第2話 試験当日に奇跡を
―本当の合格―
朝霧が静かに境内を包み込む、冬の朝だった。
夜の余韻を残した冷気が、まだ石畳の上に残っている。
その白い世界に、制服姿の少年がひとり、ふらふらと現れる。
彼は背中を丸め、深く息を吐きながら俺の幹の前に立った。
肩は震え、両手はポケットの中で小さく拳を握っている。
目の下には深い隈。おそらく昨夜は一睡もできなかったのだろう。
鳥のさえずりが、まだ微かにしか聞こえない朝の静寂の中で、彼はぎゅっと手を合わせた。
「……どうか、どうか、試験に受かりますように」
その声はかすかに震えていた。
けれど、その奥には、祈りというにはあまりにも生々しい、焦りと、切実な希望が滲んでいた。
思わず俺も枝を揺らし、耳を澄ませてしまう。
この神社のご神木として、俺は人々の願いをいくらでも聞いてきた。
けれど、受験生の祈りほど必死なものはない。
“これさえ叶えば人生が変わる”――そんな思いが、声の震えから伝わってくる。
彼の制服はくしゃくしゃだった。
袖口には小さなシミ、ボタンのほつれ。
だが、何よりもその表情――眠れぬ夜を過ごした者だけが持つ、独特の翳りがあった。
ふと、ポケットの奥で震える手のひらを思う。
祈りながら、彼は自分自身と戦っていたのだろう。
「自分は本当に大丈夫なのか」「ここまでの努力は無駄だったのでは」
不安に押しつぶされそうなまま、それでも、何かにすがらずにはいられなかった。
(さて、どうしたものか……)
俺は神木として、奇跡を起こす力を持つ。
だが、無条件に願いを叶えてやることが本当に彼のためになるのか。
ふと、遠い昔、誰かが「奇跡は甘やかしじゃない」と言っていた記憶がよぎる。
人は与えられたもので成長するより、掴み取ったもので変わるのだ。
俺は静かに風を吹かせた。
朝靄の中、微かな旋律のような風が境内を撫でる。
その風の流れに導かれるように、彼の足元に分厚い本が音もなく現れる。
「……え?」
少年は驚いて本を拾い上げた。
見たこともない装丁、金色に輝くタイトル。
指でページをめくると、そこには彼がまさにこれから受ける試験科目すべてが網羅されていた。
解説は詳細を極め、予想問題や模擬試験、過去の出題傾向や最新トピックまですべてが記載されている。
「こんなの、見たことない……」
少年は目を輝かせた。
だが、すぐにその瞳に不安が宿る。
ページの端には赤字でこう書かれていた。
——この本を試験に持ち込めば、必ず合格できる。
手が震える。
試験前夜、彼はノートに何度も公式を書きなぐり、何度も眠気に負けそうになりながら机に向かった。
彼の母親は仕事で帰りが遅い。
兄弟はいつも彼の努力を笑う。
「勉強なんて向いてないよ」と、周囲に何度も言われてきた。
それでも、諦めきれず、今日まで一歩一歩進んできた。
不安で押しつぶされそうな夜、何度も涙をこらえてきた。
だからこそ、「どうにかして合格したい」という願いは、悲鳴のように切実だった。
けれど――
「これを持ち込めば、合格できる……? ……でも……」
少年はその場に立ち尽くし、しばらく動けなかった。
やがて、彼はそっと本を胸に抱え、神社を後にした。
次の日。
冷たい朝の光が差し込む教室、試験会場は静まり返っていた。
周囲の受験生たちは皆、鉛筆を握りしめ、最後のノートを見直している。
少年は机に座り、震える手で制服のポケットを撫でる。
あの分厚い本が、そこにある。
(バレなきゃ……俺だけが知ってるなら……)
心臓が早鐘を打つ。
頭の中に、眠れぬ夜と、母の弁当、友達と励まし合った帰り道が浮かんでは消える。
答案用紙に目を落とすと、そこには昨夜読んだばかりの問題が、まるで見本のように並んでいた。
「……」
彼はゆっくりとポケットに手を伸ばした。
けれど、その手はすぐに止まる。
(もし、これで合格しても……俺は……)
脳裏に浮かんだのは、今までの自分だ。
「ズルをしてまで、欲しかったものなのか?」
「これが本当に“俺の合格”って言えるのか?」
机の下でこぶしを握りしめる。
――そのとき、不意に神社で感じたあの風が、心の奥に蘇った。
温かく、やさしい風だった。
(もう一度、やり直せるなら……)
彼はポケットから本を取り出し、机の上にそっと置いた。
(……ズルは、しない)
その瞬間、本は淡い光に包まれ、音もなく消えていった。
彼の心の中に、ふっと安堵の灯りが灯る。
不思議なことに、緊張も恐怖も、すべて洗い流されたような気がした。
彼は鉛筆を握りしめる。
深呼吸をして、問題用紙に向き合った。
苦手な問題もあった。手が止まることもあった。
それでも、最後まで諦めなかった。
試験が終わるとき、少年は静かに席を立った。
――終わった。
帰り道、彼はふと空を見上げる。
冬の青空が、朝よりも少し明るくなっていた。
合格発表の日。
少年の番号は、合格者一覧にしっかりと刻まれていた。
彼は震える手で母親の手を握り、何度も「ありがとう」と呟いた。
母親もまた、涙をこらえて頷いていた。
その帰り道、少年は再び神社を訪れた。
境内の空気は、朝霧のように透明だった。
彼は俺の幹の前に立ち、ゆっくりと頭を下げる。
「……ありがとう。俺、やっと、自分に勝てた気がします」
その声は、かつての弱々しさはなく、どこか凛としていた。
俺はそっと枝を揺らし、一枚の葉を彼の肩に落とす。
少年はその葉を手に取り、しばらくじっと眺めていた。
やがて、はにかんだ笑みを浮かべ、しっかりと前を向いて歩き出す。
(奇跡とは、与えられるものではない。自分で選び、自分でつかむもの――)
俺は静かに、冬の空を仰いだ。
今日もまた、誰かの切実な願いが届くのを、ここで見守っている。
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