第10話 「勇気をください」

― 一歩踏み出すための小さな奇跡 ―

 春の終わりを告げる風が、神社の石畳を優しくなぞる。

 桜の花びらがまだ枝に名残を留め、地面には淡いピンクの絨毯が広がっていた。

 新学期のざわめきが少しずつ落ち着き、町の空気にも静けさが戻りつつある。

 境内には朝日が差し込み、やわらかな光の中で俺――ご神木は今日も誰かの祈りを待っていた。


 その日、俺の前に現れたのは、小柄でおとなしい少女だった。

 制服のスカートは新品で、真っ白なソックスがきちんと折り返されている。

 彼女は拝殿の前に立ち、何度も深呼吸を繰り返していた。


 少女――名は瑞穂。

 この春、中学校に入学したばかり。

 新しい環境に胸を躍らせたものの、人前で話すのが苦手な瑞穂にとって、毎日は不安の連続だった。

 友達ができず、クラスでもいつも一人で本を読んでいた。

 話しかけてくれる同級生がいないわけじゃない。

 けれど、瑞穂はいつも、返事のタイミングを逃し、小さな声しか出せなかった。


 その日は、クラスで「自己紹介をしましょう」という時間があると知らされていた。

 朝から心臓が痛いくらいに緊張し、何度も原稿を書き直していた。


「……どうか、勇気をください。ちゃんとみんなの前で話せますように」


 小さな声で、でも真剣に祈る瑞穂。

 その両手は小さく震えている。

 俺はそっと葉を揺らし、彼女の祈りに応えることにした。


 ただし、“奇跡”という名の劇的な力を与えるのではない。

 彼女が一歩踏み出せるように、小さな“幸運”と“きっかけ”を、そっと道にまいてやるだけだ。


 その朝、瑞穂は通学路で小さな四葉のクローバーを見つけた。

 思わず足を止め、しゃがみこんでそれを摘み、ポケットにしまった。

 「少しだけ、いいことがあるかも」――そんな気持ちが胸に灯った。


 教室に入ると、クラスの女の子が「あ、瑞穂ちゃんおはよう」と声をかけてくれた。

 瑞穂はいつもより少しだけ大きな声で「おはよう」と返すことができた。


 やがて、自己紹介の時間がやってきた。

 自分の番が近づくほどに、胸が苦しくなる。

 両手のひらは汗でしっとりと濡れていた。

 けれど、ポケットの中の四葉のクローバーが小さな勇気をくれる気がした。


(……大丈夫。失敗してもいい。とにかく、一歩だけ……)


 先生に名前を呼ばれ、瑞穂はゆっくり立ち上がった。

 最初の一言が喉に詰まる。

 それでも、彼女は目を閉じ、深呼吸をしてみた。


「は、初めまして。瑞穂です。……本が好きです。よろしくお願いします」


 声はか細かったけれど、クラスメイトたちはしっかりと耳を傾けてくれていた。

 「好きな本はなに?」と、何人かが興味を持って声をかけてくれた。


 それが、瑞穂にとっての“奇跡”の始まりだった。


 次の日から、少しずつ、瑞穂は「おはよう」を言う回数が増えた。

 休み時間には、本を読んでいると「その本、おもしろい?」と尋ねてくれる子も現れた。

 昼休みに一緒にご飯を食べる友達もできた。


 もちろん、瑞穂はまだ大きな声で話すのが苦手だし、うまく言葉が出ない日もある。

 でも、「一歩踏み出せた自分」が、何よりの支えになった。


 週末、瑞穂は再び神社を訪れた。

 境内の静けさのなか、桜の花びらが舞う。

 瑞穂はご神木の前で、今度は少し明るい声で願いを告げた。


「神さま、ありがとう。勇気、ちゃんと受け取れました」


 俺はそっと枝を揺らし、一枚の葉を彼女の肩に落とす。

 瑞穂はその葉を拾い、微笑んだ。


(勇気とは、奇跡ではなく、“自分で選んだ一歩”の先に生まれる。

 誰かが背中を押すことはできても、その一歩を踏み出すのは、いつも自分自身なのだ)


 春風がやさしく境内を吹き抜けていく。

 今日もまた、俺は新しい願いのさざ波に静かに耳を澄ませている。


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