第3話 ねらわれた学園(3)
激しい衝突音と同時に、保健室のドアがミシミシと軋む。考えている暇はなかった。高台寺はとっさに葉実を抱えて床に伏せた。
直後、ドアが音を立てて弾け飛ぶ。
不快な臭気が鼻をついた。不潔な体臭と、公衆便所を混ぜ合わせたような悪臭だ。べっとりと粘膜に貼りつき、目にしみる。高台寺は涙目でむせた。手に持っていたハンカチでとっさに鼻と口を覆った葉実も、けほけほと苦しそうに咳き込んでいる。
――突破された。
体が臨戦態勢に入る。相手の姿を視界に捉えようと高台寺は涙を拭いながら顔を上げた。
そして、息を呑む。
スーツに黒コートを着た、白髪交じりの中年男性――背格好は確かに、葉実が話していた古林崇臣の特徴と一致している。
だがしかし、まともな状態ではない。
首が据わらず、頭がぐらぐらしている。肌の色艶は最悪であちこちにドス黒い染みが広がり、濁った両目からは意識を感じられない。乾いた唇はひび割れ、半開きの口からは呼吸が機械的に吹き抜けていた。言うなれば、長年メンテナンスされていない肉の着ぐるみだ。歩くたびに、両手の指先から血と膿が混じり合った粘液がポタポタと零れ落ちた。
古林は膝から捻れた右足を大きく振り上げた。踵が振り下ろされる軌道の先には――ドアと一緒に吹き飛ばされた――床に膝を突いた桐原がいる。
高台寺はとっさに叫んだ。
「避けろ、桐原ァ!」
古林の体が吹き飛び、壁に叩きつけられた。
モモチが右ストレートで殴りつけたのだ。汚れた拳をハンカチで拭きながら、彼は倒れた古林にツカツカと歩み寄り、生気のない顔を容赦なく踏みつけた。
鼻が曲がり、歯が折れ、血が噴き出す。
高台寺は即座に葉実の目を覆った。無慈悲な暴力に身の毛がよだつ。
白衣の裾に血が飛ぶのもお構いなしに、モモチはグチャグチャになった顔をもう一度踏みつけた。みしみしと頭蓋骨が軋む音が聞こえてくるようだった。
体勢を立て直した桐原が怒鳴る。
「殺すな、モモチ!」
モモチのこめかみがピクリと震えた。
「アタシに指図したの、今」
声を荒げているわけではないのに、吐き気を催すような威圧感がある。高台寺は悟った。結果的にそうなっただけで、モモチは決して桐原を守ったわけではないのだと。
それを裏付けるかの如く、彼はぶ厚い胸に手を当て、桐原を挑発するように眇めた目元に嘲笑を浮かべた。
「普段大人しくしてるからって勘違いしないで。この保健室は、主から拝領したアタシの縄張り。侵入者の始末も仕事のうちなの。口出しは無用よ」
「弁えろ。御津影はおまえにそこまで命じていない」
冷徹に切り返す桐原の手には、青みかがった鈍色に輝く抜き身の刀が握られている。
モモチは残虐に唇の端を吊り上げた。爪がバキバキと音を立てて伸びていく。
「それ以上、主の意向を騙るつもりなら……」
喋っている途中で、モモチは急に目を剥いてその場から飛び退いた。
「そこまでよ」
そう言ったのは、アンナだ。
ヘーゼルの瞳の女子と手を繋ぎながら、もう片手で人差し指と中指を立てている。風もないのに艶やかな黒髪とスカートがふわりと浮き上がって、彼女の周囲に不可視の力場が渦巻いているようだった。
見えざる手に拘束されて、古林は不気味に硬直している。
「モモチちゃん。私たち、古林のおじさまに確かめたいことがあるの。巻き添えになりたくないなら下がりなさい」
「……拝み屋の小娘が」
自分に向けられた『命令』に忌まわしく顔を歪めたものの、モモチはそれ以上、何も言わずに引き下がった。
一触即発の危機は去ったがしかし、まだ事態は予断を許さない。
「ゲンキくん、怖いよ……」
葉実は怯えて縮こまっている。
ゾンビもどきの古林、暴力の保険医、物騒な長物を手にしている桐原。どれも日常からかけ離れた異常事態だ。本音を言ってしまえば高台寺だって怖い。葉実を守らなければという使命感がなければ、とても正気を保ってはいられなかっただろう。
「葉実ちゃん」
小柄な女子が二人の前で膝をついて、穴を覗くように顔を傾けた。柔らかそうな髪がふわりと肩から零れる。
「葉実ちゃん、泣かないで。高台寺くんを見るの」
彼女の静かな声は、周囲の雑音を遠ざけた。
言われるまま、葉実はゆっくり顔を上げて高台寺のほうを見た。高台寺もまた、葉実に目を向けた。涙が溜まって潤んだ瞳に自分の姿が映っている。
「わかってるはず。何があっても、高台寺くんが守ってくれる。勇気をくれる」背中を押すように彼女は言った。「もらった勇気を、今度は高台寺くんに分けてあげて」
目と目を通じて、高台寺の中に温かなものが吹き込んでくる。パニックで破裂寸前だった頭が、ふわっと軽く、静かになった。
突然のことに高台寺は困惑した。
「今の、なに……?」
戸惑う葉実に、彼女はおっとり微笑んだ。
「今のは葉実ちゃんの力。暗示にはね、こういう使い方もあるの。怖がっている人を勇気づけたり、気持ちを落ち着けてあげたりね。今のはわたしがお手伝いしたけど、訓練すれば葉実ちゃんの意志で制御できるようになるよ」
葉実は実感がなさそうに目を瞬いている。
高台寺にも、何かされた、という感覚はなかったが、頭はすっきり冴えている。この感じは、正月元旦の空気を胸いっぱいに吸い込んだときの清々しさに近い。これが暗示によるものだと言われても、なにも不安はなかった。
「ゲンキくん。あたし……」
葉実は何が何だかわからない、という様子でオロオロしていた。
高台寺は調子を取り戻して立ちあがった。
「さっき言ったろ。葉実は、葉実のままでいいって」
「でも……」
「おまえのおかげで元気になったよ。ありがとな」
葉実を立たせながら、高台寺は小柄な女子に言った。
「葉実を頼む。落ち着ける場所に連れて行ってやってくれ」
彼女は頷いて葉実の手を取り、仲間たちに目配せを残して保健室を出て行った。
入れ替わりに戻って来たアディが、状況を見てホッと息を吐く。
「怪我人はいないね。アンナ、拘束できたんだ」
「うん。瘴気にかなり侵食されてる。きっと怪異の影響ね」
高台寺は硬直している古林をまじまじ見つめた。
鼻と前歯が折れて、顔中が血まみれだ。しかし痛みを感じている気配はない。真円に見開かれた濁った目、能面のような無表情からは、どんな感情も読み取れなかった。
「生け捕りにできたのはいいけど……これはひどいな」
眉を顰めるアディに、高台寺は尋ねた。
「古林は、どういう状態なんだ?」
「良くないものが取り憑いてるんだ。正体は蓋を開けてみるまでわからないけど、古林さんがやられるくらいだからね。油断できない相手なのは間違いない」
このゾンビのような有様からはとても信じられないが、十年前の古林は、霊障に高い耐性を持つ超常対策課のエースだったという。
よもかたプラザで起きた事件には、複数の怪異が関わっていると桐原は言った。一対一なら負けなしの刑事でも、相手が複数となれば隙も生まれよう。
事件発生時、よもかたプラザで、何が起きていたのか。
古林の意識が戻れば当事者から話を聞ける。
桐原は刀を鞘にしまった。
「今、キリオとツカサが御津影を呼びに行ってる。アンナ、いつまで拘束できる?」
アンナの顔にはうっすら汗が滲んでいる。強がる表情からは疲労が窺えた。
「まだ余裕、って言いたいとこだけど……けっこうキツいかな」
「わかった。俺が引き継ぐ」
桐原がそう言った、次の瞬間。
肉の着ぐるみの下で、何かが蠢いた。
脳が理解を拒んでいるのに目を離せない。シャツの下から、腹部を突き破って現れたそれを、なんと形容したものか。
大きさはバスケットボールほど。甲殻類の装甲を纏った、足の長いイヤな虫。高台寺にはそのように感じられた。
胴体の側面に空いている穴から、ガスが噴き出す。
「瘴気!」
誰かが叫んだ、そのとき。
突如、真っ赤な炎が炸裂した。それは瞬く間にガスに引火して、発生源である本体の虫を灼熱の檻に包み込んだ。
金切り声を上げながら虫が跳躍する。一瞬遅れて桐原が居合いで後ろ足を切り落としたが、勢いを止めるには足りない。
ほんの僅かな差だった。
始めから標的が指名されていなければ、顔と名前が一致していなければ、間に合わなかっただろう。
高台寺は腕を伸ばしてアンナを突き飛ばした。
頭の横、肩の上を、鳥肌が立つ風切り音が通り過ぎていく。
――熱い。
真っ赤な血飛沫が散る。
首が、裂けた。
生死の境で、思考が置き去りにされる。そこには他人事のように状況を俯瞰する自分がいた。
体の自由が利かない中、高台寺は視線で虫の動きを追いかけた。
目に映る光景が、コマ送りで見える。
保健室の外へ逃げだそうとしていた虫の目前で、窓に大きな亀裂が走った。ガラスの裂け目から無数の黒い帯が伸び、マンガの集中線のように虫に向かう。
甲殻類の装甲を削り、抉り、砕いて。
剥き出しになった本体を、白い、刃の閃きが刺し貫いた。
もう、音もよく聞こえないが。
窓を豪快にぶち破り、飛び散るガラス片をものともせず保健室に降り立った、その人物を。
薄れゆく意識の中、高台寺は凝視した。
目の前で屈んでくれたおかげで、逆光で黒塗りになっていた顔が、やっと見えた。
それは紛れもなく、神社の前で会った中学生だった。
*
仏壇に供えられた写真の二人を知らないまま、少年は手を合わせる。
ちっとも悲しくない。寂しくもない。何もかもが、よそよそしい。それでも殊勝な顔をして線香を上げたのは、そうしなければ、ここにいる資格を失うと思ったからだ。
隣で黙祷を捧げていた『姉』が、腰を上げた。疲れ切った顔にぎこちない笑みを、精一杯の気遣いを浮かべて、『弟』に声をかける。
「モトキ。ご飯、これから作るから。部屋行ってな」
リュックを抱えて頷き、指し示された『自分』の部屋に向かう。
ドアを閉じてひとりになり、途方に暮れた。
きれいに整えられたベッド。オモチャが飾られた学習机。黒いランドセル。名前の刺繍が入った道具袋。棚に置かれたゲーム機。
知っているものが一つもない。
居場所を見つけられないまま、リュックを床に置いてその場に座り込む。
入院しているとき、大人たちから何度も同じ質問された。
「なにか思い出したかい?」
――なんにも。
そう答えるたびに、空っぽの自分を突きつけられた。
胸にぽっかりと大きな穴が空いているのだ。自分だったものは全部、そこから抜け落ちてしまった。それでも馴染まなきゃならない。否が応でも、『高台寺元気』の席に着かなければならない。
――どうして。どうして、どうして、どうして。
少年は、自分の過去を奪った誰かを憎んだ。
それだけが証明だった。
病院のベッドで目を覚ましたときに湧きあがった、『奪われた』という感情。かつての自分は欠けていなかったと信じられるもの。自身を『高台寺元気』たらしめる、唯一のもの。
そうして少年は。
奪われたものを取り戻すと誓った。
*
高台寺は目を覚ました。
二度目の天井だ。直前の記憶は鮮明に残っている。首筋を切り裂かれた感覚が蘇り、心臓が波打った。おそるおそる首に手を伸ばすと、包帯が巻かれていた。
気だるく体を起こす。寝ているあいだにジャージに着替えさせられていた。かなり出血したはずだ。元の服はきっと捨てることになるだろう。残念だ。古着だったが気に入っていた。
のろのろとカーテンを開ける。
割れた窓から赤く夕日が差し込んでいた。
「ゲンキくん!」
飛びついてきた葉実を受け止める腕にも、力が入らない。
葉実は高台寺の顔を見上げて、くしゃりと顔を歪めた。
「ゲンキくん。顔、真っ白だよ……。もう……危ないこと、やだよ」
心配をかけてしまった。
すまないと思いながら、せめて平気な顔を取り繕った。
「あー……俺、めっちゃ寝てたな」
「高台寺くん。よかった」
遠霞十三家の女子たちがベッド周りに寄ってきた。各々から感謝を、アンナからは謝罪を言われた気がしたが、貧血でクラクラして頷くくらいしかできなかった。
ふと気づけば、寝ているあいだに人が増えているようだ。コスプレ感満載のナース服を着た、キャバ嬢のように派手な女が三人。はじめは幻覚かと疑ったが、保険医のモモチと笑いながら駄弁っている。
もはや何を見ても驚くまい。突っ込む元気もない。
それよりも。
こちらに背を向けて、ソファでゴロ寝している中学生の姿に目を引かれた。
――御津影。
顔は見えないが、ぐったりしているように見える。
「疲れて休んでるだけ」高台寺の視線から意図を読み取って、キリオが言った。「私たちと比べて燃費が悪いのよ」
そうそう、とアンナが頷く。
「御津影くんはね、使い魔を何人も使役してるの。モモチちゃんと、彼女たちアラクモ医療班もそのうちの一種ね。顕現させているあいだは霊力を消耗するし、今回は高台寺くんの怪我をハンドヒーリングで治してくれたから……」
「ちょっと、アンナ!」
キリオがまなじりを吊り上げて言葉を遮る。
「一般人を相手に喋りすぎよ! 何考えてるの!」
「きいちゃん。私、考えなしで言ってるんじゃないよ」アンナは毅然と言い返した。「ひとりでも必要なの。私たちのことを知って、味方になってくれる人が」
「そんなの、仲間がいれば十分でしょ」
「ううん。仲間内で閉じこもってちゃダメ。外にも味方を作らなきゃ、みんな危ないとき誰にも助けてもらえないもの」
キリオは絶句して、次に歯噛みした。
両者とも、己の言い分を譲らない。胸を突き合わせ、腰に手を当ててメンチを切り合っている。高台寺は内心ハラハラさせられたが、ちょうど桐原たちが戻ってきたことで、女子たちの口論は決着がつかないまま打ち切りとなった。
「見つけたぞ」
そう言って桐原が興奮気味に取り出したのは、一台のスマートフォンだった。
テーブルに置かれたそれを、遠霞十三家の面々が取り囲んで覗き込む。彼らの頭越しに高台寺も確かめた。耐衝撃ケースをつけた古い機種だ。モバイルバッテリーで充電している最中のようだが。
「このスマホは?」
「古林の持ち物だ」
高台寺はハッとした。そういえば古林はどうしたのだろう。思わず辺りを見回すと、ツカサがもうひとつのベッドを指さした。そっとカーテンをめくる。頭の先から爪先まで包帯でグルグル巻きにされた物体が転がっていた。ミイラのようで不気味だったが、とりあえず一命は取り留めたようだ。
「事件当日の記憶は不鮮明だが、古林が辻屋横丁のポストに隠したスマホはこうして無事に発見できた。この中に当時の記録が残されているかもしれない」
なぜスマホの在処がわかったのか、という質問を、高台寺は寸前で飲み込んだ。
遠霞十三家には、そういうことを調べられる能力者もいるということだろう。すなわち――意識の有無に関係なく、人の記憶の一部を読み取るような。だからこそ桐原は生け捕りに拘っていたのだ。
あとは、その労力に見合うだけの成果があることを祈るばかりだ。
「充電はそろそろいいかな。タカユキ、俺が調べるよ」
「ああ。頼む」
アディがスマホの電源を入れた。
日付と時刻にズレはない。ロックを解除するパスコードは六桁だ。アディはしばらく考え込んだあと、迷いなく数字を打ち込んだ。
ロックが解けた。
小さく歓声を上げる仲間たちに、彼は画面を操作しながら言った。
「メールは文字化けしてるけど……着信履歴がある」
間隔と頻度はまばらで規則性がないが、履歴は一〇〇件を超える。日付は十年前。よもかたプラザの事件後だ。発信元はいずれも同一人物。『古林崇臣』と表示されている。
遠霞十三家は顔を見合わせて沈黙する。
アディが連絡先一覧を確認する。
「古林さんの電話番号、二つあるね。二台持ちなんだ」
「回線が生きてるってことは……料金をずっと払ってるってことだよね」
「充電切れで放置してんのに? 発信元のもう一台はどこにあんの?」
『こっちからかけてみる?』
ソファで眠っている御津影を除いた全員が、期待を込めて桐原の顔を見る。
内心では葛藤があったかもしれないが、桐原はリーダーという役目にどこまでも忠実だった。
「かけるぞ」
彼は着信履歴から『古林崇臣』に発信して、スピーカーをオンにした。
電話はワンコールで繋がった。
全員が固唾を呑んで耳を澄ます。
『――もしもし』出たのは低くて渋い、男性の声だ。掠れて微かに震えている。『きみは……誰だ? そこは豊葦町の、辻屋横丁か?』
どう答えたものか。桐原の横顔には迷いが見られた。
電話口の相手は立て続けに言葉を紡ぐ。
『頼む、切らないでくれ。他に繋がらないんだ。私は――』
彼は懇願した。声に焦燥と、疲労を滲ませながら。
『私は刑事だ。警視庁警備部『超常対策課』所属、古林崇臣だ。時間が……もう間に合うかもわからないが。きみ、どうか頼まれてくれないか。豊葦学園に、いや桐原神社でもいい。急いで伝えてくれ。よもかたプラザに行ってはいけない。来てはならない』
*
「……古林さん」
古林の名前を呼ぶ桐原の声は、不気味に抑揚がなかった。
「その言葉、十年前に聞きたかったよ」
『十年……? 何を、言っている。きみは誰だ?』
「……なにやってんだよ」
桐原は拳を握りしめてわなわなと震えた。それは努めて皆のリーダーたらんと振る舞ってきた彼が、はじめて怒りを爆発させた瞬間だった。
「消えたあんたを捜して、よもかたプラザに出かけて……みんな死んだんだぞ!」
「タカユキ、だめ!」
振り上げられた腕を、キリオが掴んで押さえる。
電話の向こう側にいる男は、ひどく困惑していた。
『タカユキ……? まさか……桐原貴之くんか? あの、小さかった?』
高台寺はもう、わけがわからなかった。
男は『古林崇臣』と名乗った。
夏木家のアパートを訪れ、葉実を誑かし、爆弾が仕掛けられたスマホを豊葦学園へ持ち込むよう仕組んだ。しかしそれは、古林自身の意志で行われたことではない。良くないものが取り憑いてる、とアディは言った。その言葉が正しかったことは、さきほど古林の体から虫のバケモノが飛び出したことで証明されている。
憑き物が落ちた古林は、そう、ここにいるのだ。
だが。
『どういうことだ……何が起きてる。説明してくれ』
スマホから聞こえる切羽詰まった声は、真に迫っていた。
嘘をついているとは思えないが、矛盾している。もし電話の男が本当に古林なら、今そこのベッドに転がっているのは誰だというのか。
遠霞十三家の面々も、こうなるとは予想していなかったようだ。
普段率先して指揮を執る桐原は今、冷静ではない。彼に代わって誰が古林(仮)と対話するか。彼らが仲間内で目配せを交わし合った、そのときだった。
「質問に答えるのはおまえのほうだ。古林崇臣」
そう言いながら、御津影がむくりと体を起こした。これまで傍観を決め込んでいたモモチが、やれやれと肩を竦めて少年の背後に控える。
『だ、誰だ? きみは……』
「黙って聞け。――今から十年前だ。よもかたプラザで百人以上の人間が一度に消えた」空気がピリッと引き締まる。「古林崇臣。おまえも消えた人間のひとりだ。そして今ここに、おまえの体がある」
『なんだって』
御津影は気だるげに目を擦りながら、背後に控える保険医に尋ねた。
「モモチ。そこにあるのは死体か?」
「いいえ。辛うじて生きているわ。死体なら血が噴き出すことも、傷が膿むこともない。言ってしまえば魂の入っていない抜け殻ね」
ソファの背もたれに体を預けて、御津影は頷いた。
「人間は肉体、精神、魂の三つで構成されてる。ここにある体は抜け殻だが、死体じゃないなら魂との繋がりは切れていないってことだ。古林崇臣。おまえは今、電話で話している自分をどう認識してる?」
答えが返ってくるまで、長い、長い沈黙があった。
『……真っ暗な、狭い場所にいる』
己の状態を吟味しながら、古林はゆっくり言った。
『車のトランクか、箱の中かわからないが……閉じ込められていると、私は感じている。だが不思議と、息苦しくはない』
「手元にスマホは?」
古林の声が途方に暮れたように揺らぐ。
『それが……ないんだ。どこにも』
「違う。通話が繋がっている以上、スマホはある」揺らぎを正すように、御津影は語気を強めて言った。「自分の正気を疑うな、古林崇臣。これは妄想でも幻聴でもない。逆に考えろ。おまえは手元にないスマホの着信に反応して、電話を取れた。なぜだと思う」
『ぬ……うむむ……』
「わからないなら、俺が代わりに答えてやる。それはおまえが、スマホに取り憑いた幽霊だからだ。そこはスマホの中だ。そう信じろ」
強引に持論を押し通しているようで、実際に御津影がやっていることは、消去法による認識のすり合わせに他ならない。
それが正解か、間違いかは問題ではないのだ。
大事なのは、古林と遠霞十三家が共有するべき情報を、話しながら整理し、この場にいる全員に周知させること。実際、御津影の話は、オカルトだと割り切ってしまえば部外者の高台寺でも理解できるほど簡略化されている。
バケモノを正面から突破する果敢さ、謎多き状況に尻込みしない度胸。
まだ細っこい中学生だというのに。
――めちゃくちゃ頼もしい。
次期頭領だというのも頷ける。おかげで桐原も、だいぶ落ち着きを取り戻したようだ。腕を組んで、顰めっ面ではあるが大人しく話に耳を傾けている。
『……スマホの中か。地縛霊の存在を考えれば、あり得ないことではないが……。自分を幽霊だと認めるのはなかなか難しいな……』
「幽霊には時間の感覚がないし、感情が伴った記憶以外は曖昧だと聞いてる。そこを踏まえた上で答えろ、古林崇臣。おまえはなんで、もう一台のスマホを辻屋横丁のポストに隠した?」
『それは……』
短く呻いたあとに彼が発した言葉には、愕然とした気配が感じられた。
『……よく、思い出せない。ただ……そうしろと、誰かに勧められた気がする』
「さっき言ってた、よもかたプラザに来てはいけなかった理由は?」
『それはもちろん……『カナエ』だ。あれの脅威を、私は見誤っていた。あれは人から奪い、人を消す。具体的に何が起きたのかは……すまない。思い出せない。だが、しくじったから私は……今、こうなっているのだろうな。体をなくした、魂だけの状態に』
古林の声に悔恨が滲む。
御津影の説明を信じるならば、幽霊になる直前、彼は強く心に抱いたはずだ。遠霞十三家に危機を伝えなければと。一〇〇件を超える着信履歴からも必死さが伝わってくる。その思いがあったからこそ、肉体を失ったあと泡沫のような自我を十年間も保ち続けることができた。
しかし、肝心の記憶は欠けてしまった。
当事者の証言だけが唯一の頼りだったのに。
高台寺は失望に肩を落とした。
「奪われたものを、取り戻す方法は……わからないのか」
「早とちりするな。古林を元に戻せれば、切り離されていた脳と精神が繋がって記憶を取り戻せる。すべてはこれからだ」
これから、という御津影の言葉に、アンナが目を輝かせて立ちあがった。
「つまり、おじさまのスマホを見つければいいのね!」
夕日の差す保健室の張り詰めた空気が、途端にパッと弾けて軽くなる。
古林の記憶は欠けているだけで、失われたわけではない。肉体、精神、魂の三つが揃えば取り戻すことができる。
そのためにまずは、魂が閉じ込められたスマホを見つけるのだ。
目標がはっきりと言語化されて、高台寺は胸が熱くなった。
『今の声は、もしかして……アンナちゃんかい?』
「はい。ご無沙汰しています、おじさま。アンナです」
『ああ……大きくなったろうなあ』
まるで親戚のおっさんだ。古林の優しげな声音からは、穏やかに目を細める様が浮かんでくるようだった。彼が遠霞十三家に抱く感情には、職務上の『協力者』という立場を超えた、個人的な親近感も含まれているらしい。
アンナはテーブルに手をついてスマホに懐っこく話しかけた。
「おじさま、安心して。私たち、なくしたものを取り戻すために『カナエ事件』のことをずっと調べてきたの。きっと、おじさまを元に戻してみせます!」
『心強いよ。ありがとう、アンナちゃん。私が超常対策課に復帰したら、必ず力になると約束するよ』
再会の喜びと結束の高まりを感じさせる、いい雰囲気だった。
しかし。
「警察は信用できない」
そこに、桐原が険しい面持ちで一石を投じた。
「古林さん。あんたが消えたあと、超常対策課は遠霞十三家との協力体制を一方的に打ち切った。俺は十年前の事件には、警察の上層部から何らかの圧力があったんじゃないかと疑ってる。そうでもなければ、うちの両親を含む御三家当代が、仲間内からあれだけ犠牲を出したにもかかわらず『カナエ事件』の解明に消極的な説明がつかないからな」
腕を組んでスマホを睨む桐原には、他者を寄せ付けない気配があった。
警察上層部の圧力。あるかもしれない、と高台寺も思った。『カナエ事件』は未解決事件だ。捜査本部は早々に解散し、以降、所轄からの続報も聞かない。警察は信用できないと桐原が考えるのも無理からぬことだろう。
しかしそれは決して、遠霞十三家の総意というわけではないようだ。彼を取り巻く仲間たちの表情や視線の動きからは、それぞれ違った考えを持っていることが窺えた。
「助けてやらないのか……」
ソファの背もたれに肘をついて、御津影がボソッと言った。そっぽを向き、露骨に落胆して見せている。
桐原は弱みを突かれたようにウッと呻いた。
「助けないとは言ってない。……それはそれ、これはこれだ」
『貴之くん……』
「記憶を取り戻して警察に戻った古林さんが、俺たちの味方になるとは限らない。土壇場で騙し討ちにされるのも、切り捨てられるのも御免だ」
桐原が警察に抱く不信感は、思いのほか根強いようだ。
――それは、困る。
気がついたら高台寺は声を上げていた。
「待てよ、桐原」
周囲の視線が自分に集まる。
高台寺は息を詰めた。
――日常に戻るか、非日常を受け入れるか。
ここが人生の転機だ、と直感した。
遠霞十三家。
超常的な才能を持って生まれ、高台寺と同じく、十年前に起きた『カナエ事件』の真相を追う者たち。奪われたものを取り戻そうという決意を抱いた、初めての同志たち。
正直まだ、信じ切れない気持ちはある。彼らに不信感を持っているわけではない。疑わしきは、ネット怪談という根も葉もないオカルトのほうだ。ルーツの曖昧な怪異を調査の前提に据えるなんて、非現実的で馬鹿げている。
しかし、それを認めないことには始まらないということも、高台寺にはわかっていた。
そして何よりも。
隣から、ギュッと袖を引かれた。
不安そうに見上げてくる葉実に、高台寺は笑いかけた。
「大丈夫だ。葉実」
これから葉実は、豊葦学園に通う。持って生まれた才能を、本当の意味で自分のものにするために。高台寺がいたところで何ができるわけでもないが、必要なのは理解者だと、アディは言っていた。
この先、何があったとしても。これだけは言える。
決して葉実を、ひとりにはしない。
決意を新たに、高台寺は改めて口を開いた。
「俺は、五月に試験を受けて警察官になる。奪われた記憶を取り戻すために、組織の中から事件の手がかりを探るつもりだ。おこがましい考えかもしれないけど、おまえたちの力になりたいし、力を借りたいとも思う。あの日、あの場所で何が起きたのか。真相を突き止めよう。一緒に」
*
夕暮れの街並みが車窓の向こうを流れていく。
電車が最寄り駅に着いた。ホームに降り立ったとき、まるで何日も地元を離れていたような妙な気分になる。それだけ今日一日の出来事は鮮烈に、高台寺の常識を塗り替えてしまった。
駐輪場に停めた自転車を回収して、暮れなずむ街並みを葉実と並んで歩く。
「おばさんと、ばあちゃんに話すんだろ。今日のこと」
高台寺が尋ねると、葉実は自転車を押しながら小さく頷いた。
「うん。怒られるの怖いけど……話してみる」
「それがいいよ。草太も安心するだろうしな」
葉実を育てたお母さんとお祖母ちゃんだ。はじめは面食らうかもしれないが、話せばきっとわかってくれるだろう。
「ゲンキくん。あのね……」少し口ごもったあと、葉実は思い切ったように高台寺を見上げた。「あたし……あたしもやるから! 事件の真相、一緒に調べるからね!」
眼差しに熱い決意が漲っている。
あれだけ怖い思いをしたというのに。
闇バイトの件もそうだが、葉実は一度やると決めたことは躊躇わない。失敗して打ちのめされたとしても、また立ち上がれる芯の強さがある。
危険なことはして欲しくないという気持ちと、葉実の成長と健気さを嬉しく思う気持ちとのあいだで、高台寺の心は揺れ動いた。
やっとのことで出てきたのは結局、当たり障りのない言葉だった。
「まずは試験に受からないとな。おまえも学力テスト受けるんだろ。がんばれよ」
「うん!」
そのときちょうど、尻ポケットに入れたスマホが振動した。
SNSに着信がある。ツカサからだ。連絡先を交換した矢先に一体、なんだろう。
『古林(ソウル)のスマホを誰が持つかって話になったんだけど』
続けて届いたメッセージに、高台寺は目を剥いた。
『担当、高台寺になったから』
「――なんで?」
思わず出てきた心の声と、同じ文言を打ち込む。
『本人の希望』
そのタイミングでアディが会話に参加してきた。
『俺はいい考えだと思う。組織の中から事件を調べるなら、内情に詳しいナビ役は必須だよ。たぶん古林さんも、記憶を取り戻す切っ掛けが欲しいんだろうね』
『というわけで、あとで持っていくから』
待ってろよ、とクマのキャラクターが指を突きつけるスタンプのあとに、販売URLが貼り付けられた。
「自作スタンプかよ!」
「見たい見たい。あっ、かわいい」
葉実にスマホを渡し、高台寺は困り果てて暮れなずむ空を見上げた。
電話越しとはいえ、おっさんを自分の生活環境に入れるのは抵抗がある。しかし、ナビ役が必要だという意見はもっともだ。実益だけ考えれば渡りに船ですらある。記憶が歯抜けとはいえ、なにせ事件を担当していた刑事だ。本気で調査に臨むならば受けるしかあるまい。
試験まで残すところわずか二ヶ月だが、どうやら、勉強だけに集中しているわけにはいかないようだ。
「……とりあえず、スマホのモバイルバッテリーを買うか……」
空に浮かぶ一番星を眺めながら、高台寺は独りごちた。
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