第三章: 『名前という檻 ―― 相反する価値観の衝突』
同居生活が一週間を過ぎたある日、文枝は千尋に言った。
「明日、講演会があるの。良かったら一緒に来ない?」
千尋は目を輝かせた。
「もちろんです!」
翌日、二人は東京の文化会館へと向かった。会場には老若男女問わず、多くの人々が集まっていた。文枝は「現代における死生観」というテーマで講演を行うという。
千尋は客席の最前列に座り、文枝が登壇するのを見守った。普段は穏やかで控えめな文枝だが、講演台に立つと、その姿勢はより凛々しく、声には不思議な力強さが宿った。
「『死』とは何か――この問いは人類が抱え続けてきた最大の謎の一つです」
文枝の言葉が会場に響き渡る。千尋は身を乗り出して聞き入った。
「仏教では『無常』、キリスト教では『神への帰依』、イスラム教では『神の意志への服従』、ヒンドゥー教では『輪廻と解脱』。表現は違えど、そこには共通する智慧があります。それは『自己という幻想からの解放』という視点です」
文枝は聴衆を見渡しながら続けた。
「我々は『私』という存在に執着します。私の名前、私の業績、私の評判……しかし、死の前ではそれらはすべて無に帰します。では、何が残るのでしょうか?」
千尋はその問いに、自分なりの答えを心の中で呟いた。「私の言葉が残る。私の名前と共に」
しかし、文枝の結論は違った。
「残るのは、私たちが他者に与えた影響、触れた心、分かち合った愛です。名前さえ忘れられても、その波紋は永遠に続いていくのです」
講演の後、多くの聴衆が文枝のサイン会に並んだ。千尋も手伝いとして傍らに立ち、本を渡したり、写真撮影の補助をしたりした。
一人の若い女性が文枝に近づき、涙ぐみながら言った。
「先生の『無常を生きる』を読んで、母の死を受け入れることができました。本当にありがとうございます」
文枝はその女性の手を優しく握り、静かに頷いた。言葉は少なかったが、そこには深い共感があった。
サイン会が終わり、二人が会場を出ようとした時、中年の男性が声をかけてきた。
「中澤先生、文藝春秋の佐々木です。以前お願いしていた特集記事について」
「ああ、佐々木さん」
文枝は微笑みながら男性と握手した。
「特集記事の件、考えていただけましたか? 『現代文学の巨匠・中澤文枝の90年』というタイトルで」
文枝は少し困ったような表情を浮かべた。
「申し訳ありませんが、自分を特集する記事は辞退させていただきます。作品について語ることはやぶさかではありませんが」
編集者は残念そうな表情を浮かべたが、すぐに切り替えて言った。
「では、作品論という形で進めましょう。ただ、読者は中澤先生ご自身にも興味があるのです。『詠み人知らずになりたい』という発言も話題になっていますし」
千尋は会話を聞きながら、複雑な思いを抱いていた。文枝の姿勢は一貫している。名声や自己顕示を拒み、作品そのものを大切にする。そんな文枝に、千尋は憧れと反発の入り混じった感情を抱いていた。
アパートに戻る電車の中、千尋は思い切って尋ねた。
「文枝さん、どうして自分を特集する記事を断ったんですか? すごく貴重な機会だと思うのに」
文枝は窓の外を見ながら答えた。
「私の顔写真や私生活より、私の言葉を読んでほしいの。人は往々にして、作者の人生や外見に興味を持ち、肝心の言葉がおろそかになることがある」
「でも、作者を知ることで、作品をより深く理解できることもあります」
「それは一理あるわね。でも、私は敢えて『作者の死』を選びたいの」
「作者の死?」
「ロラン・バルトという思想家の概念よ。テキストが作者から解放されたとき、読者は真に自由な解釈ができるという考え方」
千尋は眉をひそめた。学校では習っていない概念だった。
「でも、それって無責任じゃないですか? 作者がいなくなったら、作品の意図も分からなくなる」
文枝は穏やかに微笑んだ。
「作品は一度書かれたら、作者の手を離れるの。読者一人ひとりが、自分なりの意味を見出す。それこそが文学の素晴らしさではないかしら」
千尋は黙り込んだ。文枝の考え方は、彼女の価値観と真っ向から対立していた。千尋にとって、創作とは自分の名を世に残すための手段でもあった。しかし、文枝はその考えを根本から否定している。
アパートに戻ると、千尋はスマートフォンを取り出し、自分の小説投稿サイトをチェックした。文枝が彼女の作品にコメントを残してくれていた。
「情景描写が生き生きとしています。主人公の内面の葛藤がより深く描かれるといいですね」
千尋はそのコメントを何度も読み返した。国民的作家からの直接のアドバイス。これほど価値のあるものはない。しかし、同時に違和感も覚えた。文枝のコメントには名前がなく、「匿名」となっていた。
「やっぱり一貫してる……」
千尋は小さく呟いた。その夜、彼女は文枝のアドバイスを参考に、小説を書き直すことにした。
翌朝、千尋が学校に行っている間、文枝はアパートで執筆を続けていた。そこに一本の電話が入った。
「もしもし、中澤です」
「先生、編集部の井上です。原稿の件なのですが」
文枝は万年筆を置き、電話に集中した。
「はい、もうすぐ完成します」
「ありがとうございます。それと、もう一件お話があって」
編集者の声には明るさがあった。
「文藝年鑑の『今年の作家特集』で先生を取り上げることになりました。インタビューの日程を」
「申し訳ありませんが、それはお断りします」
文枝の声は柔らかいながらも、芯があった。
「また、ですか……先生、これは本当に貴重な機会です。特に先生の年齢を考えると」
「私の年齢?」
文枝は少し声のトーンを上げた。
「九十歳だからこそ、今のうちに記録を残しておくべきだという意味ですか?」
「いえ、そういう意味ではなく……」
「私の言葉は本の中に既に残っています。それ以上は必要ありません」
文枝は丁寧に、しかし断固として断った。電話を切った後、彼女は深いため息をついた。
その様子を、学校から早く帰ってきた千尋が目撃していた。
「ただいま……あ、何かありました?」
文枝は疲れた表情で微笑んだ。
「ちょっと面倒な電話よ。お帰りなさい。今日は早いのね」
「はい、午後の授業が休講になって」
千尋は学校のカバンを置き、文枝の隣に座った。
「さっきの電話、何かあったんですか?」
文枝は少し躊躇った後、正直に答えた。
「作家特集の依頼を断ったの」
「また断ったんですか? どうしてそんなに頑なに断るんですか?」
千尋の声には苛立ちが混じっていた。
「私は言葉を残したいだけなの。私という人間は重要じゃない」
「でも、それって逃げじゃないですか?」
千尋の言葉に、文枝は驚いた表情を浮かべた。
「逃げ?」
「はい。責任から逃げているんじゃないですか? 作家には読者に対する責任があるはずです。それなのに『私は重要じゃない』って言って、インタビューも断って……それって、本当は批判を恐れているんじゃないですか?」
文枝は黙って千尋の顔を見つめた。若い女性の目には挑戦的な光があった。
「なるほど」
文枝はゆっくりと言った。
「確かに、あなたの言うことも一理あるわ。でも、私が恐れているのは批判ではなく、言葉が曇ることよ」
「どういう意味ですか?」
「例えば、ヘミングウェイの『老人と海』を読むとき、あなたはまず何を思い浮かべる?」
「えっと……老人が大きな魚と格闘する物語……」
「そう。でもヘミングウェイが晩年、自殺したことを知っていたら? 彼がアルコール依存症だったことを知っていたら? その知識が、物語の純粋な受容を妨げることはないかしら」
千尋は考え込んだ。確かに作者の biografia を知ることで、作品の読み方が変わることはある。しかし、それは避けるべきことなのだろうか。
「でも、それも含めて作品じゃないですか? 作者の人生も、作品の一部だと思います」
「面白い考え方ね」
文枝は千尋の反論に興味を示した。
「でも、そうすると芸術は自己表現になってしまう。私は芸術とは、自己を超えたものだと思うの」
千尋は反論しようとしたが、文枝の言葉には重みがあった。彼女は一時的に言葉を失い、口を閉じた。
その夜、千尋はインスタグラムを更新した。「偉大な作家と価値観の衝突。でも、私は私の道を貫く」という投稿に、いつもより多くの「いいね」がついた。彼女はそれを見て満足げに微笑んだが、心のどこかでは、文枝の言葉が引っかかっていた。
同じ頃、文枝は夜の習慣である座禅を終え、日記を書いていた。
「今日、千尋さんと議論をした。彼女の中にある強い自己主張、それは若さゆえのものか、それとも現代の特徴なのか。私の若かった頃も、名を残したいという欲求はあった。しかし、年を重ねるにつれ、名前よりも言葉の方が大切だと気づいた。千尋さんもいつか理解してくれるだろうか」
文枝はペンを置き、窓の外の月を見つめた。満月が東京の夜空を照らしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます