は

私に出逢わせてくれた。



机に肘をついて、

ペンを指先でクルクルとまわしながら

ホワイトボードと、

教科書を視線で追いかける。



再び時を告げる

チャイムが鳴り響く。



「はいっ。

 今日の授業はこれまでにします」


「有難うございました」


「ごきげんよう」


「ごきげんよう」




シスターの言葉に、生徒全員が立つと、

ゆっくりと一礼する。




授業と休憩を繰り返し

一日の授業が終わった放課後。



教室の掃除当番表を見て、

名前が入っていないことを確認すると

特待生の務めを果たすべく、

朝練をしたテニスコートへと

練習着に着替えて向かう。




私の入部したテニスの練習は、

学院外の、5キロのランニングから始まる。



・ランニング

・素振り

・先輩のコートの球拾い

・筋肉トレーニング

・乱打練習




入部したばかりの一年生は、

試合形式の練習をさせて貰えない。


だけど大会に出て成績を残さないと

学費免除が危うい特待生には、

どんな練習でも真面目にする必要があるわけで……。




必死に汗を流しながら過ごした放課後。

夕暮れ時の校舎に、

部活終了を告げるチャイムが鳴り響く。




「テニス部、練習終了。

 Aコートに整列してください」



テニス部のキャプテンを務める

三年生の依子よりこ先輩がB・C・Dコートの

一年生・二年生にむけて号令をかける。



慌てて三年生のAコートへと向かうと、

端と端で対面するようにコート周辺を部員が囲んだ。




「明日も朝練あります。

 夏の大会に向けて、最終調整に入る時期です。

 選抜メンバーの選出も間近ですので、

 皆さん、体調管理に気を付けながら練習に励んでください。


 今大会は、スポーツ特待生の一年生。

 譲原咲を、私のパートナーとして起用します。


 咲、ダブルス一緒に頑張りましょう」




突然の発表に驚きを隠せない私。


突き刺さる、

二年生・一年生の視線。




「有難うございます。

 依子先輩のパートナーとして恥じぬように

 精進したいと思います」


そう言って私は深く一礼すると、

今日の練習は、礼をもって終了した。


かなり疲労が蓄積されてるのを感じる体。


後片付けとコート整備を終えて

更衣室に戻り、着替えを済ませると

同じく部活が終わった司と合流した。



「お疲れ、司」


「お疲れ、咲。


 今日、先輩たちと

 寿々すず高のサッカー部と練習試合したけど、

 惨敗しちゃった。


 中学生時代に、咲が何度も助っ人してくれて

 サッカーの試合も勝ってるの見てたみたいで

 うちの先輩たち、

 咲に入部して欲しいって言ってたよ」


「そう言ってもらえるのは光栄だけど、

 ほらっ私、特待生だから。


 テニス部離れること出来ないし。


 でもテニスの部活の合間に、依子先輩が了承してくれたら

 サッカーの方も応援するから」


「だよね、大丈夫。

 

 言ってみただけ、先輩たちには上手く言っとくよ。


 咲の家の状況とか、全部知ってるから」


「うん、有難う。

 ごめんね」



体を動かすことが好きで、

それなりに反射神経や、運動能力もある私は、

中学生時代は所属していたテニス部以外も

時折、試合の時とかのみ要請されて助っ人に行ってた。



だからこうやって、聖フローシアに入学した後も

こんな風に、突然応援を頼まれることもある。


頼まれるのは、嬉しいんだけど

私の立場は、中学生の頃とは違うから

私だけの考えで、軽々しくOKまでは出せない。




それに……今日……

今大会の依子先輩のパートナーに指名された。



大丈夫。


ちゃんと成績を残して、

来期も学費免除をさせて貰う。


今日、その可能性が広がったから。



ふいに、外の方で

生徒たちの歓声が聞こえる。



「えっ?

 何かあったの?


 外の方、騒がしくない?」



思わず司の方を見て話しかける。


「まぁ、咲さま。

 ご存じありませんこと?


 今日の夜は、演劇部の方々の新作の舞台に、

 あのYUKIが曲を提供してくれるので、

 その打ち合わせにいらっしゃる予定なんですよ」




そうやってテンション高く、

私と司の会話に入り込んできたのは、

クラスメイトの奈津子さま。


奈津子さまを初めとする

生徒たちの集団が、

忙しなく校門のほうへと歩みを進める。



皆についていく気力もなく、

溜息を軽く吐き出して、

私はゆっくりと司と校門のほうへと向かった。



YUKIかなんだか知らないけど

私には縁【えん】なんてないわよ。





うちの家、時代劇以外

TVつかないんだから。



お祖父ちゃんが好むものは、

時代劇とニュース。



音楽なんて縁遠いんだから。





そんな私の溜息に気が付いた司は、

慰めるように肩をトントンと叩いた。






「皆居なくなったし、

 私たちはこのまま帰ろうか?


 一花は、咲と一緒に

 お茶したがってたけど」




なんて紡ぎだす司の言葉に、

思わず朝の強烈スキンシップ再びを想像して

打ち消すように身震いする。




「ごめん、もうこんな時間。

 

 今から山越えして、

 家まで帰らないとだから」


「別に山越えしなくても、

 駅からうちの車で

 咲の家まで送ってあげるのに」


「ううん。

 気持ちだけ貰っとく。


 ほらっ、体力作りも兼ねてるから。

 一花先輩に、宜しく」





司の前からも立ち去ろうとした瞬間、

司の指先が、私の指先を繋ぎとめて

私の動きを止めた。




「咲、髪に不思議なものがついてる」




そう言って、

髪に手を伸ばす司。




司の掌に残るのは、

一枚の桜の花びら。




「えっ?これって本物?」



透き通るような薄桃色の花びらが一枚。



「あっ、こっちにも……」



そう言った司。



鞄の中から、手鏡を取り出して髪についた

桜の花弁を映そうと開いたとき、

その鏡の中には美しい桜の木と桜吹雪の映し出される。



えっ?

何……?



慌てて、その鏡を閉じて

再びゆっくりと手鏡を開く。







何?




……桜……。



そこに映るのは

……誰……?





鏡の中で舞い踊る桜の花弁。


そして桜の木に座る

人のような存在が

チラリと映ったように見えて。




ちょっと、

鼓動が早くなってる。




再び、閉じて深呼吸して開くと

鏡に映るのはいつもの日常。




今度は、

私の顔だ……。





ほっと胸を撫で下ろして

私は鏡に映して、

髪を一通り確認して

鏡をゆっくりと閉じ鞄に片づけた。






「あれっ、さっきまであったばすなのに。

 桜の花弁失くなっちゃった」




小さく呟く司。



司は首傾げながら

狐に包まれたような表情を浮かべてる。





「見間違えたんだよ。

 

 だって、もうすぐ6月だよ。

 桜がこの時期に咲くなんて、ありえないよ」




司に言葉を吐き出しながら、

私は自分自身にも言い聞かせた。




「なんか不思議。

 なんだったんだろう。


 学院に来てるのが、

 YUKIって言ったから

 YUKIのマジックなのかな?


 YUKIに桜はつきものだし」




そんな司の話を聴きながら、

先ほどの鏡に映った幻想的な世界と

その中に佇む少年を思い出してた。




校門まで、二人で向かうと

その頃には、YUKIの姿も校門前にはなくて

生徒たちはそれぞれに、迎えの車に乗り込んで帰路に着く。



家の迎えの車に乗り込んだ司と一花先輩を見送って、

私はいつもの山の方へと歩みを進める。



コンビニの後ろから続く

わかりにくい山道を登り始める。



風を感じながら

太陽の光を感じて

ゆっくりと一歩一歩、

大地を踏みしめていく。



木の騒めきを聞き、自然を感じながら

歩き続けていると元気をいっぱい貰える気がするから。




弾み始める息をコントロールしながら、

山頂を目指す。




頂上に登りきった時

私はその場でゆっくりと深呼吸。



神聖な神社の空気を

肺いっぱいに満たして本宮へと向かう。



神社の空気は不浄のものがないみたいに

澄み切っていて疲れた体に、

沁み渡るように浸透していく。





境内の桜の神木の前。






朝と同じように、

鞄を置いて、

幹にゆっくりと手を添える。





『ただいま。

 今日も一日有難う』




誰も居ない神社で一人

桜の木に寄り添う。



幹に手を触れ目を閉じて

桜の木に意識を集中していく。



暖かな気がゆっくりと

体内に流れ込んできて

満ちていくのがわかる。




母に捨てられた私を

この桜の木はお祖父ちゃんと

一緒に見守ってくれたから。



桜の木は、

母にも似た存在で。



いつものスキンシップを終えた私が、

ゆっくりと目を開いたとき私の視界には、

辺り一面に桜吹雪が舞う

満開の桜の木が広がる。






えっ?


どうして?





なんで今、咲くの?




もうすぐ六月で、

梅雨に入るんだってば。



今年の桜はもう終わったはずなのに……

今更、狂い咲きなんて……

今朝は葉桜だったのに。




びっくりして瞼を閉じ、

もう一度ゆっくりと開く。



目前に広がりゆく

景色は変わらない。




私は右手で自分の頬を抓りながら、

その痛みを感じ取りつつ

ふと……視線を桜の木に移した。



桜の木の枝の上の方に

鏡の中で出会ったような気がする

あの少年が、遠くを見つめてた。


プラチナの髪がたゆとう

寂しげな表情の少年。



「貴方は誰?」




思わず私は尋ねてしまう。




朱金の瞳の少年は、

驚いた眼差しを見せて

視線を私の方へ向ける。




「君はボクが見えるの?」



少年は小さく呟いた。




私は小さく頷く。





吸い込まれそうな

……朱金の瞳。



透き通るような……

プラチナの髪。




そして頭には

……角が2本……。



人にあるはずのないものが、

その少年にはついていた。




「君の名は?」




鬼の少年は瞬時に、

私に一番近い枝へと移動して

朱金の瞳を輝かせて紡ぎだす。




「譲原 咲」


「……咲……。

 

 君はどうしてここに来たの?」


「この神社を下ったところに

 私は家があるから……」



「……そう……。


 君はこの神社の子なんだね」


「あなた……何者?」


「ボクの名前?」




夢現ゆめうつつ


その少年との会話は言葉として発しているのか、

発していないのかもわからないくらい不思議な感覚で……。



エコーがかっていて……滲んでいくようで。





「……和鬼かずき……」




鬼の少年の声はエコーが強くなり

フェイドアウトしていく。




辺りが眩しすぎるくらいに光、

目前には暗闇が広がった。




先程までの満開の桜も、

桜吹雪も今は何処にもない。





……ただ一枚……。



私の掌の中には桜の花弁が一枚。




その少年が自らの存在を

誇示するかのように残されていた。


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