第5話 「親友の幸せを願うとき」

―隠した想い、揺れる心―

 夏の匂いが境内に満ち始めていた。

 朝の光が木漏れ日となって参道に降り注ぎ、蝉の声が緑のトンネルを抜けて遠くまで響く。

 少し汗ばむほどの暑さのなか、まだ朝早い神社には人影もまばらだった。


 その日、俺の前にやってきたのは二人の少女だった。

 並んで歩く姿は仲睦まじく、幼い頃から親友同士なのだろう。

 背の高い活発そうな少女・遥香と、その隣で少し控えめに笑う少女・沙織。


 ふたりは拝殿の前で並んで手を合わせた。

 遥香は明るい声で「願い事、何にした?」と沙織に聞く。

 沙織は、はにかむように微笑んでごまかした。


 そして、その夜。

 沙織が再び一人で神社を訪れた。


 まだ空が薄暗く、蝉の声も止んだ静けさの中、彼女は俺――ご神木の前にそっと立つ。

 目を閉じ、指先をぎゅっと組み合わせる。

 その横顔には、昼間にはなかった影が落ちていた。


「……どうか、遥香の恋が叶いますように」


 消え入りそうな声。

 その願いは、まっすぐで優しい。

 けれど、その奥には小さな苦しみの波紋が広がっていることに、俺は気づいた。


(人は、誰かのために祈る時、本当に自分の心を隠せるのだろうか)


 遥香は、同じクラスの男子に片想いしていた。

 快活で明るい性格の彼女は、たくさんの友達に囲まれ、笑顔を絶やさなかった。

 それでも、好きな人の前では急に不器用になってしまう。

 沙織はそんな遥香をずっと見てきた。

 励まし、背中を押し、恋の相談にも乗ってきた。


 だが――本当は沙織自身も、同じ男子を密かに想っていた。

 自分の恋心に気づいたときには、遥香が先に好きだと打ち明けていた。

 沙織は親友の幸せを何より願った。

 「私の想いは、親友の恋が実ればそれでいい」と、そう自分に言い聞かせていた。


 俺は枝を揺らし、沙織の願いに耳を澄ませる。


(他人の幸せを願うことは、尊い。だが、その裏で自分の心に嘘をつき続ければ、いつか苦しみが溢れ出す)


 それでも、沙織は何度も神社を訪れ、同じ願いを繰り返した。

 「どうか、遥香が幸せになりますように」

 やがて、偶然なのか、遥香と想い人の男子がふたりきりで話す機会が増えていった。

 沙織は陰ながらその様子を見守り、背中を押し続けた。


 だが、ふたりの距離が近づくほど、沙織の胸の奥に得体の知れない痛みが広がっていった。

 誰かの幸せを願うはずが、自分の心が苦しくてたまらない。

 「どうして、こんなに苦しいの?」

 自分の本心さえ分からなくなる夜もあった。


 ある放課後、沙織は偶然、拝殿の前で立ち尽くしていた。

 蝉の声に紛れて、涙がこぼれる。


 そのとき、遥香が現れた。

 彼女は沙織の横顔に気づき、そっと隣に座る。


「……ねえ、沙織。最近なんか、元気ない?」


 沙織は慌てて笑ってみせる。

 「何でもないよ、遥香の恋がうまくいくといいなって、思ってただけ」


 遥香は静かに沙織の手を握った。

 「私ね……好きな人に告白したんだ。でも、ふられちゃった」

 沙織は驚いて、遥香の顔を見つめる。

 遥香は少し泣きそうな目で、微笑んでいた。


「……沙織は、誰か好きな人いるの?」


 突然の問いかけに、沙織は言葉を失った。

 胸がぎゅっと締め付けられる。


「……私も、同じ人が好きだった。でも、遥香が先に好きって言ってたから……応援しなきゃって思って」


 遥香はしばらく沈黙した後、そっと沙織を抱きしめた。

 「なんだ、そうだったんだ……。沙織もずっと我慢してたんだね。ごめんね、気づかなくて」


 ふたりの目から涙があふれ、やがて静かに笑い合う。


 「お互い、本当に好きだったんだね。でも、どちらかの幸せだけじゃなくて、

 二人で支え合って前に進めたら、それもきっと素敵なことだと思う」


 蝉の声が一段と強くなり、夕暮れの光が境内に差し込む。


 その日から、沙織はようやく「自分の気持ち」にも素直に向き合えるようになった。

 遥香との友情は変わらず、ふたりで互いを支え合いながら新しい日々を歩み始めた。


 俺はそっと葉を揺らし、夏の終わりの風に願いを託す。


(他人の幸せを願うことで、自分の気持ちから逃げることはできない。

 本当の幸せは、誰かのためと自分のため、両方を大事にすること――)


 親友を思うやさしい祈りが、少女たちの心を成長させていく。

 そんな姿を見守りながら、今日もまた俺は、新しい願いにそっと耳を澄ませるのだった。

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