ラブミーレスポンス
優涼 雪
第1話 春人という名の
空の色は水色とも白とも言えない曖昧な色だった。
それをぼーっと見つめる
強く吹き荒れる春の風に髪をかき乱され、今まで体験したことのない朝の人の波に揉みくちゃにされ、挙句、履きなれないローファーのせいで踵が擦れてしまった。
駅の近くのベンチに腰掛け、思う。入学式、始まる時間はまだ先だが、やはり早めに家を出てよかった。
春人は途中で買った天然水を喉を鳴らして飲み、ため息をついた。実家がある福岡とは訳が違う。
あんな山奥の田舎からやってきた春人からするとそこいらじゅうに立っている高いビルはどこか遠い未来の建設物に見えた。
まだ1日は始まったばかり。学校にさえ着いていない。こんな東京のど真ん中で、一人ぼっちだ。
学校に行くまでにどれくらい神経を擦り減らすんだろう。少なくとも、この踵の倍はボロボロになること間違いなしだ。春人はもう一度大きなため息を吐いてゆっくりと立ち上がった。
ここで立ち止まっていても、まったくもって意味がないことは明確だったからだ。
気疲れするのは最初から分かりきっていることだった。そんなこと、福岡の実家に家族を置いて行く時から覚悟していた。
父には生活費や学費を負担してもらい、母には背中を押され、兄弟たちからは惜しまれた。
俺は愛されている。応援されている。何よりも、夢への一歩を踏み出させてくれたことを感謝するべきだ。
こんなところで、こんなことで挫けている場合ではない。
揉みくちゃにされるなら好きなことでがいい。
神経を擦り減らすのは、絵を描いている時だけでいい。
ど田舎から出てきた一匹の小鼠の歩幅は、少しずつ大きくなっていった。
東京のスクランブル交差点を渡って、相変わらず強い春の風に気圧されながら前に進んだ。
春人が向かう「藍坂総合高等学校」は、さまざまな分野を専攻する学科が展開されているマンモス校である。学科は全部で六つ。
一つは春人も通う美術科だ。
その他、理数科、言語学科、音楽科、総合ビジネス科、デジタルデータ(DD)学科である。
全学科共通で募集人数は四十人。一学年二百四十人。三学年合わせて七百二十人だ。
都内でもなかなかに有名な高校で、偏差値は六十七。倍率もかなり高いので四十人という狭き門を潜るためにはかなりの努力が必要だった。
春人が福岡の中学校で同級生にそんな話をすれば、
「そげんとこ俺たちには無縁やな、こげん田舎じゃ無理や」と返される。
確かに状況は最悪だった。どこを見渡しても山、山、畑、山。
町までは歩いて二時間半はかかる。
学力のレベルもそこまで高くなかった。
春人本人でさえ、言っているだけという感じが拭えず、「無理だろうな」という気持ちを抱きながら過ごしていた。
そもそもそこまで本気で行こう!とさえ思っていなかった。
その高校のこともたまたま進路の本で読んだだけだったから、気持ちが足りていなかったのだ。
きっかけは母に連れて行ってもらったある画家の個展だった。
小さい頃から絵は好きだったからイラストはたくさん描いていたけど、「美術」と出会ったのはそれが初めてだった。
衝撃だった。無数の色の重なりが一つの形を作り、それが絵になっていた。これが絵だった。
胸を刺された。
これが絵だ。
俺が今まで描いていたものは、絵なんかじゃない。
目の前に広がる、額に収まっているのに、世界全てがその画家の色使いで満ちていた。
それは、煌々と煌めく美のいのちだった。
春人は胸を掻きむしられた。
自分も、美術がやりたい。俺も、画家になりたい。
画家になって、個展を開きたい。自分の世界を色で表現したい!絵が描きたい!!
そんな衝動が、春人を突き動かした。
自分の進路を見つめ直した。
美術の勉強がしたい。なら、どうすればいい?
それに精通した高校に行こう。
この狭い田舎の中では、うごめくことしかできない。広い世界へ出ていきたい。
頭をよぎったのは、進路の本で見たあの高校だった。
そこからは死ぬほど努力をした。
自分で参考書を町の方へ買いに行って、実技試験のためにデッサンの練習も欠かさなかった。
春人の本気な様子に、クラスメイトも彼を応援するようになった。家族も全力でサポートしてくれた。
合格発表はインターネットでだった。
涙で視界が震えてよく見えなかったけど、合格の青が、確かに春人の瞳を貫いた。
_________
その時の感動を、春人は坂を登りながら思い出していた。
そうだ。そうだ。
俺は、夢を叶えに遠路はるばるやってきたんだ。
ここに。
今、春の風が吹き荒れる中、春人は藍坂総合高等学校の門をくぐった。
「初めまして…」
それ以上は何も言えなかった。感動で涙が溢れそうだった。
初めまして、俺の人生。
ここから始まるんだ。
やっと、ここまで来た。俺はここで、夢を叶える準備をする。
遅咲きの桜の花びらが、激しく春人の頬を吹き抜ける。
始まるぞ。
そう言っているようだった。
大きく構える高校を前にして、春人は強気な笑みを浮かべた。
先程まで混沌に塗れていた春人の瞳は、確かに、その姿を捉えていた。
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