第2話 パンと絆の第一歩

サクラが目を覚ましたのは、冷たく硬い石の感触のせいだった。

鼻をくすぐる埃っぽい空気。薄暗い部屋。


異世界に転移したこと。

魔王領に売られたこと。

スープを作ったら、なぜか“料理長”になったこと。


頭の中に、現実とは思えない記憶が渦巻いていた。


「夢じゃ……なかったんだ……」


呟いて体を起こすと、手首の縄跡が赤く残っていた。少し痛む。

でも――あのスープで魔物たちを感動させた記憶が、ほんの少しの希望になっていた。


「おっはよー、サクラちゃん!」


突然の甲高い声に、サクラは飛び上がった。

振り返ると――緑の肌に鋭い牙のゴブリンが、ニヤニヤ笑っている。

隣には、灰色がかった褐色の巨体をしたオーク。


……昨日、スープを飲んでたあの二人!


「えっ、誰――って、昨日の!?」


戸惑いながらも、記憶と顔が一致する。

ゴブリンは椀を抱えたまま、目をキラキラさせていて。

オークは、スープを豪快に飲み干していたっけ。


「オレ、ゴブ太!こっちはオークンの旦那だ!」

「昨日のサクラちゃんのスープ、めっちゃ美味くてさ! 手伝いたくて来たんだよ!」


ゴブ太が胸をドンと叩き、オークンは黙って頷いた。


「オレ、オークン。あの温けえスープ、忘れられねぇ。サクラちゃん、すげぇ奴だな」


「さ、サクラちゃんって……え、えっと……手伝うって、何を?」


「料理長になったんだろ? 兵隊長が言ってたぜー」

「サクラちゃんに調理場を任せるってさ。オレたちは、その助手ってワケ!」


「昨日のお前見て、決めたんだ。サクラちゃんの飯、もっと食いてぇってな」


まさか魔物たちが、自分を手伝いたいなんて――。

想像すらしなかった展開に、サクラは目を丸くした。


* * *


案内された調理場は、昨日スープを作ったあの場所だった。

でも、改めて見れば……かなりヤバい。


石の台には干し肉のカス。

鍋の周りには黒い汚れがこびりつき、床は埃と油の層。

隅にはクモの巣まで張っていた。


「うわ……汚っ……」


思わず顔をしかめる。

サクラの家のキッチンはいつもピカピカだった。これは、もはや廃墟だ。


「ここで飯作るのか、サクラちゃん?」

「こんなとこでも、あのスープ作れたんだ。サクラちゃん、やっぱすげぇよ」


「いやいや、このままじゃ無理! まず掃除から始めよう!」


決意を込めてそう言うと、ゴブ太とオークンは目を見合わせ――すぐに動き出した。


ゴブ太はボロ布を持って石台をごしごし。

オークンは湿った薪を放り出して、整理整頓。

サクラは鍋の汚れを爪でこすりつつ、ぽつりと言った。


「ねえ、スープだけじゃなくて、もっといろんな料理を作りたいの。品数が増えれば、みんなもっと喜ぶと思うんだ」


「マジか!? スープ以外にも美味いもんあるのか、サクラちゃん!」


「うん、あるよ! 柔らかいパンとか、焼いた肉とか、スパイスを効かせた煮込みとか――」


「やべぇ、腹減ってきた……!」


ゴブ太がふと手を止めて言った。

「でもさ、今あるのって塩と酒くらいじゃん? どうやって作るのさ?」


「うーん……輸入するか、育てるしかないけど……すぐには無理だよね」

「魔王領って、交易とかしてる?」


オークンが首を振った。

「交易はあるが、食い物はあんま入ってこねぇ。食事は干し肉と硬いパン、水と酒が基本だな」


「じゃあまず、今あるもので改良しよ! パンからやってみよう!」


その提案に、ゴブ太とオークンの目がキラッと輝いた。


「パンか! あのカッチカチのやつ、改良できんのか!?」


「できるよ! パン工房に行ってみよう!」


* * *


調理場の隣にある石造りの小屋。そこがパン工房だった。


中は熱気に包まれ、小麦の匂いが漂う。

奥では、筋骨隆々の巨大なオークが、汗をしたたらせながら生地をこねていた。


「なに見てやがる!?」


親方オーク――怒鳴り声とともに睨まれて、サクラは一歩引いた。

すかさず、ゴブ太が前に出る。


「親方! この子、サクラちゃん! 昨日スープで俺らを感動させた料理長だぜ!」

「パンを改良したいってよ!」


「改良だぁ? バカ言え! この硬パンは軍の補給食だ。保存が効きゃ、それでいいんだよ!」


拳を振り上げる親方にビビりつつ、サクラも食い下がる。


「でも、硬すぎて食べづらいよ! もっと柔らかくて美味しいパンにすれば、みんな喜ぶって!」


「柔らけぇパンだぁ? そんなもん手間の無駄だ! 伝統なめんな、小娘!」


工房を見渡すサクラ。すぐに気づいた。


――二次発酵をしていない。


「ねえ、これ二次発酵してないでしょ? だから硬くなるんだよ! もう一度寝かせれば、ふわふわになるの!」


「にじ……はっこう……? 何だそりゃ! 余計な手間じゃねぇか!」


親方が立ち塞がったその時――


「騒がしいな。何事だ?」


工房の入り口に現れたのは、兵隊長。鎧がカチャリと音を立て、鋭い目が一同を射抜く。


ゴブ太があわてて説明した。


「サクラちゃんがパンを柔らかくしたいって言ってるんだけど、親方が反対で……!」


「柔らかいパンだと?」

「軍の補給食には硬パンが必須。保存が効かねば意味がない。それでも――手間をかける価値があると?」


一瞬、サクラはひるんだ。でも……思い出したのは、母の口癖だった。


「一回食べてみなさいって言ってるでしょ!」

「美味しいものがあれば、みんなの気持ちも変わるよ!」


静寂。

兵隊長の目が細まり、場の空気がピリつく。


……やがて。


「ふむ。では試してみろ。貴様のスープは確かに価値があった。今度はパンで証明するのだ」


「はいっ!」


ゴブ太とオークンが「やったーっ!」と拳を突き上げ、親方は渋々頷いた。


「失敗したら、承知しねぇからな……!」


* * *


サクラは生地をこね、一次発酵。

湿らせた布をかぶせて、二次発酵へ。


親方が「待ち時間だぁ?」とぶつぶつ言うが、サクラは真剣そのもの。


「大丈夫。時間がたてば、ちゃんと膨らむから。見ててね」


生地がふっくらしたところで、窯に投入。

工房中に、小麦の甘い香りが立ちこめて――


焼きあがったパンの表面は、きつね色に輝いていた。


「さ、食べてみて!」


ゴブ太がかじりつき、目を丸くした。

「うわっ! ふわっふわじゃん! サクラちゃん、マジで天才かよ!」


オークンは涙を浮かべながらパンを頬張る。

「……オレ、こんな美味いパン、生まれて初めてだ……」


親方も、恐る恐る口にすると――

「……悪くねぇ。硬パンとは、別モンだな……」


兵隊長が最後にパンを手に取り、一口。

無表情だった顔が、ほんのわずか緩んだ。

「これも、良きものだ。貴様は価値を証明した」


サクラは誇らしげに胸を張る。

ゴブ太とオークンが「すげぇぞ、サクラちゃん!」と叫び、

親方も――渋々ながら、笑った。


魔王領の調理場に、静かだけど確かな変化が、今、芽吹こうとしていた。


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