第7話 アイヌとのかかわり



 小弟ハエゾ(蝦夷)に渡らんとせし頃より、新国を開き候ハ積年の思ひ一世の思ひ出ニ候間、何卒一人でなりともやり付申べくと存居申候。龍馬


 意味を要約すると「私は蝦夷(現北海道)に渡り新国を開拓して職を失った士族(華族に属さない武士)の就職先として、更には未知の土地を切り開き立国日本の人々の為に、そしてロシアからの追撃の警備の為に」


 これは、坂本龍馬の手紙の一節である。


 また坂本龍馬はこの様な名言も残している

「世に生を得るは事を成すにあり」

 この言葉は、人生には意味があり、その意味は何かを成し遂げることにあるということを意味している。


 坂本龍馬は北海道の父とも言うべき人物。


 坂本龍馬は暗殺される前に新天地として蝦夷地の開拓を構想していたそうで、実現はしなかったものの、遺志を引き継いだ養子である姉の子供の高松太郎(後の坂本直)が明治新政府の役人として五稜郭の箱館奉行所赴任し、その子孫たちも北海道に代々住み続けている。甥の坂本直寛氏(5代目)が龍馬の遺志を継いで北見に入り、その後浦臼に入植し、一族共々北海道の礎となった。


 「屯田兵制度」を北海道に実施するという考えは、江戸時代が終わり明治初年から様々な方面に生まれていた。1867年(慶応3年)、坂本龍馬は大政奉還 (武士の世の中が終わり江戸時代が終わりを迎えたので、朝廷に権力を返す)で武士が職を失うことを予想し、その力を北海道開拓に活かすことを考え、エゾ(北海道)に渡り龍馬は、同志榎本武揚と新しい国をつくることを述べていた。不要になった徳川家の家来を移して(ロシアの追撃)北方警備と開墾に従事させようとする考えは、明治期の武士榎本武揚の考えだった。同志の2人は樺太と北海道の兵備の必要制を訴えていた。こうして…相次いで失職する武士の授産のためとして、屯田兵を設けよとの意見が巻き起こった。


 明治政府が蝦夷地開拓の方針を打ち出しその計画が確立したことにより、1869年(明治2年)7月8日に設置した日本の官庁を開拓使という。ついで西郷隆盛が1871年(明治4年)から1873年(明治6年)にかけて士族(華族になれなかった武士)による北方警備と開拓を主唱したが、辞職に追い込まれ更には西南戦争で自刃した為、彼の影響で開拓次官の黒田清隆が1873年11月に太政官(政府の最高機関)に屯田制を申し立てた。その目的は樺太と北海道の兵備の必要と開拓目的だったが、太政官は黒田の提案に賛成し、1874年(明治7年)に屯田兵例則を定めた。1875年(明治8年)5月、札幌郊外の琴似兵村への入地で、屯田が開始された。


 ※「屯田兵制度」日本の軍政史上において、また植民政策(アイヌ人)としても非常に特異な制度であり、北方の防備・開拓を目的とすると同時に、失職した士族の救済も目的としていた。

 「屯田兵」(とんでんへい)とは、明治時代に北海道だけに存在した、開拓をかねた軍組織のこと。


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 1875(明治8)年5月7日、日本とロシアの間で樺太・千島交換条約が締結された。これは、それまで日本とロシアの「雑居地」とされてきた樺太(サハリン)をロシア領、択捉島(えとろふ)北側のウルップ島からシュムシュ島に至る18島を日本領とするものだが、これは決して日本にとって好条件と言えるものではなかった。


 だが、そこに暮らす先住民族(樺太アイヌ、千島アイヌ、ウィルタ、ニブフなど)には何の相談もなく2つの帝国間で決められた。こうして…樺太アイヌ民族は翻弄されることになった。


 この条約では、樺太に住む先住民族は3年の猶予期間の内に、自分の国籍を選ぶことができるとされたが、しかし実際には1875(明治8)年に条約が締結されてから3か月程度の短期間で、開拓使(日本の官庁)は樺太南部アニワ湾のアイヌに日本移住を求めた。その結果、同年9月841名の樺太アイヌが、ひとまず樺太の対岸に当たる宗谷に送られた。このために家族が離れ離れになるケースもあった。


 開拓長官・黒田清隆は当初から樺太アイヌを石狩平野内陸部の対雁に移し、そこで農耕に従事させる計画を立てていた。


 その計画を知った、樺太アイヌ人たちは強硬に反対した。

「自分たちは樺太の海岸部で漁業をして暮らしてきたのであって、慣れない内陸の地で農業をすることなどできない。また密集して住むことになれば、伝染病の被害を受けるおそれがある」


 この声を現場で聞いた、担当の松本十郎・大判官は、北見地方なら、豊富な漁業 資源を背景に、彼らの希望に沿った暮らしができると黒田開拓長官に進言したが、黒田長官はそれには耳を貸さず、対雁への移住を強行した。


そのやり口は酷いもので、宗谷からの移住を嫌がり、逃げようとする樺太アイヌを、30名の警官隊が銃を向けて威嚇し、大型船・玄武丸から空砲を発射し、武力をもって無理矢理乗船させた。


 だが、その船中で悲劇が起こった。樺太アイヌのリーダーの一人である、楠渓町の乙名・此兵衛(アツヤエーク)が、開拓使のこの強硬策とそれに反対する同胞との板挟みになり、激しく苦悩した末に、この船中で「血を吐いて」死んでしまった


 また開拓使官吏としてこの樺太アイヌ移住の件を担当した松本十郎は、黒田長官による対雁移住方針の理不尽さに抗議の意を表明した上で、1876(明治9)年に辞職した。


 1876年(明治9)年7月に、強制的に対雁に移住させられた800名以上の樺太アイヌの多くは、1882(明治15)年に開拓使が廃止されると、内陸の対雁から海岸部の来札(らいさつ)や厚田に次第に居を移し、対雁移民共救組合を結成して、漁業に従事するようになった。


 だが、残念なことに1879(明治12)年ごろおよび1886(明治19)年と翌年にコレラと天然痘が蔓延し、対雁と来札、厚田の樺太アイヌから300名を超える死者が出てしまった


 同寺の過去帳には319名の死者数となっているが、来札、厚田に移っていた樺太アイヌの死者はそこに含まれていない可能性があり、死者数はそれ以上だとも考えられている。


「もとより対雁部落以外に1人の知己故旧(古くからの知り合いや仲間)を持たぬ彼等として、逃げたとて身を寄せるべき処もなかった。どうすることもできない窮地に追いつめられてしまった彼等は、石狩川口に出で舟によって、旧郷樺太を指して逃げようと考えた。一同の足は期せずして石狩海岸へさして飛んだ。置き捨てられたものは夢中になって後を追ったが、病患に堪えかねて途中でバタリバタリ斃れていった。海路逃げようとて舟の設備のある筈はない。石狩川口まで逃げてはきたものの、いずれもここに停った。かくて病死する者、実に400余名に達し、移住土人の大半は対雁原野の露と消えた」


 1961年のこと。北海道電力火力発電所建設工事のため、対雁の坊主山を崩したとき、大量の人骨が出土した。「しかしそれは誰にも顧みられることなくブルドーザーのキャタピラーにふみしだかれ土砂に埋められた」





  1895年の三国干渉後、ロシアとの間で満洲(中国東北部)と朝鮮半島の支配権を巡る争いが原因となって引き起こされ、陸戦では満洲南部の遼東半島や奉天が主な戦場となり、海戦では日本近海にて大規模な艦隊戦が繰り広げられた。最終的に両国はアメリカ合衆国政府の斡旋の下で、講和条約としてポーツマス条約を締結した。


 講和条約の中で日本の朝鮮半島における権益をロシアが認め、ロシア領であった樺太の南半分が日本に割譲された。また日本はロシアが清国から受領していた大連と旅順の租借権、東清鉄道の旅順 - 長春間支線の租借権も獲得した。しかし賠償金を獲得するには至らず、戦後に外務省に対する不満が軍人や民間人などから高まった 



こうして…1905(明治38)年、日露戦争後に南樺太が日本領となるや、残された樺太アイヌのほとんどが帰郷する。しかし強制移住から時はすでに30年が経っており、故郷の集落(コタン)にはすでに違う人が住んでいたりして、もとの暮らしに戻るというわけにはいかない。


 だが、その後には1945(昭和20)年に日本が第二次世界大戦に敗戦したことによって、1945年にソビエト連邦が日本に参戦し、南樺太と千島列島・北方領土を占拠、現地に居住していたアイヌは残留の意志を示したものを除き本国である日本に送還された























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