第82話
「ちょっと楓! あんたいつまで寝てんの。学校遅刻するよ!」
お母さんが扉を開いたことで、この薄暗い部屋に光が入ってくる。
正直、起きるどころか、話すことすら億劫ではあるけれど、このままぼーっとしていても意味はないから、口を動かす。
「今日、休む」
「‥‥ええ?」
「あんま体調良くない」
お母さんの深いため息が聞こえてくる。
私はズル休みをしようとしている。お母さんもそれに気付いているだろう。
「‥‥わかった、学校に休みの連絡しとくから。お母さん、仕事行ってくるけど、朝ご飯きちんと食べなさいよ」
「‥‥うん」
開けるときとは正反対の緩やかさで扉が閉められる。光が部屋から逃げていき、扉が完全に閉められた頃には、頼れる明かりはカーテン越しに入ってくる太陽光だけになる。
でも、私が頼っていた期待という光は完全に消え去ったのだ。
薄暗い部屋の中、更に暗い闇で染まっているこの心が頼れる光はどこにもない。
わかっていた。わかっていたはずだった。
夢野が私の明らかにやりすぎな行動を全て許してくれるのは、私を好きだからじゃなくて、ただ夢野がそういう性格ってだけだ。
もし、私以外の誰かが私と同じようなことを頼めば、夢野はそれを許してしまうだろう。
私以外の誰かと、手を繋いで、抱き締め合って、匂いを嗅がれて、キスをする。
「違う‥‥違うって、そうじゃない」
夢野はそんな軽いやつじゃないって知っているはずだ。
私となにかをするときはいつだって緊張しているし、だからなにをするときも勇気を頑張って出しているんだ。
夢野は確かに頼みを断れないタイプだけれど、それは断る勇気がないだけで、決して自分の気持ちを持っていないというわけじゃない。
絶対に嫌なことを頼まれたら、勇気を出して断るはずだ。そのはずだから、私とああいうことをしてくれたのだって‥‥‥
その先が詰まってしまう。
自信を消失してしまっていた。
夢野が軽いやつなんて思ってないけれど、夢野は私の頼みを断れないだけで‥‥‥
ふと、枕に滴り落ちる自分の涙に気付いて、これ以上余計なことを考えるのはやめた。
体を横向きにしていると涙が落ち続けてしまうから、仰向けになる。それでも、溢れた涙が目から逃げてしまうから、逃げないように瞼で蓋をした。
―――夢を見たかった。見れなかった。
こういうときぐらい、都合の良さを詰め込んだ夢に浸っていたかった。
寝て、時間を潰したらあっという間に昼になる。そんなことを、夢野とのトーク画面を見るために手に取ったスマホで知ることになる。
トーク画面をかなり前まで遡っていく。
初めのころはメッセージでおはようと送っていた。
それがいつしか電話でおはようと言うようになっていて、それも私からじゃなくて夢野からに変わっていった。
更にそれも変わって、朝の玄関先で直接言ってくれるようになっていた。
いつしか、私にとって夢野のおはようは、この世界に今日も夢野がいるという安心になっていた。
夢野が現実にいてくれる。私の傍にいてくれる。
‥‥と思っていた。でも、もしかしたら私はただ夢を見ていただけなのかもしれない。
これまでの夢野との思い出は全て現実のもののはずなのに、確信が‥‥というより、ただ単純に自信が消失していて、そのせいであれが現実だったのか信じられない。
現実の夢野が私とキスをしてくれるわけないよな、なんて。
馬鹿みたいだ。そんなの、夢野の勇気を否定するようなものだ。
『会いたい』
『顔が見たい』
『好き』
そんな言葉を縦三段に並べてメッセージ欄に打ち込む。
理性どころか、思考すら通さず衝動に従って打ち込まれた自分のメッセージを見て、焦ってメッセージを消す。
このメッセージ欄はまるで夢のようだ。
送らなければ夢のままでいてくれる。送ったら夢野がそれを叶えてくれて夢は現実になる。
でも、全ての夢を叶えてくれるわけじゃない。
会いたいと送ったら、会いに来てくれるだろう。
顔が見たいと送ったら、さっきと同じ意味かもだけれど、どんな方法でも顔を見せてくれるだろう。
じゃあ、好きって送ったら、どうなるだろうか。そう考えたけれど、これだけはダメだ。この言葉をそんな簡単に伝えるべきじゃない。もっと、しっかりと、せめて面と向かっていつか、その方が良いと思う。
「好き‥‥か」
呟く。
「夢野‥‥沙羅のことが好きです」
また呟く。
伝わることなんてないけれど。
伝わっても困るけれど。
「あっ‥‥はは」
思わず笑ってしまった。自分の愚かさに。
夢野は私の頼みを聞いてくれているだけだ。そんな状態で好き、なんて言ったら、気を使って付き合ってくれてしまう。お互いの気持ちが一致しない状態で付き合ったところで、いつか関係は崩壊して、結果的に友達のときよりも縁遠いものになってしまう。
そんなことにだけは絶対になりたくない。
どんな形でもいいから、夢野には私の傍にいて欲しい。
だからって、他の人のものにはならないで欲しい。
「なにそれ」
理不尽だ。わがままだ。
結局、私は夢野に都合良くいて欲しいだけの、自己中女だった。
メッセージはなにも送れず、トーク画面を眺めながらスマホをぎゅっと握りしめる。
「ゆめの‥‥‥ゆめの‥‥‥」
絞り取られたように心から滲み出てきたものが言葉に変わって口から出てくる。
名前を呼んでいるだけだけれど、そこにはいろんな意味が込められていて、会いたいとか、好きとか、傍にいて欲しいとか、抱き締めたいとか、キスしたいとか、そういうのがいっぱいいっぱい詰まっていた。
気付けば時刻は四時過ぎ。そろそろ夢野は家に帰った頃だろうか。
私が学校を休んだことに関して、心配してくれているだろうか。してくれているだろうな、夢野だし。でも、夢野から一切連絡がないのはどうしてだろうか。やっぱり、私に幻滅してしまったのだろうか。あんなキスしたいだけの変態女嫌だよね。知ってる。わかってる。ごめん。なんでかわからないけど、いや本当はわかってるんだけど、夢野をずーっと感じていたくて、とりあえずなんでも良いから夢野と繋がっていたくなるの。個人的には手を繋ぐとキスが好きで、この二つは特に繋がりを感じられるの。別に他のが嫌いってわけじゃないからこれからもして欲しいんだけど、わがままでごめんね。なんでこんなことをしてしまうのかって言うと、それは私が夢野のこと‥‥‥
―――プルルルルル。
電話が鳴って、思考に浸っていた意識が一気に画面に向けられる。
夢野からだった。
泣いていたことがバレないように息を整えて、電話を取る。
『月宮さん?』
「あ、もしもし夢野? どうしたの?」
『今日、休んでたから。大丈夫かなって』
「ああ‥‥うん、大丈夫大丈夫」
嘘だ。
『本当?』
「ほんと、ほんと。私が夢野に嘘つくわけないじゃん」
『結構ついてるけど‥‥』
「あれ? そうだっけ。あはは。いや、今回はほんとだから。マジマジ」
『‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥』
「ええっと、夢野さん?」
『月宮さん』
「なに?」
『ビデオ通話にしても良い?』
夢野がビデオ通話に切り替えて、顔が見える。でも、私は‥‥‥
「う~ん、別にダメってわけじゃないけど、する必要なくない?」
『ある』
「‥‥は、はあ? ええっと、どういう理由で?」
『―――月宮さんの顔が見たいから』
「は、はい!?」
声がでかくなる。
いや、それだけは本当にダメだ。ビデオ通話だけは絶対にダメなのに、そんなことを言われたらせざるを得なくなる。
『ダメ‥‥?』
「ダメ‥‥じゃ、ないけど」
本当はダメだ。
ダメなんだ。
本当に。
だって、
『月宮さん‥‥‥』
「‥‥‥‥‥‥‥」
そんなことをしたら、
『泣いてるの?』
バレちゃうから。というか、バレたから。
じゃあ、なんでビデオ通話のボタンを押したんだ私は。
本当に、馬鹿だ、私。
『‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥』
画面越し、夢野の顔が見える。背景から自室のベッドの上にいるのがわかる。長い沈黙に、あの顔、そうあのなんとも言えない顔。
最近はしていなかった、五月頃の私が夢野を起こすなどしたときに向けられていた顔。そして、つい最近、私が『なんで私とキスしてくれたの』なんてきいてしまったときに夢野から向けられた顔。
その顔の意味を未だ知らずにいる。
やっぱり、私に幻滅した顔だったのだろうか。
それなら、もっと早く気付いていたかったな。それなら、早く諦められたかもしれないのに。
『月宮さん、待ってて』
「‥‥え?」
突然、夢野はそう言い残すと、ビデオ通話をしている画面から消えた。
わけもわからず、誰も映っていないビデオ通話の画面を眺めている。
なにが、待ってて、なんだろうか。
私はまだなにかを待っててもいいのだろうか。
そんなこと言われたら、期待してしまうけれど、それでも良いのだろうか。
わからないから、とりあえず待つことにした。
一応、玄関先で。そういう意味なのかはわからないけれど。
体感、一時間ぐらい。実際には十分も経っていないだろうけれど。
それぐらいの頃にインターホンが鳴った。玄関を開けると、そこに夢野が立っていた。走ってきたのか、額の汗が顎まで垂れて、地面に落ちている。荒れた呼吸を整えながらこちらを見ている。
玄関が閉まり切るよりも先に夢野が中に入ってきて、私にぐんぐんと迫ってくる。
一歩後退りしてしまうけれど、それよりも速く夢野が近づいてきて、彼女の手が伸びてきて、私の首元を囲うように抱き寄せられる。
衝突するような勢いで、それでも衝突したときは柔らかで。
唇を重ねた、というより、重ねられた。
言い換えると、夢野にキスをされた。私からじゃなくて、夢野から。
体感、一秒ぐらい。実際には五秒ぐらいだったかもしれない。
それぐらいしてから夢野は唇を離して、未だ私の首元を手を回しながら俯いて言う。
「その‥‥月宮さんの頼みを聞くのは、私が断れない性格だからっていうのもあるかもだけど‥‥それでも! 月宮さんの頼みだったら結構聞いちゃうっていうか、他の人だったら絶対に断ってるような頼みでも、月宮さんの頼みだったら聞いちゃう、みたいな感じで。全然嫌とかじゃなくて、むしろ‥‥ええっと、そういうことを言いたいんじゃなくて、とにかく、月宮さんの頼みはいっぱい聞きたいと思うから、これは本当なので、もっといっぱい頼んで欲しくて‥‥‥その、勘違いさせてたらごめんって言うか、その‥‥‥」
まとまりのない言葉を、無理やり紡ぎ出していくみたいな夢野の気持ちに、心臓が揺れる。心が揺れ動いた。
「要約すると?」
夢野が私をまっすぐ見る
「月宮さんは―――私の大切で特別な人だから」
それがはっきりと聞こえた。まっすぐとした瞳だった。
夢野はそんなことを言っても良いのだろうか。そんなの言われてしまったら、私は結構普通にすごいことを頼んでしまうかもしれないけれど。
そんなことはどうでも良くて、それより夢野がその気持ちを言葉にして私にきちんと伝えてくれたことが嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて。
「ぎゅう~~!!!」
と言いながら、夢野を思いっきり抱き締めた。
お互いの心がぐっと近づいて、なんか夢野の心をわかった気になってしまう。
夢野は私のことが好きだ、と思う。そう確信できる力がある。なんかよくわからないけれど。
でも、
「夢野、頼み事しても良い?」
「ぬぁに?」
夢野が勇気を出せるそのときまで、
「今日、うちに泊まって欲しい」
もう少しだけ片想いをしておくことにした。
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