第1話 異世界と母のスープ


どれだけ時間が経ったのか、分からない。


荷車が止まった瞬間、サクラは目の前の光景に息を呑んだ。


灰色の石でできた巨大な城塞都市――高くそびえる壁に囲まれ、門には骸骨の飾りがぶら下がっている。風に揺れて、カタカタと不気味な音を立てていた。


ここが、“魔王領”。


市場ではゴブリンやオークが大声で喚き、取引の真っ最中だった。

その中を角の生えた魔物が近づき、サクラを荷車から乱暴に引きずり下ろす。


ジャラッ、と鎖が鳴った。


周囲には、鎖につながれた人間たち。怯えた目で地面にしゃがみ込み、誰もが口を閉ざしている。


「動け、人間!」


怒鳴られて、サクラはよろめきながら地面に降りた。

足が震え、立っているのもやっとだった。


市場の空気は、汗と獣の匂いでどろどろに淀んでいる。

金属のぶつかる音と、どこかで上がる悲鳴。耳を塞ぎたくなるほど騒がしい。


そんな中、サクラはかすれた声で泣き叫んだ。


「……食べられるんだ……生贄にされて……私、ここで終わりなんだ……!」


あの村人の言葉――「生贄に捧げる」というフレーズが、頭の中で何度もこだまする。

視界が滲み、涙がこぼれそうになるその時。


すぐ近くで、ゴブリンの声が聞こえた。

「生贄? はっ、何だそりゃ。人間どもが勝手に言ってるだけだろ。俺たちがそんなもん食うかよ」


サクラは目を見開いた。


「え……?」


聞き間違いじゃない。

鼻を鳴らすゴブリンの横で、オークが笑いながら言う。


「食うわけねーだろ、人間の肉なんて。硬ぇし、マズそうだし、病気になりそうだしな。労働力として働かせりゃいいんだよ」


――食べない? 生贄じゃない?


サクラの頭が混乱した。

村人の言葉は……嘘? 違う、ただの思い込みだったんだ。

ほんの一瞬、胸が軽くなる。

(よかった……生贄じゃないなら、私、助かるんだ…)


けれど。

その安心は、すぐに別の恐怖に塗りつぶされた。


「労働力って……奴隷ってこと……?」


あたりを見渡すと、人間たちは鎖につながれたまま、無言で値踏みされている。


「なにこれ……なにこれ……!十分地獄じゃない……!」


お母さん……!

心の中で叫びながら、サクラは膝を抱えそうになった。


その時――


目の前に、緑の肌のゴブリンが現れた。

つぶれた鼻、黄ばんだ目、悪臭混じりの息が顔にかかる。

長く伸びた爪で、彼女を指さして言った。


「次! お前、何ができるんだ?」


頭が真っ白になった。

恐怖と混乱で、言葉が出ない。


でも、ゴブリンの怒鳴り声に突き動かされ、思わず口が動いた。


「りょ、料理! 料理ができます!!」


その瞬間、ざわついていた市場が――静かになった。


ゴブリンは目を丸くし、次の瞬間、爆笑が起きた。


「料理ぃ? 人間の無駄な遊びか?」


「飯なんて腹が膨れりゃ十分だろ! なにをほざいてんだ!」


「意味不明すぎて笑えるぜ! グハハハ!」


オークが腕を振り上げて笑い、ゴブリンは地面を転げ回る勢いだった。


サクラの顔は、恥ずかしさで熱くなっていた――


母親と一緒にキッチンに立った記憶がよみがえる。包丁で野菜を刻み、鍋から立ち上る湯気を吸い込んで、「おいしそうだね」と笑い合うあの時間が、彼女の心の支えだった。


それをバカにされて、頭に血が上った。


「笑わないでください…」


小さな声で呟いたが、誰も聞いていない。サクラは唇を噛み、目を潤ませながら続けた。


「料理は、心を、人生を癒してくれるんです!それがわからない貴方たちは人生を損してる!!」


声は震えていたが、はっきりと響いた。

母親が教えてくれた言葉だ。

どんなに辛い時でも、温かいご飯があれば笑顔になれる。

それを信じてきた。なのに、ここでは誰もそれを理解しない。


魔物たちはさらに笑っていた。オークが腹を叩き、ゴブリンが地面を転げ回る。


その時、背の高い影がサクラの前に立ちはだかった。

兵隊達の長らしい。

鎧をまとった魔物で、頭に一本の角が生え、鋭い目が彼女を見下ろしている。

鎧の隙間から覗く肌は灰色で、腰に下げた剣が鈍く光る。


声は低く、冷たく響いた。

「面白いことを言うな。ならばその言葉に命をかけられるか?」


サクラは背筋が凍った。

兵隊長は続ける。

「我らは人にあらず。だが人に劣る存在ではない。貴様が我らを侮辱するなら、その命で償え。貴様のその『料理』とやらで我らを納得させてみせろ」


サクラは息を呑む。

状況は、相変わらず絶望的だった。

唇を震わせ、心の中で呟く。


――どうすればいいの……お母さん……


逃げ道なんて、どこにもなかった。

兵隊長の鋭い目がサクラを射抜き、視線を外すことすらできない。


小さく頷いて、声を絞り出す。


「やります……料理、作りますから……」


案内されたのは、「調理場」と呼ぶのも躊躇われる場所。


石の台の上には、黒ずんだ干し肉とカチカチに乾いたパン。

桶の中には水と酒。粗塩が塊のまま転がっている。


干し肉は脂が浮き、パンは触っただけで粉がパラパラと落ちる。

鍋は錆びて底が黒く、縁にはひび。

火を起こす薪は湿っていて、カビ臭さが鼻についた。


「これで……何作れっての……」

思わず呟いた。


母と使っていたキッチンには、包丁もまな板も、調味料もあった。

ここには、なにもない。


後ろではゴブリンとオークがニヤニヤ笑っていて、兵隊長が腕を組んで見張っていた。


「お母さん……どうしよう……」


涙がにじむ。


けれど、サクラは唇を噛み、こらえた。

頭の中で、母の声が聞こえた気がした。


『料理は人を幸せにするよ、サクラ』


その言葉だけを信じる。

――ここで、諦めるわけにはいかない。


けれど、目の前にあるのは、たったこれだけの材料とボロ道具。

調味料もない、火すらろくに起きない。


「……スープ……スープしか、ないよね……」

そう呟き、そっと目を閉じた。


記憶の奥をたどる。母と作った、あのコンソメスープの味――

温かくて、やさしくて、元気が出る味。


「えーい、もうやけくそだ! やってやろうじゃないの!」


自分に気合いを入れて、サクラは干し肉に手を伸ばした。

指でちぎり、爪を立てて細かく裂いていく。

脂がべっとりと指にまとわりつき、不快感に眉をひそめながらも、鍋に放り込んだ。


水を注ぎ、薪に火をつける。

湿った木がくすぶって、煙が目に染みた。


塩をほんの少しずつ、慎重に加えて味を調え、

パンを砕いてスープに溶かし、少しでもとろみをつける。

仕上げに酒をひと振り。香りを立たせるための、最後の一手。


「お母さんのスープ、思い出して……」


目を閉じたまま、記憶の味だけを頼りに手を動かす。

やがて、湯気とともに、懐かしい匂いが鼻をくすぐった。


――できた。


椀によそい、手が震えるのをこらえながら差し出す。


「ほら、食べてください……これが、“料理”です!」


ゴブリンが半信半疑の顔でスープをすすり、

オークは豪快に飲み干した。


そして、魔物たちの顔つきが――変わった。


「……なんだこれ……?」


「温けぇ……腹が満たされる、だけじゃない」


「こんな飯、食ったことねぇ……!」


さっきまで嘲笑していた彼らが、椀を見つめ、黙り込む。


兵隊長もスープを一口すすると、静かに頷いた。


「ふむ……これは、確かに価値がある。貴様、料理長として雇ってやる」


「えっ……私、料理長……!?」


サクラは目を見開いた。

絶望のどん底だったはずの現実が、一転する。


――こうして、彼女の異世界生活が幕を開けた。

 




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※初期公開時は4900字あったのですが、冗長性が高すぎたと判断し、プロローグと分け、合計約3900字にまでリライトしています。


2話目からはほのぼの展開になります。

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